第36話 TS病にはまだまだ謎が多い。意味がわかる(side虎徹)

 理佳と信乃が絶望と焦りを交互に感じていた少し前。放課後に真尋まひろの様子を見に行こうとした虎徹こてつだったが、理佳ただよしが代わりに行くと言って聞かなかった。ついていくのも禁止だと言うので、虎徹はすっかり予定が空いてしまった。


「たまには道場生の相手でもするか?」


 家の近くに門を構える伊達崎だんざき空手道場。父親の趣味で私財をなげうって買った立派な夢の道場であり、離婚の原因にもなったいわくつきの道場でもある。虎徹はあまり顔を出さないようにしている。


 あまりに顔が怖くて道場生が逃げる、と父親から追い出されたからだ。とはいえ、高校生や大学生、社会人の稽古時間になれば、幼少の頃から虎徹を知っている道場生も多く、組手の相手をすることもあった。


「あら、虎徹様は今日はおひとりですか?」


 それまでどこで暇を潰そうか。そう思っていた矢先に真正面から声をかけられる。女のあずさが控えめに手を振っていた。


「なんだ? そんなところに隠れて。理佳にまたモデルの仕事でも頼みに来たのか?」


「いえ、今日は虎徹様をお待ちしていました。少しお付き合い願えますか?」

「まぁ、別に急な用事はないが」


 虎徹は警戒しつつ歩み寄る。梓の頼みというとあまりいい思い出がない。理佳を何も言わずに連れ去って倒れるまで働かせた前科もある。微笑みを浮かべている女梓は、はっきりモノを言って裏表のない男梓よりやりにくい、と虎徹は密かに思っている。


「梓は仕事はいいのか?」

「えぇ。安定期に入ってしまったので」


「安定期?」

「TS病の症状段階です。もうすぐTS病が治る、その直前に一時的にTSしなくなる時期があるんです」


 虎徹が驚いた顔をすると、その顔が見たかった、と梓が堪えきれない笑顔を漏らした。


「気になりますか? 気になりますでしょう? 詳しくお話を差し上げてもよいのですが、一つ交換条件がありまして」


 いたずらっぽく笑いながら、梓は理佳の真似をするように虎徹の腕に自分の腕を絡める。スタイルのいい梓がやると、理佳とは違う感触が返ってくる。


「これから私とデートしていただけませんか?」

「おい。こんなところを見られたらファンが悲しむんじゃないか?」

「大丈夫です。それほど目立たないようにいたしますから」


 そんなことを言ってもきれいなプラチナブロンドを持つ梓は一目見ただけで誰でも気付く。加えて虎徹も目を引くのだから、目立たないようにするなんて無理な話だ。


「それではまずどこに行きましょうか? 今まで行きたくても行けなかった場所がたくさんあるんです」


 そう言われると、虎徹はもう何も言えなかった。


 理佳も同じようなことを言っていた。理由は違うかもしれないが、梓もTS病によってできなかったことがある。それを自分の前でなら、隠さずに叶えられると言うなら、虎徹に断ることができない。


「でも虎徹様は理佳様と中華街や遊園地に行かれているんですわよね。うーん、悩みどころですわね」


「そんなにガッツリ連れまわす気なのか?」

「ご心配なく。私は理佳様ほどわがままではございませんわ」


 嘘つけ、と初めて梓と会ったときのことを思い出す。勝手に追いかけてきて強引に試合を組んだのを忘れたんだろうか。

 梓に引っ張られて虎徹は連れていかれるままに歩き出した。


 まだ五月なのに、と思いながら、水に足を浸すと、ぬるま湯のほんのり温かい感覚がする。


 一年中オープンしている温水プール。急に連れてこられた虎徹はレンタルの水着を借りてプールサイドに座って両足をつける。まだ事態がつかみ切れていない虎徹の元に着替えた梓が現れる。


「もしかして泳げなかったりしましたか?」

「そんなわけないだろ。なんでここにいるのか、自問自答していただけだ」


 着替えを済ませた梓が虎徹の横顔を覗き込んでくる。梓は元から予定していたらしく、ワンピースと同じ真っ黒なビキニから白い腕と脚がまっすぐに伸びている。プラチナブロンドの髪をシニョンでまとめただけでずいぶんと印象が活発に変わっていた。


「プールに入るのは初めてです。撮影でプールサイドや海岸にはよく行きましたが、いつも眺めることしかできなかったので」

「意外と水の中ってのは疲れるからな」


 初めて、という梓の言葉は女として、という意味だ。泳げば疲れる。つまり心拍数が上がってTSする。そんな危険があるのに、泳ぐなんてそうそうできない。理佳も水泳の授業はいつも見学だった。


「私の水着を見て、何か感想はありませんの?」

「意外と筋肉質なんだな」


「そういうことではなくて! きれいとかかわいいとか似合っているとか。もっと褒めてくださいな」

「そんなの言われ慣れてるだろ」


 モデルの仕事をしていればそんな言葉、いくらでも聞いてきただろうに。理佳を助けにモデルのスタジオに行ったときもそうだった。たくさんのスタッフに囲まれてライトを浴びながらカメラを向けられている梓は、リングの上で見た姿とはまた違った美しさと強さを持っていた。


「でも、そうだな。きれいだと思うぞ」

「ふふ。虎徹様に言われるのは、やっぱり特別な気がしますわ」

「変な奴だな」


 梓がプールに飛び込む。水しぶきが虎徹の全身に浴びせられる。


「さぁ、時間が少ないんですから、早く楽しまないとすぐに次に連れていってしまいますわよー」

「まだ連れまわすつもりなのかよ」

「もちろんです。今までできなかったことを全部やるんですから」


 梓はいたずらっぽく笑う。なら最後までしっかり付き合ってやろう。虎徹は梓を追いかけるようにプールに飛び込んだ。


 プールの後は服を買いに行くのに付き合って、初めて入るというゲームセンターでプライズをとって。高校生くらいになれば一度は体験していそうなことも梓は子供みたいな目で見ていた。


 普段は大人っぽくふるまっていても、虎徹と一つしか違わない梓の本来の姿はこうなのかもしれない。


「次はどこに行きたいんだ?」

「一つ、どうしても虎徹様にしか頼めないことがあるんです」

「いまさらだ。好きに言えばいい」


 最初はTS病の安定期について聞くはずだったが、虎徹はもうそんなことは横に置いていた。話を聞く時間なんていくらでもある。それよりも今は格闘家でもモデルでもない千両梓ちぎりあずさの願いを叶えてやりたかった。


「では、カップル限定スイーツを出しているカフェがあるんです」

「カっ!?」


 全部言えないくらいに動揺した虎徹を、梓は強引に連れていく。虎徹はカップルと偽る罪悪感と限定スイーツを食べたい気持ちを天秤にかけながら梓についていった。

 誤解した理佳に体当たりを喰らうのはこの数分後のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る