第58話 理佳の代わりになんてなりたくない。意味がわからない(side信乃)

 演劇の準備はグラウンドで進んでいる。演者たちは普段は体育の授業前に使う更衣室で着替えをする手はずになっている。


 信乃しのは本当なら大道具の手伝いをする予定だったのだが、今は理佳りか用に用意された少し丈の長い浴衣に袖を通していた。


「しーちゃん、僕の代わりに若君やって」


 理佳ただよしが言い出すことはなんとなく予想していた。信乃の頭には若君のセリフも動きも完璧に入っている。虎徹こてつの顔が近づいてきてもビビるはずもない。これ以上ない適役だった。


「だって虎徹の恋人の役をやるんだよ。僕以外に任せられるのはしーちゃんしかいないから」


 理佳の言葉を思い出す。信乃は少しだけ悔しさを感じて唇を噛んだ。理佳の代わり。虎徹と理佳が恋人である以上、信乃がなれるのは代わりまで。それも演劇の舞台の上で、だ。


「嫉妬なんてしてない。私は二人を応援してるんだから」


 自分に言い聞かせるように信乃はつぶやく。妻の浮気相手と体を重ねた若君の気持ちが少しだけわかる気がした。


 体育祭には似つかわしくない演劇の舞台がグラウンドの中央に防球ネットと暗幕で作られていた。正面は来賓席の方に向けられ、一年生と三年生は舞台が見える場所へと好き勝手に移動して座っている。


 浴衣とはいえ、豪華さを出すためにいろいろとつけた装飾が重くのしかかる。通気性も悪くなり、残暑が信乃に襲いかかってくる。


「大丈夫か?」


 暗幕の裏で待機していると、虎徹が隣に寄ってくる。顔には出していないが、落ち着かない様子で何度も救護テントの方を見ている。理佳がケガをしたんだから当然だ。それでも信乃からすれば、だいぶ虎徹は冷静になったと思う。


 去年の虎徹なら信乃や周囲の制止を振り切って、理佳を抱えて病院まで走っていてもおかしくない。それを思えば、保健室で済んだのはある意味虎徹が成長していると言えなくもない。虎徹の中で理佳はただ守るべき存在から並んで歩く存在に変わっているのだ。


「うん、大丈夫。こてっちゃんこそ、相手が変わったからってセリフ忘れないでよ」

「あぁ、忘れたら前みたいに適当にごまかすさ」


 虎徹が微笑む。大丈夫、少しは余裕がありそうだ。


「よーし、次は私たちの番だよー」


 六戸ろくのへの声が上がる。この声に押し出されるように虎徹と信乃、そして内日うついが次々に炎天下の舞台へと上がっていく。


「あぁ。麗しき中納言の声が聞きたくてここまできたが、なんと美しいお姿。噂には聞いていたがまさかこれほどの方だったとは」


「あぁ、いけません。このようなこと誰かに知られたら、生きてはいけなくなってしまいます」


 大きな体格の虎徹から柔らかで風流な声がグラウンドに響く。それに応えるように声を張れない内日が必死に虎徹についていく。それだけでグラウンド中の視線が一点に集まった。


 二人のやりとりを推理するように、若君役の信乃は舞台の端で立ち上がったり回ったりしながら想いをせる。偽装結婚とはいえ妻を奪われたことに対する嫉妬か。それとも男と思いながらも親しく近づいてきた宰相中将さいしょうのちゅうじょうに対する嫉妬か。


 逢瀬おうせを重ねる四の君に続いて、自分にも手を出す宰相中将に若君は苛立ちを覚える。しかし男に迫られるという初めての経験に断り切れずにいる中で、ついに自身の隠していた正体を知られてしまう。


 最後のシーンは虎徹と信乃の二人きり。宰相中将の告白に若君が答えるというオリジナル展開となっていた。


「あなたが女であれば、とどれほど願っただろう。それが現実になるなんて。いったいどの神様にお礼を言えばよいでしょう」


「あなたはそうやって新しい女には愛を語らいながら、飽きてしまった昔の女にはろくに会いもせず捨ておくのでしょう。私にはその手は通用しません」


「他の女性と会っているときも常にあなたのことを想っていたのです。飽きることなどあるはずもないでしょう」


 虎徹の顔が目の前に迫る。完全に演技に入っている虎徹はいつもと雰囲気がまるで違っていた。瞳は本当に恋をしている男にしか見えない。その瞳に映っているのは若君の姿をした信乃だった。


 顔が赤くなる。セリフが飛ぶ。


 なんて言えばよかっただろう。宰相中将を拒絶し続けるんだっけ。でも今回の物語では原作と違って、若君は宰相中将と結ばれて一緒に逃げるんだっけ?

 ぐるぐると信乃の頭の中で考えが巡る。


「おい、どうした?」


 虎徹が演技を壊さないように体を寄せながら、小声で信乃の耳元でささやく。それが余計に信乃を動揺させた。


「さぁ、共に参りましょう。宇治に館を用意してあります。そこに身を隠してください。あなたが消えたとなれば騒ぎとなるでしょうが、いずれきっと人の口に乗らぬようになります。その時は私の妻としてまた京で暮らしましょう」


 虎徹の甘い誘惑の言葉が信乃の耳に入ってくる。本当なら理佳が聞くはずだった言葉。そう思った瞬間に信乃の中で押さえつけていた気持ちが風船が割れるように弾け飛んだ。


「もう嫌なの。私は、私は代わりなんかじゃないの。私だってきれいなお姫様になりたい。あなたは誰に向かってそう言っているの? ねぇ、私のことを好きになってよ!」


 そのセリフは台本にはない。信乃が言ったのか、若君が言ったのか。それは目の前で見つめられたまま聞いた虎徹にさえもわからなかった。


 若君の言葉なら、はいと答えて舞台を下りればいいだけだ。だが、虎徹は何も答えなかった。すでに二人しかいない舞台の上ではフォローのできるクラスメイトもいない。


 信乃が座っている虎徹に飛びつく。近付く顔に驚いて一瞬固まった虎徹の唇に、信乃の唇が重なった。


 呆然とする観客たちの中で内日が大きな暗幕を持って舞台の前に走ってきた。緞帳どんちょう代わりに使われる。舞台の準備中に即席の舞台上を隠すためのものだ。


 そのまま暗幕の向こうに隠された信乃は、虎徹に抱きかかえられながら舞台袖へと隠された。


*  *  *


 来賓席は今見せられた生徒同士のキスシーンの混乱で騒然としていた。教師が苦言を呈する教育委員会のお偉方にぺこぺこと頭を下げている。その隣で、ひときわ目立つプラチナブロンドの髪に黒のワンピースを着た女性が一人、小さく手を叩いて、信乃の雄姿を褒めたたえていた。


「そうですわよね。虎徹様と理佳様が恋人になって、一番心に傷を作るのは信乃様、あなたですもの。私はあなたを侮ってなどいませんでした。遅かれ早かれこうなると思っていましたわ。私の策の切り札ジョーカーはあなたでしたのよ」


 すべては計画通り。千両梓ちぎりあずさは真っ黒な帽子の下に隠れて、微笑みを浮かべる。


「それにしても、ここまで大胆なことをするとは思っていませんでしたわ。私でもあそこまで大胆なことはできませんわ」


 赤くなった頬を隠すように帽子を目深に被りなおして、あずさは周囲に表情が見られないようにうつむいた。

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