第74話 自分じゃない誰かが虎徹と一緒にいる。意味がわかる(side理佳)
パイプイスが並んだ体育館には、続々と観客が入ってきていた。少し前から雨が降っている音が聞こえている。グラウンドや中庭でやっていた模擬店が中断になって、そこにいた人たちが流れ込んできているらしかった。
舞台袖から立ち見客すら入り始めている客席を見下ろしながら、
「まだ来てないなぁ」
もう何日も
その虎徹を遠ざけるのは、理佳にとっては半身を裂くような気持ちだった。それでも我慢し続けたのは、虎徹が理佳と付き合っていると思われたくなかったからだ。
ただでさえ虎徹は周囲から異質に見られている。それが男かもしれない相手と付き合っているなんて思われたら、虎徹はさらに周囲から浮いていくだろう。理佳にはそれが虎徹と話せないことよりも辛かった。
虎徹がいなくても理佳一人でやっていける。そう証明することで虎徹を安心させたかった。
まだ理佳はこれから先を男として生きるか女として生きるかが決まっていない。生まれてきてからずっと面倒な病気だとは思っていたが、今ほど自分の病気を恨んだことはなかった。
舞台袖に顔を隠すと、後ろから肩を叩かれて理佳は体を跳ね上げた。
「
振り返ると心配そうな表情の
「うん。さすがにね。あと今日は男のままで来ちゃったんだけど本当に良かったの? 女の子の役なのに」
「もちろん。別に女の子役は女の子じゃなきゃいけないルールなんてないんだからさ。それに九石くんは男の子でも可愛いよ」
「それって褒められてる?」
「褒めてる褒めてる。男女どっちの感覚も知ってるっていうのはちょっとだけ羨ましいかな。演技の深みが違う感じがするもん」
そう言った奔渡の言葉に嘘は入っていないようだった。両方の気持ちがわかるからこそ今の理佳は思い悩んでいるのだが、それすらも羨ましいと言われているようで理佳は何も言えなかった。
「さ、そろそろ始まるよ。最初のセリフは大丈夫そう?」
言われるままに理佳は自分のセリフを思い出す。大丈夫、毎日台本を読み返して必死に詰め込んだストーリーは頭に丸々入っている。
幕が上がる。ほんの数分の間にさらに観客は増えていて、立ち見の生徒は三列になって体育館の後ろに立っていた。
自分の素性と恋心に挟まれて思い悩む少女を演じながら、理佳の視線は観客席を何度も走っていた。
「あ、いた」
いつの間にそんなところに来ていたんだろう。並んだパイプイスの最前列の横に虎徹と信乃の姿を見つけた。視線が合うと、虎徹は当然のように気付いて小さく手を振っている。理佳は今すぐ手を振り返したい気持ちを抑えて役に戻った。
嬉しさと寂しさが押し寄せる胸中を隠しながら、演劇に向き合う。少し動揺した声が逆に演技の質を上げているようだった。
「私は嘘つきです。人間の振りをして、でも本当の私は」
声に涙が混じったような理佳の演技に観客たちから感嘆の溜息が漏れる。演技ではなく理佳の本心から出た言葉だった。
虎徹の隣に信乃が立っていた。その姿がとても似合っていると思ってしまった。
理佳がまだTS病が治ったときに女の子になる可能性を知らなかった頃、もしも虎徹が誰かと付き合うなら信乃がいいと思っていた。そのくらい信乃がすてきな女の子だと知っているからこそ、今の理佳には信乃の存在が気がかりだった。
寡黙で誤解されやすい虎徹に周囲の気持ちを察して立ち回れる信乃は、うまく虎徹を支えてあげられると思ってしまう。
もう一度虎徹の姿を探す。理佳の姿を真剣な表情で見つめている。それが理佳には何よりも嬉しかった。
「本当の私は、こんな姿ではないんです。本当の私は」
向き合う王子役の相手に言っているのか、虎徹に言っているのか理佳自身にもわからなくなって来ていた。
「醜い魔族の生き残りなのです」
視線だけを虎徹に向けながら訴えかけるように言い放つ。少し複雑そうに顔を曇らせた虎徹に気持ちが伝わったような気持ちになる。
心臓が跳ねる。今までこの大観衆の前でもそれほど緊張していなかった理佳の心音が体育館中に響いていくような錯覚がする。
苦しむように胸を押さえて理佳がうずくまる。少しざわついた観客の前で理佳の輝くような栗色の髪が伸びていく。
「私の本当の姿はこんなに醜い姿なのです。私に愛してもらう資格なんて」
そう言いながら、理佳は虎徹に刺すような視線を向けた。虎徹は今にも舞台の上に駆け上りそうな勢いで、引き留める信乃を引きずっていきそうな勢いだ。理佳が何も言わなくても目だけで気持ちは伝わる。虎徹も何かを察したように舞台に上がろうとするのをやめた。
「関係ありませんよ。私にとってあなたはただこの世界に生きる、私が愛した存在ですから」
王子の告白に応えるように理佳が微笑んで手をとると、やや忙しく幕が降りてくる。幕が完全に降りると同時に部長と奔渡が理佳に駆け寄ってくる。
なんとかやりきった。虎徹がいなくても最後までやり遂げた。だからきっと大丈夫。これで虎徹に自分のことを世話しなくてもいいと見せることができた。
そう考えながらも、こんな状態じゃ余計に虎徹に心配をかけただけな気もする。
「九石くん、大丈夫?」
「はい、すみません。急に変わっちゃって。緊張したせいかもしれないです」
「いや、体が無事ならいいんだよ。演劇としては演出のようになっていて素晴らしかったよー。本当に君に頼んでよかったよー」
部長が理佳に抱きつく。すると後ろから首筋をつかむように奔渡が部長をひっぱった。
「ほら、離れた離れた。九石くんは念のため保健室行く?」
「うん。でも付き添いは大丈夫だよ。たぶんもうすぐ来るから」
「来る? 誰が、ってああそうか」
奔渡が納得したように手を打つと同時に、舞台袖の控室に虎徹が入ってくる。隣には心配そうな表情をした信乃が立っている。
「理佳、大丈夫か?」
「うん。でも今回は念のため保健室には行くことにするよ。緊張しすぎたかな」
そう言うと、虎徹は無言で理佳の体を抱え上げる。あまりにも自然で演劇部員は何も言えないまま、理佳たちを見送ることしかできなかった。
虎徹に体を預けながら、理佳は今まで我慢していた虎徹の体温を感じていた。
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