第59話 本物のキスからは目が離せない。意味がわからない(side理佳)
どうしてもやりたかった舞台。
演劇の幕が強引に閉じられ、隣のテントからは怒声と謝罪の声が聞こえてくる。それでも理佳は何も言えないまま、呆然と暗幕のかかった舞台の方を見つめていた。
「そっか。そうだよね」
ようやく口を開いた理佳からこぼれた声はそれだけだった。
「
「はい」
短く答えて理佳は保健医に支えられながら立ち上がる。次のクラスの準備が整って幕が開いたが、来賓席も観客の生徒たちもさっきの衝撃が冷めやらず、誰も舞台には集中できていないようだった。
虎徹と信乃を残していくのが不安ということはなかった。むしろ自分がいない方が虎徹は信乃の話をちゃんと聞いてあげられるかもしれないとすら思えた。
保健医の車の助手席に乗せられて、近くの大きな病院に連れていかれた。もう連絡が病院に入っていたらしく、それほど待つことなく理佳は整形外科の診察室へと連れていかれた。
「うんうん。捻挫だね。ちょっとひどいから二週間くらいは運動は控えてね。長く歩くのもダメだよ」
医者の話をぼーっとしたまま聞いていた理佳は、ふと自分が
TS病の権威である五倍木だが、小さな診療所をやっているだけあって、風邪を含めた感染症やケガなんかも対応できてしまう。虎徹に守られてTS病以外には大きな病気やケガをしてこなかった理佳には、五倍木以外の医者にかかる必要がなかった。
それだけ理佳は虎徹に守られ続けてきた。幼馴染という深いが決して絶対ではない関係の二人。虎徹は理佳を気味悪がって距離を置いても責められるものでもない。それなのに、虎徹は何の見返りも求めずに理佳を守ってきたのだ。
「僕って、虎徹のお荷物なだけなんじゃないかな」
会計を待ちながら一人待合スペースのベンチに座って、理佳はそうこぼした。
演劇の最後のシーンを思い出す。熱烈なキスシーンだった。恋愛ドラマで何度か見たのはニセモノだったのだと理解させられた。本当のキスは、視線を吸い込まれるような凄さがあった。それは信乃の気持ちが本物であることを証明していた。
「お待たせ。お家まで送るわ。ご両親はいるの?」
「今日は二人とも仕事で遅くなるって」
「そうなの。うーん、どうしようか」
「いつものことだから。たぶん、何か買い置きのものがあると思うし」
肩を支えられながら病院から出ると、額に汗を浮かべた虎徹が走ってくるところだった。
「理佳、どうだった?」
「大丈夫。って体育祭は?」
「もう終わったよ。片付けは他の奴らに任せて抜けてきた」
虎徹は理佳の足に巻かれた包帯を見て、重症でないことは理解できたようだった。荒い息を深呼吸で整え、最後に大きく息を吐く。
「そういえばうちのクラスはどうだったの? 優勝した?」
「最下位だったよ。キスシーンなんて学生らしくないって演劇が零点だったからな」
「あちゃー、そっか」
理佳はそう答えたが、心はここにあらずという様子だった。演劇の話をするだけで虎徹と信乃がキスしていたあの瞬間だけがずっと
「それじゃ帰るか。おぶってやるよ」
「ううん。先生が送っていってくれるって」
「あぁ、そうか」
さすがの虎徹も車には勝てない。諦めたように理佳の頭を優しく撫でる。
「あ、でも今日はパパもママも遅くなるから、晩御飯は作ってほしいかな」
「あぁ。わかった。後で絶対に行く」
「約束だからね。あ、そういえばしーちゃんは?」
「ちゃんと逃がしてきた。あいつのせいで負けちまったようなもんだったからな」
「よかった。安心したよ。それじゃ、また後でね」
理佳は保健医の前で付き合っているということがバレるのが怖かった。早く虎徹との話を終わらせて逃げるように保健医の車に乗り込む。
晩御飯を作りに来る仲というのをどう思ったのかわからなかったが、車で送っていく間、保健医はそれに触れることはなかった。
虎徹は約束通り、スーパーで買ってきた食材を持ってやってきた。今日はいっぱい体を使ったから、と山盛りのサラダにトンカツが理佳の前に並べられる。勝つとかけて体育祭の前日に食べるもののような気がする。虎徹は理佳を慰めたかったのかもしれなかった。
今日はいっぱい動いたからか、それともケガしたところに栄養を与えたいのか。いつもより理佳の口も手も止まらなかった。すっかり食べ終わって、二人並んで片付けを済ませる。
「ねぇ、ちょっと部屋に来てよ」
洗い物を拭きながら、理佳はそう短く言った。その声が思った以上に重苦しく、言った理佳の方が驚いたほどだった。
夏にほとんど出かけなかった理佳の部屋は虎徹が片付けていたが、いつの間にかまたごちゃごちゃと物が散乱していた。
「またずいぶんと荒れてるな」
「虎徹が片付けてくれなかったからね」
ベッドに腰かけ、理佳は包帯のまかれた右足を少し撫でる。
「理佳。大丈夫か」
あの虎徹が雰囲気に怯えたように聞く。珍しい虎徹の姿を笑えるほど、理佳にも余裕がなかった。
「あんまり大丈夫じゃないかな」
「おい、足以外にもどこか悪いのか?」
「うん。だってあんなの見せられたら、無事じゃいられないよ」
ビクリと体を跳ねさせた虎徹を見上げる。こんな気持ちじゃなければもっと怯える虎徹を見ていたかったのに。
「だからね、虎徹。僕たち、別れようか」
今ならまだ、きっと傷は少なくて済むから。理佳が選んだ答えは、虎徹の気持ちが入る余地など少しも残されていなかった。
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