第2話 英雄
六年前。
「はぁ」
俺は深いため息をつく。外は晴れている。だが、カーテンを開ける気にもならない。身体がマットレスに沈みこんで、そのまま起き上がれなくなってしまいそうだ。
アイツから別れを切り出されて、もう三ヶ月経つ。いい加減立ち直らなくちゃいけないのに。
男同士の恋愛なんて、長くは続かない。それが世の常。頭で言い聞かせても、心は反乱を起こしたままだ。
こんな風に頭がわかっているのに気持ちが追いついて来ないのは、アイツとまだ一緒に暮らしているからだろう。
本当は別れたらすぐにでも、この家を出ていかなくちゃいけなかった。けど、俺はしがないダンサー。引っ越しをするにしても、手持ちがない。こんなことだったら、一緒に住みはじめた一年前に、きちんと別れた時のことも考えておけば良かった。いや、無理か。あの時は明るい未来しか見えていなかった。別れる時のことなんて、頭の片隅にもある訳がない。
俺は寝返りをうつ。素肌に触れるシーツが心地いい。そうだ。俺がこんなに気持ちが沈んでしまうのは、アイツとまだ身体の関係があるからだ。それがまた俺の頭を混乱させる。
月に一度だけ。アイツは俺の身体を求めてくる。付き合いはじめて二年。別れを切り出される前は毎週していたことを考えれば、回数は減った。けど、身体のつながりがあれば、気持ちもつながっているんじゃないか、とつい勘違いをしてしまう。
俺も自分自身にこんなセンチメンタルな部分があるなんて、思いもよらなかった。男同士であれば、所詮排出行為だ。トイレへ行くのとたいして変わらない感覚の奴らだっている。
でも、それにしてはアイツの気持ちがこもっているような気がする。だったら、何で別れなきゃいけないのか。
いや、その答えはアイツの口から聞いた。女と結婚するからだ。世の中、パートナーシップ制が認められるようになったとはいえ、まだまだ男同士の関係に対して偏見は残っている。
俺はダンサーだ。業界の中にも同じような奴はいる。大きな声で言う訳じゃないが、暗黙の了解ってヤツだ。別に知られたって「個性のひとつ」くらいの認識だろう。公表しない奴が多いってことは、実際にはデメリットがあるのかもしれないが、窮屈さを感じることはない。
でも、アイツは会社員だ。そういうところで仕事をしたことがない俺には、わからない苦労もあるんだろう。けど、本性を殺してまで、どうしてそんなところに居続けるのかわからない。まあ、俺は自由に生きている結果、金がなくてすぐに引っ越しができない。それを考えれば、相応の見返りがあるんだろう。
それにアイツはひとりっ子だ。親からのプレッシャーもある、って言っていた。俺の親はこの性癖に薄々気が付いているのか「結婚しろ」と言わないが、アイツの親はかなりしつこいらしい。気がついていないんだろうか。いや、気が付いているからこそ、プレッシャーをかけるのかもしれない。
以前ネットの記事で読んだところによれば、親は「いつかは治るものだ」と信じているとのことだ。それにアイツは「付き合えば普通になれる」と思って、学生時代は女の子と付き合ったらしい。だから、親も希望にすがってしまうんだろう。
俺だって学生時代は彼女がいた。いや、いたなんてもんじゃない。だが、たった一度のきっかけで、本来の自分に気が付いてしまうんだから、人生はわからない。
まあ、お互いにそういう経験があったからこそ、アイツとは気が合ったのかもしれない。
この業界しか知らない奴は、即物的なタイプが多い気がする。情緒もへったくれも、あったもんじゃない。すぐに相手が見つかる弊害だろうか。身体のことばかりで、気持ちを盛り上げることを知らない。
で、たまに出会うわきまえた相手は、既婚者だったりする。そういう意味でも、アイツは貴重な存在だった。でも、アイツも既婚者の仮面を被った奴らと同じようになるんだろうか。安全圏にいたまま、いいとこ取りだけをするような輩に。だって、この状況がいい証拠だ。
あーあ、どうしたらいいんだろう。でも、俺にはこの苦しみを共有できる友だちがいない。ゲイタウンに顔を出していれば、相談する相手のひとりくらいはできたんだろうか。
ダメだ、ダメだ。普段あんまり考えないタイプなのに、自分に合わないことをしているから、どんどん気持ちが落ちていく。
こんな時は身体を動かした方がいい。何事もバランスが大切だ。考えることに意識を向け過ぎるから、悩みが深まる。一汗かくくらい身体を動かした方がいいだろう。
それにいい加減、トイレへ行きたい。身体の言葉に従え。そういう自分へのメッセージなのかもしれない。俺は重い身体を起こして、ベッドから出る。
そういえば、さっきからテーブルの上に置いていたスマートフォンが、何度も振動していた。誰からだろう。
手を伸ばして、画面を確認する。アイツからだ。なんだろう。こんなにいくつも連続でメッセージを送ってくるなんて。珍しい。最新のものは「早く返事をしてくれ」だ。アイツ、やっぱりまだ俺のことを好きなんだろうか。
その発想に思わず笑ってしまう。よくもそこまで自分に都合のいいことを考えられるもんだ。心はまだアイツに盗られたままらしい。
なんでそこまで思い入れられるんだろうか。それは俺にとってアイツが魂の双子のような存在だからかもしれない。一緒にいるのが、自然なのだ。ストレスがない。もし、仮に俺たちが結婚できる関係だったら、迷わずにゴールインしていただろう。
まあ、いい。とりあえず、チェックだ。俺はアプリを開いて、メッセージをさかのぼっていく。
何かが落ちる音がした。
それはスマートフォンだった。さっきまで、自分の手で持っていたのに。俺は慌てて拾って、改めて内容を読む。
「その部屋に婚約者を連れていくことになった」
そこにはそう書かれていた。
馬鹿野郎。そういうことは早く言え。アイツは俺よりも頭が良いって主張するけれど、これを見る限り、ウソとしか思えない。
大体、なんでそんな話になるんだ。アイツにはデリカシーってものはないんだろうか。
ああ。そんなことを言ってる場合じゃない。メッセージによれば、そろそろ到着してしまう。婚約者の家に行って、全裸の男が出て来たら、相手はなんて思うだろうか。
俺は慌てて、その辺りにあったパンツを履く。服も着なくちゃいけない。クローゼットから適当に見繕う。見られてまずいものはないだろうか。
見回したら、アイツの服が脱ぎっぱなしになっていた。俺の部屋にあるのは、明らかにおかしい。あのバカのルーズさには、いつも迷惑をかけられる。
そうだ。トイレにも行かなくちゃ。アイツの服を持って、俺はトイレへ向かう。他におかしいものがないか、チェックをしながら急ぐ。服を洗濯物入れに突っ込んで、トイレを済ませた。
他におかしいものはないだろうか。俺は改めて部屋の中を確認する。
いや、待てよ。隠さないといけないことなんて、あるんだろうか。もし、俺とアイツがデキていることを知ったら、婚約者との関係はきっと破綻するだろう。だとしたら、むしろ片付けない方がいいんじゃ?
その時、部屋のチャイムの音がする。ああ、もう。俺は玄関へ行く。いたのは、アイツ=幸一郎とひとりの女だった。
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