「……響。何か嫌なことでもあった?」



 次の日の放課後。


 響は演奏を途中でやめた。奏でる音が、まるで自分のものとは思えないほどにけがれていたから。初めは気のせいだと思った。けれど、先輩でさえ不思議そうに首を傾げているのに気が付いて…………もう、弾けなかった。



「ごめん……なさい……」



 先輩に酷い音を聞かせてしまった。先輩の耳を汚してしまった。それどころか、先輩に気を使わせてしまった。そう思うと、途端にその場にいることが耐えられなくなった。先輩のような光の存在と、同じ空間にいて、同じ空気を吸っていることへの罪悪感で押しつぶされそうになった。



「すい……ません……!!」



 響は駆けだした。逃げ出した。制止を呼び掛ける先輩の言葉を振り切って部屋を飛び出した。未だかつてない速度で階段を駆け下り、そうやって闇が広がる世界へと転がり込む。身体が闇に溶けていく感覚を覚えて、響はもう戻れないのだと思った。


 いいや、初めから先輩と同じ場所にいたことが間違いだったのだ。二人だけの時間は、奇跡だったのだ。



「――おい!! 待てって!!」


「――ッ!!」



 初めて聞いた先輩の怒鳴りにも似た声に、響はビクりとして足を止めた。背後からがっしりと捕まえられて、心臓が止まる。先輩の熱が、呼吸が、拍動が伝わってきて――それでも、先輩とは一緒にいられないことを確信してしまう。



「あ……ああ……」

 


 その時、響は残酷を突きつけられていた。


 響の目に、一人の女性が飛び込んできたのだ。


 黄昏に染まる廊下に佇む彼女は、照り返しのせいで眩い存在に見えた。ふと、女性がこちらに気がつく。それでも――女性の目に、響に抱き着く先輩の姿が入っても、彼女は泰然自若と構えていて、先輩に対して「またアンタは……」と呆れ顔を浮かべている。立ち姿も、態度も、容姿も、自分とは比べようもないほどに大人びていて、ただただ魅力的な存在にしか見えない。

 


 先輩に、好きだって伝えたい。



 けれど、伝えたところで、先輩は恋人として見なしてはくれないだろう。誰にだって優しい先輩のことだ。自分の事を慕ってくれる後輩の一人として――せいぜい、特別な後輩だと思ってもらえるのがいいところだろう。



 だって。


 ――の一人称は、なのだから。




「先輩……俺……」




 自分の一人称を口にした瞬間、言葉が出なくなってしまった。「好きです」――たった四文字が、出てこない。嫌われるのが怖いのではない。父親の言葉が……「変な奴とは付き合うな」という言葉が、心臓深くに突き刺さってしまって、だからこそ言葉にできなかった。


 こんなにも短い言葉が。

 伝えられない。



「俺……、俺……ッ!!」


「……親となんかあった?」


「――ッ!?」



 どうして、分かったのだろう。だが、俺は小さくうなずく以外には何もできなかった。


 同時に、はっきりと分かってしまう。自分はまだまだ子どもであって、先輩の横に並ぶには不相応な存在なのだと。未熟な俺は、はなから完成された先輩のはかりの上にはいなかったのだと。理想の二人の間に、割って入れるような存在ではなかったのだと。



「どうすれば……大人になれますか?」


「それは、どうしようもなく悲しい事実を受け入れることだよ? いいの?」


 

 コクリとうなずく。

 すると、先輩はため息を一つ吐いた。



「大人になるってのはね。多分、『親でさえ所詮は理解者をよそおった他人』であると理解することなんだよ」

















 だからね響。

 僕も響が思うような、光の存在じゃないんだ。















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光の先輩、闇の後輩 げこげこ天秤 @libra496

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