第67話 普段の自分が思い出せない。意味がわからない(side信乃)

 学校近くの市立図書館に向かい、歴史の解説書やエッセイの背表紙を眺めていたが、ピンとくるものは見つからなかった。


「適当にやるって言っても興味のあるものじゃないとなかなかやる気にならないわ」


 歴史を調べるといっても、文化史となると数百年、物によっては千年もさかのぼっていく必要がある。せめて少しくらいの好奇心が湧くものでなければ、一人で資料を読み進めるのは辛いばかりだ。


「興味のあるものって言ってもなぁ」


 元々信乃しのは俗っぽいものには惹かれない性質たちだった。中学生の頃や高校でも虎徹こてつに出会うまでは勉強だけ熱心にしていて、他のことにはあまり興味がなかった。周囲がテレビドラマや人気の動画配信者の話をする横で、脇目も振らずに勉強をして、ようやく人より少しだけいい成績をとれる程度だった。


 そんな信乃にとって興味のあるもの。それは自然と周囲の人間の影響を受ける。

 虎徹の格闘技、理佳ただよしのTS病。それくらいならネットで調べたり雑誌を立ち読みしたりもする。


「でもTS病なんて調べるって言ったら、こてっちゃんは大反対だろうなぁ」


 ただでさえ分かっていないことが多い病気だ。信乃が調べたことが事実とは限らない。それでも理佳は信乃が調べたから、と信じてしまうかもしれない。虎徹はきっとそれを許さないだろう。


「他に、って言われても困るよね。いっそ勉強っぽいのに全力とか」


 独り言を漏らしながら本棚を見ていると、ふと一冊の本のタイトルに目が留まった。


「女装の歴史、かぁ」


 とりかえばや物語は男装の女の子と女装の男の子が入れ替わって生活する話。そこから興味を持って調べたと言えば動機は十分ある。それにおとこだったはずの理佳が最近は女の子らしい服を着ていても平気なようにしているのが気になっていた。


 手に取って目次を追ってみる。女装というのは何も近年になって生まれた文化ではない。歴史をたどればヤマトタケルノミコトが女装をして敵を油断させて倒した話があるし、日本伝統の歌舞伎には女形おやまと呼ばれる女性の役をする役者がいる。


「なんかいけそうかも」


 そうと決まれば信乃の行動は早かった。蔵書検索で関連する本を調べ、片っ端から読んでいく。気になったことはノートに書き並べていく。こういう調査と整理は得意だった。数日図書館に通い、気になった本は土曜日に出かけて探しに行った。一週間も経たないうちに大学ノート数十ページ分の資料ができあがっていた。


 放課後、そのノートを持って虎徹と内日うついに見せびらかすと、二人から称賛を含んだ溜息が漏れた。


「すごいです。こんな短期間で準備してしまうなんて」

「そういえば信乃は元々勉強しかしないクソ真面目な奴だったな」

「褒めるんだったらもっと言い方あるでしょ」


 信乃は少しふてくされながらも、声は弾んでいた。虎徹と普通に話せるのなんていつ振りだろうか。そういえば目の前の仕事に夢中で、ここ数日は虎徹のことを意識していなかった。そのおかげで久しぶりに普通に虎徹と話せるのだから皮肉なものだ。


「それじゃ模造紙への下書きでも始めるか」

「今時マジックで模造紙ってアナログだよねぇ。パソコンとか使ってなんとかならないの?」

「このサイズの印刷は学校のプリンタじゃ無理ですね」


 そんな話をしながら、まずは場所を確保するため、信乃たち三人以外誰もいない教室の机を動かしてスペースを作った。


 汚れないように軽く掃除もして準備万端。ロッカーの上に丸めて置いてあった模造紙に信乃が手を伸ばしたときだった。


「お、やっぱ空いてんじゃん。うちのクラス誰もいなかったからさ」


 女子が五人。ぞろぞろと教室に入ってくる。真ん中で周りを引っ張って歩いてきたのは信乃のクラスの人間だということはすぐにわかったが、他の顔は見覚えがなかった。


「何? これからクラス展示の準備するんだけど」

「うちの部活でダンスやるんだけど、練習場所無くてさ。ここ使わせてよ。ちょうど机もどけてくれて助かるし!」


「いや、これから使うんだって」

「いいでしょ。苗羽のうまさんは私らに文句言える立場だっけ?」


 それを出されると、信乃はもう反論できない。今はまだ戦犯の身。文化祭が終わるまではクラスメイトの言いなりだった。


「しかたないか」


 信乃が一歩道を譲るように横に避ける。その譲られたスペースを守るように、虎徹が前へ出た。


「これからこの教室は俺たちが使う。失せろ」


 地獄の底から響いてくるような低い声だった。死神も逃げ出すような恐怖。虎徹に睨まれた女子たちは、まばたきも呼吸も忘れて、石像にでもなったように直立不動で静止している。


 みんな忘れている。いや、ただ知らないのかもしれない。虎徹が普段、どれほど周囲に気を遣っているのかを。普通にしているだけで周りから逃げられ泣き叫ばれる虎徹は、これでも普段はできる限り優しくふるまっている。


 それをやめれば、恐怖がかろうじて人間の形をしているだけ。凶悪な三白眼で睨まれれば誰でもビビる。虎徹にとって普通の声は、他人が聞けば死の宣告よりも恐ろしく耳から脳の中心まで貫く。


「聞こえなかったか? 失せろ」


 トドメだった。

 クマから逃げるように虎徹の方から視線を逸らさず、女子グループは教室から後ずさりしたまま出ていった。


「こてっちゃん。別に私は明日でもよかったのに」

「机もどけて掃除までしたんだ。いまさら譲ってやれるか」


 虎徹はそう言ったが、信乃にはどうして虎徹が怒ったかがわかる。体育祭の演劇のことを笠に着て、信乃のことをバカにしたのが許せなかったのだ。


「じゃあこてっちゃんが守ってくれてるうちにさっさとやっちゃいましょっか」


 丸めた模造紙を広げる。ようやく普段の自分が戻ってきたようで、信乃は面倒なはずの作業も楽しく思えてきた。

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