「やっぱ、上手だね。さすが、響」



 弾き終えた響に、先輩は柔らかな口調で言った。自分が奏でたどんな音よりも鮮烈で、それでいて美しい音色。


 先輩の声の譜面には、きっと「甘くdolce」と指示が書いてあるに違いない。あるいは「優しくtemeramente」。――そうでなければ「愛撫するようにaccarezzevole」だ。



「……あ……ありがとうございます」



 響は小さく会釈をして、先輩の方を向く。けれど、曇りのない微笑みを真っ直ぐに向けられているのに気が付いて、響は思わず目を逸らしてしまった。


 先輩の瞳は本当にズルい。ともすれば、見るもの全てをとりこにしてしまう魔眼に違いないと響は思った。菩薩のように柔和な双眸そうぼう。それでいて、その瞳の奥底には猛々しい獅子がんでいる。そこにきて、端正で中性的な顔立ちだ。この先輩の魔力の捕囚になってしまうのに、性別も、性癖も、人数も、関係なかった。


 そんな魅力チャームが、いまは響ひとりに注がれている。目を逸らしたのに、見られていると思っただけで、クラクラと眩暈めまいがして、頭が真っ白になってしまいそうになる。



「きょ……今日も、聴きに来てくださって、ありがとうございます。その……えっと……お疲れなのに」


「そんなことはないよ。むしろ、響のピアノは癒しだからね」



 放課後。

 二人だけのコンサート。


 その始まりは、本当にひょんなこと。部活終わりに何の気なしに弾いていたピアノを、先輩が聴きに来てくれたのだ。「すごくいい音色だったから、気になってね」と。初めは、自分のような地味な存在を気にかけるなんてと困惑した。それに、先輩とのこの関係が知られれば、周りから嫉妬や反感を買うのではないかとも警戒した。

 

 けれども、予想に反して、周りからは仲のいい二人と思われているようだった。そしてそのうち、響の方が、次第に先輩なしの生活を考えられなくなってしまっていた。


 目をつむれば、まぶたの裏にはいつも先輩の顔が浮かび上がった。



「いいんですか? ……いつも、いつも」


「? 嫌だった?」


「そ、そんな!! ――じゃなくて……」



 ……自分なんかのために。と言いかけて、先輩に制止させられた。先輩が浮かべたのは、少しだけ意地悪な表情。逢魔時の残光が作り出す顔の陰影に、ふと悪魔を感じた。それで、それまで早かった心臓が、瞬時に拍動を止める。



「確かに、響の音楽は、だけに……ってのは勿体なかったね」



 僕。

 それが、先輩の使う一人称だった。



「今度は、友達も連れて来るよ。そうすれば――」


「嫌ですッ!!」



 気が付けば、響は声を荒げてしまっていた。すぐに、ハッとして「いや……そうじゃなくて……」と言い訳を探しながら委縮するが、もう遅い。先輩はそんな殻に閉じこもりたそうな響を見て、ふき出した。



「ごめん、ごめん。ちょっと意地悪だったね」


「なッ!? あ、遊ばないでください!! r――」



 を呼び掛けて、口をつぐむ。


 響は先輩の事を名前で呼ばない。初めの頃こそ呼んでいたが、そのたびに先輩が嫌な顔をするのを感じ取っていた。先輩曰く、キラキラネームだから嫌なのだそうだ。ならば苗字で……とも思ったが、何か事情があるのか、いい顔はしてもらえなかった。


 響は先輩の唯一になりたかった。いまや響は、心の底で思っていたそれを、はっきりと自覚してしまった。だからこそ、自分が嫌になる。天に浮かぶ月のような仰ぐべき存在を、自分の唯一にしたいなどと下卑げびた考えがあることに耐えがたかった。自分が許せなかった。


 けれど……それでも響は、なりたいと思ってしまったのだ。――先輩を、下の名前で呼べる唯一の存在に。





「――好きですよ。先輩の名前」





 これが、響が言える唯一の言葉だった。先輩の名前を知った時、確かに珍しい名前だと思ったが、響はキラキラネームだとは思わなかった。むしろカッコいい名前だとさえ思った。



「先輩の名前の由来は、きっとなんです。だから――」



 素直にそう思った。先輩の友人は、先輩のことを渾名あだなで呼んでいたけれど、そんなことはしたくなかった。ちゃんと名前で呼びたかった。



「光かぁ……。響は物知りだね」



 それでも、先輩は自嘲気味に笑うだけ。そうやって、一笑に伏すだけで、名前を呼ぶことを許してはくれなかった。






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