第73話 本当の自分に戸惑う。意味がわかる(side梓)

 自分の声はこんなに高かっただろうか。


 驚いた顔で振り返った虎徹こてつの顔で、今の声が自分のものだったと確信する。普段なら取り繕うための言葉の一つや二つくらいすぐに思いつくのに、今のあずさの頭の中には何も浮かんでこなかった。


「別にいいが、こっちは何もないぞ」

「わかってます。わかってますが、少しだけ」


 ほんの数秒前に、どんな口調で話していたかさえも梓はよく思い出せない。

 そもそもわたしはどんな風に話していただろうか、と考える。もう何年も素の自分を外に出したことはなかった。


 自分は男であり女である。そういう生き物なのだと自覚したときから、梓は自分の生き方を決めた。どちらの性別であっても誰からも文句の言われないような人間になる。理想そのものを体現すれば、それに口出しなんてできるはずなどない。


 そうすることで性別の変わる気味の悪い生物ではなく、難病と戦う健気な人間と周囲に見てもらうことができる。同時に自分を守る方法になると思っていた。


 男とは力を持っていることが理想だと思ったから、格闘家を目指した。

 女とは美しさを持っていることが理想だと思ったから、モデルを目指した。


 両方とも才能に恵まれていなかったとは言わない。しかし、努力を積み重ねてそのどちらも叶えた。多くのものを犠牲にして。本来の自分もその一つだった。


「私は、ずっと理佳ただよしさんが羨ましかったんです。男でも女でも関係なく接してくれて守ってくれる虎徹くんがいるなんてズルいって」


「俺は、そんなに大したものじゃないぞ」


「ありますよ。わたしのことをおかしい、気持ち悪いって言った人間がどれくらいいると思いますか? 私を産んだ母でさえそう言い放ったというのに」


 誰も理解してくれない。ただの人間であるうちは。この気味の悪い病気を抱えて生まれた以上は、それ以上の価値を生み出さなければ誰にも認めてなどもらえない。


 そう思っていたからこそ、ここまで努力を続けてきたのに。初めて理佳と会ったとき、梓は生まれて初めてこの世界にいないと思っていた人間を見たのだ。


 TS病の存在をそのままに受け入れて、理佳を支え続ける虎徹の言葉を嘘だと思ったことはない。


「私はずっと、理佳さんの隣にいるあなたがいてくれたら、と思っていたんです。私の幼馴染だったら、子供の頃から、私のことを見ていてくれたら」


 梓はそこまで言って空っぽになった肺に空気を吸い込む。そして、消え入りそうな声で漏らす。


「私のことを好きになってくれたら、とずっと思っていたんです」


 梓は初めて自分の言葉で虎徹と話したような気がしていた。


 今までは自分の頭で書いた台本のセリフを読み上げていたようなものだ。そもそもずっと理想の自分を演じて生きてきたのだから、こんなに簡単に涙を流すような人間だったのだと、梓自身驚いていた。


「でも俺には理佳が」

「理佳さんは関係ありません! 私だけを見てほしいなんて言いません! でも、私が虎徹くんの一番じゃいけませんか?」


 すがるように虎徹の肩をつかむ。なりふり構わないこのしぐささえも今は自分らしいと思う。取り繕っていたのがいけなかったのだ。本当に欲しいものは策略では手に入らない。こうやって素の自分で求めるしかなかったことに梓はようやく気付いた。


 だが、やはり遅かったのだ。


「そんなに割り切れるほど、俺は器用じゃないんだ」


 虎徹は梓から少しだけ顔を逸らして、小さく呟くように言った。人を傷つけることを嫌う虎徹だから、はっきりと言えないことくらい今の梓にはわかってしまう。


「やっぱり。理佳さんが自分から身を引いたって、虎徹くんは諦めないんですね。引きずり下ろしたって、何の意味もなかった。私が、自分に言い訳をしていただけだったんですね」


 自分にそう言い聞かせても、梓の目からこぼれる涙は止まらなかった。空から降る雨が自分の目から全部流れていくような錯覚さえする。


「俺は、お前とironアイアンで会えたときに結構救われたぞ。最初から俺の顔をまっすぐに見て全然怖がる素振りもしなかった。そんな人間は理佳以外で初めてだったからな」


「それじゃ、私たちが出会ったことに意味はあったんですね」


 梓は自分を取り戻し、虎徹は初めて例外を見つけられた。きっと自分たちの出会いの結末はそこまでしか辿りつけないのだ。


「きっと、いつか後悔しますよ。私を振るなんてこの世の男とは思えない所業なんですから」

「……そうかもしれないな」


 虎徹はきっとそんなこと思っていないだろう。そう思うと梓はようやく笑えてくる。まだきっとこの人から未練を引き離すことはできないだろう。


 彼が誰を選ぶのか。ずっと一緒にいる幼馴染なのか、自分以外を見ていないほどまっすぐな女の子か。

 そのどちらかの結末を見届けるまでは。


「こんな顔じゃ一緒にいられませんから。もう行ってください」

「いや、それはさすがに」

「虎徹くんがいたらずっと泣かなきゃいけないでしょう。ちょっとは考えてください」


 つかんでいた肩を強く押す。重いはずの虎徹の体は思っていたより軽くぐらついた。

 今はあの獣のように輝きながらも誰よりも優しい瞳もまっすぐに見られそうもない。虎徹は顔を伏せた梓の頭を優しく撫でると、足音も立てずに去っていった。


「結局、私は一度も勝てませんでしたね」


 誰もいない廊下で、梓は降り続く雨空を見つめながら両目を拭った。

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