第4話 幸一郎

 ホテルの窓から、眼下にきらめく夜景が見える。僕はソファに自分の身体を預けて、深くため息をついた。妙な浮遊感で、油断すると自分の身体のバランスを崩してしまいそうだ。まだアルコールが身体から抜けきっていないのだろう。自分でグラスに水を注ぎ、飲む。

 僕の周りには「結婚式は新郎にいくらでも飲ませて良いイベントだ」と思っているヤツが多いらしい。今まで飲んだことがないくらいの量を飲まされた。気持ちが悪くて、すぐには眠れそうもない。

 今日の母さんは終始笑顔だった。「幸一郎のこんな立派な姿が見られるだなんて思わなかったわ」だなんて言っていたっけ。

 やっと悪い癖が治った。きっとそう思っているんだろう。自分の願望ばかりが強くて、現実の僕を見ようともしない。

 この調子なら、次は「孫の顔が見たい」と言い出すに決まってる。結婚するのが普通。子どもを持つのが当たり前。現代では考えられない古さだ。自分も親になったら、同じようになるんだろうか。

 いや、そもそも僕が親になれるか、わからない。でも、その時に母さんの矛先が、茜ちゃんへ向かないようにしなくちゃいけない。全ては僕のせいなのだから。

 ベッドの上では茜ちゃんが静かに寝息を立てている。何も知らない安らかな顔だ。成り行きとはいえ、彼女をこんなことに付き合わせてしまって良かったんだろうか。

 全ては僕の弱さが原因だ。そう、はじまりは取引先との打ち合わせが終わって帰る、タクシーの中だった。


 平日の昼間ということもあって、道路にいる車はまばらだ。時速六十キロでタクシーはスムーズに会社へ向けて走っていく。僕が助手席でメールをチェックしていると、後部座席の真ん中に座った役員の加藤さんが、僕にねぎらいの言葉をかけてくれた。

「澤田くん。今日の資料、わかりやすかったよ。先方の反応も良かった。あの様子だったら、新しい取引も決まるだろう。よくやってくれた」

「ありがとうございます」

 僕は頭を下げる。

「うちの部署にいる安野といい、君たちの代は優秀で助かるよ」

 安野は業務の細かいところまでわかっているので、僕も一緒に仕事をする時には助かっている。イケメンだから、女子社員からも人気だ。加藤さんは言葉を続ける。

「そういえば、安野。今度、結婚するんだよ。聞いてるかい?」

「はい。おめでたいですよね」

 これで同期の中で、独身は僕だけか。今までも結婚していないことについて、周囲からは変なプレッシャーを受けていた。これからは、それを僕が一身に受けることになるだろう。正直、気が重い。

 社内に独身の先輩もいない訳じゃない。けれども、とある先輩が上司から冗談めかして「男が好きだから、結婚しない」なんていじられていた。それを聞いていて、まるで自分が不良品扱いされている気分になった。心の中でため息をつきながらも、笑顔をキープして僕は答えた。

「ああ。次は澤田くんだな」

「そうですね。良いお相手がいればいいんですが」

「ふむ。じゃあ、今、彼女はいないんだね」

「残念ながら」

「そうか。それは良かった。実はね、君に紹介したいお嬢さんがいるんだよ。会ってみないか?」

 しまった。役員の加藤さんから言われて、何の理由もなく断る訳にはいかない。どうしようか。

 いや、ここは前向きに捉えた方が良いのかもしれない。

 お見合いをしたけれども、上手くいかない。それならば、意思はあるけれども上手くいかない草食男子、という証拠になるだろう。

 それに僕はこれまで女性に恋愛感情を持たれたことはほとんどない。学生時代に彼女はいたが、あれだって周りから無理矢理くっ付けられたようなものだ。当時は「普通」になろうとしていたのでがんばったが、すぐダメになった。いつも通りにしてれば、きっと今回も上手くいかないだろう。

 僕は落ち着きを取り戻して、答える。

「わかりました」

「おお、君がそう言ってくれて嬉しいよ。じゃあ、後で詳細を送っておくから」

 加藤さんは満面の笑みを浮かべた。


 日曜日の昼下がり。クラシックをバックミュージックにおしゃべりをしている女性たちは、楽しそうだ。

 ホテルのラウンジなんて初めて来たが、こんなに人がいるとは思わなかった。

 僕はスマートフォンの画面を確認する。メールによれば、加藤さんの名前で予約を取っているらしい。到着して、ウエイターに声を掛けたら、席へ案内された。

 ソファに座っていると、年配の女性に連れられて同年代の女性が現れる。彼女は深いグレーのニットにゆったりとしたベージュのスカート、ペタンとした靴だ。視線は、あまり落ち着かない。年配の女性が話をはじめる。

「ごめんなさい。お待たせして」

「いえ、大丈夫です。どうぞお掛けください」

「どうも。はじめまして、澤田さん。私、加藤です。主人からは話を聞いてますよ」

「はじめまして。僕もいつも加藤さんには、かわいがって頂いてます」

「こちらは今井茜さん。私たちの姪にあたるんですよ」

 なんだって。まさか加藤さんが自分の親戚を紹介してくるなんて。どうしよう。なんとか相手から断ってもらわなくちゃいけない。とはいえ、彼女に失礼をして、嫌われても具合が悪い。

 いや、大丈夫だ。昔、取引先の人に無理矢理連れて行かれた合コンでだって、誰からも「連絡先を交換しよう」と言われなかった。いつも通り振る舞っていれば、きっと失敗するだろう。

 それから僕は丁重に、でも彼女に男性を意識させないように必死にがんばった。お陰でその日は家へ帰ってすぐベッドに倒れこんで、そのまま寝てしまったくらいだ。

 だが、彼女からの答えは「また会いたい」だった。そうこうしているうちに今に至る。

 後で茜ちゃんから聞いた話によれば、僕が彼女を「女性」としてではなく、「ひとりの人」として扱ったのが良かったらしい。

 私自身をちゃんと見ていてくれている。

 そう言っていた。好かれないように、と思ってやったことが、実は逆効果だったなんて皮肉なものだ。

 だが、茜ちゃんのそういう姿勢は僕にとっても心地よかった。恋愛感情は湧かないが、落ち着いた関係を築ける相手だ。もし、女性と結婚するならば、彼女以上の相手はいない。気が付いたらそう思うようになっていた。

 とはいえ、本当の僕を知ったら、彼女はどう思うだろうか。まさか自分の夫が男を好きだなんて想像すらしていないだろう。ましてや、一緒に暮らしている英雄と身体の関係を持っていたなんて。

 それは彼女には絶対知られてはいけない。だから、二人が顔を合わせて以来、僕は英雄とそういうことをするのは一切止めた。今でも英雄への気持ちはあるので、油断しているとグラっとしてしまうこともある。だが、理性でなんとか一線をキープしている。

 幸いにも彼女と英雄は気が合うようだ。二人だけで遊びに行くこともある。初対面の時の英雄の態度を見た時は、どうなることか心配だったけれども、取り越し苦労だったようだ。

 まあ、英雄は女性とも何人か付き合ったことがあると聞いている。僕より女性の扱いは上手いんだろう。

 それにしても、彼女が結婚した後も「英雄と一緒に住もう」と言ったことには、ビックリしたが。

 でも、それもきっと彼女の優しさなんだろう。僕はこれまで女性に恋愛感情を持ったことはない。きっと、これからもないだろう。けれども、彼女を目の前にして思うのだ。

 茜ちゃんを絶対幸せにしたいって。

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