第50話 朝目覚めると男になっている。意味がわからない(side理佳)

 ベッドの上で目を覚ます。絡まった髪を手ぐしでとかしながら洗面台に向かう。もう太陽は高く登っていた。鏡に映る僕は男の理佳ただよしだった。


 夏祭りの日から、なんとなく外に出たくなくて、毎日ぼんやりとした気分のまま部屋で過ごしてばかりだった。


「本当は虎徹といろんなところに行くはずだったのになぁ」


 ぬるい水で顔を洗う。濡れた手のまま髪を触って寝癖を直した。


 虎徹と信乃がお似合いに見えたのは、そんなにおかしくないと思っている。あの虎徹が気を許しているってだけでもそう言われるだけの理由がある。理佳の心に刺さっているのは、それとは別の事実だった。


「ほら、あの子はTS病だから」


 その後ろに続く言葉を理佳は飲み込んだ。


 理佳は戸籍上の性別は男ということになっている。性別が変わるTS病だが、研究が進み心拍数の下がった時間が続いた後の性別が生物学上の性別ということになっている。


 もちろん完治した後には手続きを踏んで自分の性別が変更されることもある。しかし、裏を返せばそれまでは理佳がどちらの性かはふわふわと浮いたままの状態ということだ。


「ちょっとくらい走ってきてもいいかな?」


 鏡に映る自分に聞いてみる。答えは決まっている。理佳は部屋に戻って衣装ケースの底に眠っていたジャージを引っ張り出すと、着替えを済ませて暑さで景色が揺らめくような夏の道路に飛び出した。


 理佳はあまり運動は得意じゃない。そもそも子供の頃から運動は禁止だったし、球技なんかもセンスがない。


 ただ走るのだけは好きだった。

 何も考えずただ呼吸が苦しくなることと向き合う時間。それは悩みの多い理佳にとって最高の避難所だった。


 髪が伸びていく。ジャージの中に入り込んだ髪の先が首筋を撫でる。ほんの数ヶ月前は女になる自分の体が嫌だったはずなのに、今はずっと女でいたいと思っている。


理佳りか?」


 不意に名前を呼ばれて立ち止まった。


「虎徹。どうしたの?」

「暑いからアイスが食べたくなって買ってきた。理佳こそこんな暑いのに走ってたら倒れるぞ」

「大丈夫だよ。無理はしないって。ちょっと走りたい気分だったから」


 微笑みで返した理佳の顔を虎徹が覗き込む。


「この後、理佳の家に行っていいか?」

「え? えっと、別にいいけど」

「じゃあアイスを家に置いたら行く」


「あ、ちょっとそれは早すぎ! 僕だって帰ってシャワー浴びたいし、部屋も汚いままだしっ。アイスゆっくり食べてから来て! 一時間くらい。お昼ご飯は、一緒に食べたいかもだけど」


「わかった。スーパーに寄ってから行くよ」


 別れ際、虎徹は理佳の頭を優しく撫でる。何を考えているのか、全部読み取られているみたいだった。


 急いで家に戻って、スポーツドリンクを飲み干す。シャワーを済ませて部屋に戻る。ジャージを探したときのままの部屋は、服がいっぱいに広がっていた。その中から梓にもらった服を着ようとして手が止まる。


「部屋に遊びに来るだけなのに、そんな本気の服着てたら逆におかしいよ」


 恋人とはいえ、幼馴染が遊びに来るんだから、いつも通りでいいはず。そんなことを考えていると時間は過ぎていく。結局理佳は普段の部屋着に使っている白のティーシャツとハーフパンツを選んで、残りをタンスと衣装ケースの中に押し込んだ。


 少しすると、チャイムもなしに玄関が開く音がする。


「理佳、入るぞー」

「うん。買い物まで行ってもらっちゃってごめんね」

「そんな気にするほどじゃないぞ。昼も簡単でいいよな?」


 簡単、と言ったのに虎徹が作ったのは冷やし中華だった。チャーシューは買ってきたものだが、板ずりしたきゅうりが丁寧に千切りされ、錦糸卵も乗っている。料理好きの簡単という言葉は当てにならない。


 昼食を済ませ、理佳の部屋に向かう。虎徹が理佳の部屋まで遊びに来るのなんて珍しいことじゃない。それでも今日だけは妙に緊張してしまう。虎徹と恋人になってから、初めて部屋に招き入れたのだ。


「部屋、汚くないよね?」

「いつも通りだよ」

「それってどういう意味?」


 ちょっと口を尖らせた理佳に微笑みだけを返して、虎徹は部屋の隅に置いてあったクッションをつかむとカーペットの上にあぐらをかいて座って、それを自分の脚に乗せた。


「ほら」

「え、なんで?」

「いいから。座れ」


 理佳が虎徹の上にすっぽりと収まるように座ると、大きな腕が理佳の肩のあたりを包んだ。


 懐かしいな、と思う。


 幼い頃、TSした自分が嫌で、その日は一日部屋から出ないということがよくあった。寂しさで我慢できないと思った時、いつも虎徹がこうして抱きしめてくれていた。人には見られたくない自分を虎徹が覆い隠してくれる。そんな気がしてその日は安心して眠ることができた。


 中学校に上がったくらいから、虎徹の方が恥ずかしがってやってくれなくなったから、部屋で抱きしめてもらえるのは五年振りくらいだろうか。


「別に無理して外に出なくていいんだ。夏は来年も来るんだから」

「……うん。そうだね」


「今までだってずっと一緒だっただろ。今しかないわけじゃない。来年もその先も。一生一緒にいてやるって言っただろ」

「うん。ちょっと焦ってたのかな、僕」


 今しかできないこと。数年後にはできなくなることは間違いなくある。でもだからって焦って叶えようとしたって何にもならない。


「今年の夏は、二人で一緒にゲームしよっか」

「あぁ、そうしよう。宿題も毎日見てやるよ」

「それは、明日からでいいや」


 虎徹の胸に体を預ける。夏休みにやりたいことはいっぱいあったはずなのに、こうして虎徹と寄り添っていることよりも大切なことなんてない。そう思った。

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