第6話 茜

 身体の内側から生じる自己主張。私はそれに答えるように、自分のお腹をさする。

「もうそろそろ会えるよ」

 今、どれだけ言葉がこの子に伝わっているのか、わからない。けれども、彼に語りかけることは、当たり前のことだ。なぜなら、確かに私の中に存在しているのだから。

 この子が生まれてきたら、どんな風に育っていくんだろう。私には兄弟がいないから、想像がつかない。

 男の子はとにかく元気だっていう。スポーツをやらせたらいいのかな。野球? それともサッカー? どちらに似ても、足は遅いだろうから、陸上は難しいかな。背が高い子だったら、バスケットボールでもいいかもしれない。

 そのうち、私のことを見下ろすくらい大きくなってくれるのかな。そうなっても、一緒出掛けてくれたらうれしい。もしかしたら、私がお姉さんと間違われちゃったりして。

 けど、男の子は思春期になったらお母さんと一緒に出かけるのを恥ずかしがるって聞く。じゃあ、難しい? でも、お父さんに似れば、優しい子になるだろう。だったら、大丈夫。あとは私の関わり方次第なんだろう。

 でも、恋人ができたら、流石に彼女が優先だよな。いや、彼氏かもしれない。その時、私は受け入れられるのかな。まあ、心配ないか。私は知っている。そんなこと関係ないって。どんな相手でも、この子がしあわせになってくれるのが一番だ。

 そうだ、ダイニングへ行かなくちゃ。私は立ち上がる。その時、何かが足に当たった。目を向けたら、幸一郎くんのお義母さんが送ってきた幼児英才教育の教材だ。

 お義母さんは子どもが男の子だとわかって、大喜びだった。まだ生まれてもいないのに、何かと物を送りつけてくる。「何事も早い方が良いから」なんていうけれども、私はいまいちピンとこない。

 崩れてしまった本を戻していたら、ダンスをしている子どもの写真が目に入った。スポーツは、ダンスでも良いかもしれない。なんていっても、良い見本が身近にいるんだから。


 ダイニングには誰もいない。水切りには綺麗に洗われた食器が置かれている。昨日の晩、幸一郎くんは朝早いって言っていたから、もう出掛けてしまったんだろう。さて、私はどうしようかな。

 その時、お腹がグゥと鳴る。そうだ、まずはごはんにしよう。私は冷蔵庫をのぞく。

 作り置きが少なくなってきたな。そろそろ何か作っておかなくちゃ。野菜室に目を移せば、ニンジンとゴボウが余ってる。そういえばこの前、英雄くんがきんぴらごぼうを作ってくれた。たしかバルサミコ酢を使っていたっけ。あれ、美味しかったな。そうだ、あれにしよう。

 でも、バルサミコ酢ってどこに置いてあった? 子どもができてから、私が使うものは下の棚に移しかえた。けど、私は普段バルサミコ酢を使わない。一応、確認してみたがやっぱりなかった。英雄くんはこの前、どこに置いてたっけ。私は記憶をたどる。そうだ、キッチンの上の収納だ。

 私は、なんとか取ろうと手を伸ばす。しかし、どうしても届かない。何か踏み台になるようなものはないかな? 椅子の上だったら確実に届くだろう。でも、流石に今の状況で、そんなリスクは犯せない。他に何かないかな。私は周りを見渡す。そうだ。踏み台があったじゃん。私はそれをキッチンまで持って来て、上にあがる。

 よし、なんとか棚の戸は空いた。やっぱり、ここにあった。手を伸ばせば、なんとか取ることはできそうだ。私は背伸びをする。その時、後ろから声がした。

「茜ちゃん、ダメだよ」

 英雄くんだ。

「自分だけの身体じゃないんだから。俺が取るよ。何が欲しいの?」

「バルサミコ酢」

 英雄くんは私の後ろに立って、さっと手を伸ばす。彼の身体が私の背中に触れる。胸の鼓動が早くなった。

「はい」

 英雄くんは取ったバルサミコ酢の入ったビンを私に渡してくれた。

「ありがとう」

「いや、ここに置いたの俺だよね。ゴメン。今度から気をつけるよ。で、何を作ろうとしてたの?」

「きんぴらごぼう。この前、英雄くんが作ってくれたのが美味しかったなと思って」

「そっか。あれ、気に入ってくれたんだ」

 英雄くんは、まんざらでもないって笑顔を浮かべる。

「じゃあ、俺が作ってあげる」

「えっ、でも。それくらい、自分でやるよ」

「茜ちゃんには迷惑掛けちゃったから、そのお詫びってことで。さあ、そこで座って」

 英雄くんは私を椅子に座らせると、冷蔵庫の中からルイボスティーを取り出して、二つのカップに注ぐ。彼は私にひとつ渡して、料理をはじめた。

 ルイボスティーを飲みながら、私は彼の背中をじっと見つめる。ティーシャツとハーフパンツにエプロンを着けている彼のうなじが描いている曲線は、綺麗だ。包丁の奏でる規則的なリズムが終わったかと思えば、たちあがるバルサミコ酢の香りが私の欲望を刺激する。

「はい、できたよ」

 英雄くんはお盆にごはんとお味噌汁、きんぴらごぼうの小鉢を載せて、テーブルまで運んでくれた。私は早速、箸をつける。

 やっぱり美味しい。英雄くんの料理を食べていて、幸一郎くんは私が作ったもので、満足しているんだろうか。もちろん、口では彼も「美味しい」って言う。英雄くんも「幸一郎はそんなに食べ物にはうるさくないから」とフォローはしてくれる。でもーー。

「茜ちゃん、具合悪くない?」

「大丈夫、大丈夫」

「そう? 険しい表情してたから。病院、いかなくていい?」

「今日、ちょうど検診日だから」

「そっか。だったら、俺、付き添うよ」

「そんな、いつも付き添ってもらって悪い」

「遠慮しないでよ。今日のスタジオレッスン、午後だから」

 私は断る言葉が思い付かなかった。


 検診が終わり、私は席に座って、お金の支払いをしに行った英雄くんを待つ。総合病院だからなのか、平日でも色々な人がいる。幸一郎くんには、お仕事があるから仕方ないけれど、英雄くんに頼り過ぎている気がする。

 もちろん助かってはいる。でも、彼を縛るものは何もない。今は英雄くんがいることでバランスが取れている。しかし、彼がいなくなった時、私と幸一郎くんはどうなってしまうんだろう。

「優しい旦那様ね」

 声の方を見れば、白髪交じりの品の良さそうなご婦人が、笑顔で私のことを見つめていた。

「はい」

 英雄くんのことを「旦那様」と言われるのは、初めてではない。とはいえ、説明をしたところで私たちの事情は、わかってもらえないだろう。だから、あえて否定はしない。私が答えたのを確認して、彼女は言葉を続ける。

「私たちの頃は女に任せっきり。うちの人なんて、生まれた日も仕事をしてて。息子と顔を会わせたのなんて、週末よ」

「そうなんですね。けど、彼は会社勤めじゃないので、付き合ってくれているだけなんです」

「あら、そうなのーー。まあ、今は男も女も仕事をして、一緒に子どもを育てる時代なんでしょうね。それができるなんてうらやましいわ」

「そうなんですかね」

「そうよ。女も仕事をしてれば、対等になれるじゃない。それに子どもの成長は、男にも分かち合ってあげた方がいいわ」

 私は幸一郎くんのことを思い出す。彼はお仕事で、この子とほとんど関われていない。私はそれでも構わないと思っていた。しかし、それは私の勝手な決めつけだったのかもしれない。

「そうですね」

「ちなみに、お子さんの名前はもう決めてらっしゃるの?」

「はい。お父さんの名前を借りて、悠一にしようかと」

 この子の名前は、英雄くんの「雄」と同じ音で「悠」、それに幸一郎くんの「一」を選んだ。

「あら、素敵。お父さんみたいになってほしいのね」

「はい」

 私は笑顔で応える。

「私が古風なのかもしれないけど、名付けって強いエネルギーがあるものよ。だから、そこに込めた思いは、きっとあなたたち家族にもたらされるわ」

 そっか。この子の名前が私たちのつながりをより強いものにしてくれるのだろうか。そうなるならば、うれしい。

「茜ちゃーん、お待たせ」

 英雄くんが支払いを済ませて帰ってきた。私が話をしているのに気が付くと、頭を下げる。英雄くんの手を借りて立ち上がり、彼女に礼を言ってから出口へと向かった。

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