第77話 TS病はいつか治る。意味がわかる(side理佳)

 文化祭の翌日。まだ太陽も昇らない朝三時。冬の始まりを感じる寒さの中、理佳ただよしは闇に紛れるような黒のジャージを着て、運動公園を走っていた。吐いた息が白くなって消えていく。もう三十分ほど走っているだろうか。頬には汗が流れ落ちていく。


 息が上がり心臓が激しく動いて全身に酸素を巡らせようと早鐘を打っている。


「やっぱり、変わらないや」


 いつもなら理佳の体には変化が起きるはずだった。女の子になり、声が高くなり、髪が伸びる。


 他の人には不思議なことでも理佳にとっては生まれてからずっと変わらない普通のこと。それがぱったりと起こらなくなっていた。


 自分の胸に触れてみる。ジャージの上からでも心臓が大きく動いているのがわかるのに、その後にやってくるはずの体への変化は少しも感じられなかった。


「治るのはまだ先だって聞いていたのに」


 TS病が治るのはだいたい十八歳から二十歳の間だと言われている。まだ不明なことが多い病気だからあくまでそれも過去の事例でしかないが、まだ十六歳の理佳の年齢を考えると明らかに聞いていたよりも早いと思えた。


 それに、何よりも問題なのは、変化しなくなった理佳の体は男のままだということだった。


虎徹こてつと別れてからでよかったかも、ね」


 公園のベンチに座って、汗を拭う。こうやって走るのは好きだったはずなのに、どうしてか今は少しも心が軽くなるような気がしなかった。


*  *  *


 体に違和感を覚えたのは、虎徹と信乃しのと別れて、保健室で休んでいるときだった。


 カーテンを閉めてベッドに横になった理佳ではあったが、演劇の疲れはあってもそれほど辛いということはなかった。どちらかといえば、せっかくの虎徹と信乃のデートを邪魔したくないという気持ちの方が大きかった。三十分くらい休んだら、一人で文化祭を回るつもりでいた。


 ベッドに横になって、演劇のことを思い出す。自分が主役だなんて絶対に無理だと思ったが、意外とうまくいって本当に良かった。部長も喜んでくれていたし、こんなことならもっといろんな人と話しておけばよかったと思う。


 そんなことを考えながら、軽く目を閉じて数分後だった。

 枕の下に広がった長髪が短くなっていく。毛先が首筋に触れてくすぐったい。


「あれ、戻った。おかしいなぁ」


 男に戻る条件は正確にはわかっていないが、ある程度心拍数が落ち着いた状態が続くと戻ることがわかっている。毎朝起きると、理佳は男の姿で目覚める。ぐっすりとお昼寝をした時は二、三時間ほどで男に戻ったこともあるが、三十分、それも起きたまま寝転がっていただけで、というのは初めてだった。


 理佳の中で仮説が生まれる。

 もしかして今、TS病が治ったのではないか。理佳の体はこれからの人生を男として生きることを選んだのではないか。


 理佳はすぐにその答えを確かめたくなかった。ただ、今の姿を虎徹に見られたくもなかった。


「先生、僕やっぱり家に帰ることにするね」


 カーテン越しに保険医に言う。あまり変わらないはずなのに、自分の声が低く戻っていることに感づかれないかとドキリとする。


「送っていこうか?」

「大丈夫。虎徹やしーちゃんに心配かけたくないから」


 姿を見られないように足早に保健室を出て、自分の教室に向かう。信乃の作った発表の展示会場になっている教室にはやはり誰の姿もなかった。展示された模造紙のタイトルが目を引く。


「女装の歴史かぁ」


 もし自分が男になったら、せっかく買った服も制服のスカートも全部女装という異質のものになってしまう。自分がスカートを履くなんておかしい、と一年前なら理佳自身もそう考えていた。


 自分は男で、女になるのは病気のせいなんだと。耐えて耐えて病気が治ったら、こんな中途半端な状態もモヤモヤする虎徹への想いも整理がつくのだと思っていた。


「病気、治らなきゃよかったのに」


 そうすれば、この気持ちはいつまでも持ち続けていられたのに。

 虎徹の顔が思い浮かぶ。心臓が締めつけられるような感覚がして、大きく胸が高鳴ったが、それでも理佳の体に変化はなかった。


*  *  *


 両親もまだ眠っている家に静かに帰り、理佳は着替えを済ませてベッドの上で膝を抱えて座り込んだ。


 昔は自分の体が女の子になったときは、こうして翌朝が来るのを誰にも見られないように部屋で小さくなって時が経つのを待っていた。


 こういう時に部屋に入ってきていいのは、両親と虎徹だけ。他の誰にも自分の女の子になっている姿を知ってほしくなかった。それが今はまったく逆で、男にしかなれなくなった自分を誰にも見てほしくなかった。


「これから虎徹にどんな顔して会えばいいんだろ」


 考えても考えても答えは出ない。太陽が昇って朝日がカーテンの隙間から差し込んできても、理佳は膝に顔を伏せたまま動き出すことができなかった。

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