第10話 せっかくの梓の試合が誰にも見られない。意味がわからない(side理佳)
「はい。来週の金曜日の夜十時にお願いします。休日は時間を押さえられなかったので」
「次の日が休みなら大丈夫だよ。でも場所は梓さんのジムなんだ。大きな武道場とかドームでやるんだと思ってた」
「これは私がやりたいだけの私闘ですから。会場なんて使えませんよ。私と虎徹様。それからいくらかの立会人でひっそりとやるつもりです」
「あの、僕がジムに下見に行ってもいいかな?」
「構いませんが、私は練習があるのでご案内できませんが」
「大丈夫。僕も邪魔はしたくないから、梓さんがいない時間でもいいから」
約束を取りつける。理佳にはどうしても確認しておきたいことがあった。同じ病気を抱える梓の気持ちを理佳は少しだけ理解できるような気がしていた。
理佳はその日の放課後に早速、梓のジムに向かった。今日はモデルの仕事があるから自主練だと聞いた上で、だ。梓がいない方が都合がよかった。
「こんにちはー」
「おっと見ない子だね? 入会希望かな。ボクササイズで健康的に痩せたい? それとも俺と世界一になってみたいかい?」
小さな声だったのに、素早く反応した男が一人、機敏な動きで理佳の前に立った。短髪に少し焼けた肌。汗の浮かぶ筋肉質の体。どうやらジムのトレーナーらしい。虎徹と比べれば背は低いものの、押しは何倍も強くて理佳は変な重圧を感じる。
「あ、いや、僕は梓さんの」
「梓? 悪いけどファンの方の見学はお断りしているんだ。今日は本人もいないしね。まぁでもせっかく来たんだからジムの見学をしていってよ。見るのもいいけど、格闘技はやるともっと楽しくなるぞ!」
「そうじゃなくて! 僕の話を聞いてー!」
理佳が事情を話すと、ようやくトレーナーの
「あぁ、梓が言っていた試合の相手の友達か。早く言ってくれればよかったのに」
「言うタイミングがなかったじゃないですか」
「格闘技は相手に反撃させずに自分が攻撃するのが理想だからね」
上手いこと言ってるつもりですか、理佳は心の中でツッコむ。今日の目的はそんなことじゃない。
「梓さんと虎徹との試合。もっと大きな場所でできないんですか?」
理佳が聞きたかったこと。それは、虎徹との試合を誰にも見せないまま終わってしまってもいいのかということだった。
「どうしてそう思うんだい?」
「梓さん、もうすぐTS病が治るかもしれないんです。その時は女の子の体になって、格闘技をやめることになるかもしれない。もしこの試合が最後になったとしたら、僕たちが見ているだけでいいのかな、って」
「本人がそれでいいって言っているんだ。俺にはそれ以上、何も言えない」
迫川は諦めたように独り言のようにこぼす。膝の上に置いた腕の先で手を組んだままそれを見つめていた。
「嘘です。トレーナーさんだってこれじゃダメだってわかってる」
「でも、本人の意思を無視して試合を組むことはできないよ」
「本心は違います。僕だってなんとなく気付いてる。この病気が治ったら、どちらかの僕は消えてしまうんだって。意識も精神も一つだけなのに、なんとなくそう思うんです。死んでしまうわけじゃないけど、どこか遠くに行ってしまう。
だから、梓さんも男の自分が生きていた証をちゃんと残してあげなきゃいけないんです」
そのために梓が選んだのが虎徹とのリベンジマッチだった。理佳にはその気持ちがわかる。
いつか女の自分は消えてしまうから、この恋心もなくなるはずだと思っていた。だけど、それは間違いだ。
恋心を秘めたまま男になってしまったら、女の理佳はどこにも存在しなかったように忘れ去られてしまう。たぶん虎徹の中からも。
自分にはまだできない勇気を振り絞った梓をどうしても理佳は多くの人の中に残してあげたかった。
「だけど、特に今回の相手は素人の高校生だ」
「虎徹なら大丈夫です」
理佳はそう言い切った。
「そんな根拠もなく」
「あります。僕がそうしたいからです。虎徹は、僕がやりたいことなら全部受け入れてくれる最高にカッコよくて最高に優しい人だから!」
理佳は立ち上がる。きっと虎徹も同じこと思ってくれている。たとえ違ったとしても、理佳の考えを理解して受け止めてくれる。その確証だけはあった。
「僕のお願い、聞いてくれますか?」
理佳の決意と不安が入り混じって
* * *
試合の日はすぐにやってきた。
虎徹は約束通り、体重を八五キロまで落としてきた。試合前のルーティーンはリングでも変わらず、正座をして
道着を着て両手にはオープンハンドグローブ。総合ルールなので、相手をつかんで投げたり関節を極めることができる。
梓もジムでの試合だというのに興行用のガウンを着て、コーナーポストの前で集中を高めているようだった。
「そろそろ始めるか」
目を開いた虎徹が静かに言った。
「俺はいつでもいいぜ」
梓が振り向いて答える。
あとは、迫川がゴングを鳴らせば試合が始まる。互いにリングの中央へ向かい、手を合わせる。そこに割り込む声が聞こえる。
「じゃあ、開けます!」
ジムの入り口で理佳が叫んだ。同時に整然と、だが興奮が抑えきれない人たちがジムの中になだれ込んでくる。
「しーちゃん、そっちは大丈夫?」
「うん。ネット配信もちゃんとはじまってるよ」
「なんだ?」
混乱する梓は虎徹に問いかけるが、虎徹もまったく知らないことだった。虎徹の代わりに答えたのはリングを囲むように埋め尽くしたファンの声だった。
「梓の引退試合が誰にも見せないで終わっていいはずないだろ!」
「そうだ!
ア・ズ・サ! ア・ズ・サ!
普段の会場と比べれば十分の一にも満たないジムの中で、熱気はいつもの会場と少しも変わりない。
「味なマネをしてくれるぜ」
梓はリングを囲むファンの声援を一身に受け、喜びで溢れる涙も気にせず手を振る。
「梓さんが、男としてここまで生きてきた証拠を残したかったんだ。僕のわがまま。でも、虎徹も梓さんも許してくれるよね?」
虎徹側のコーナーから理佳は少し不安げに聞く。その頭を虎徹が優しく撫でた。虎徹の汗の匂いと優しい表情にドキリとする。
「当たり前だ。俺は理佳がやることは全部信じてる。これが、一番いい方法だって」
「うん。じゃあ、勝ってね。僕は虎徹が勝つって信じてるから」
虎徹はゆっくりと頷くと、立ち上がってリングの中央にいる梓を見据えた。振り向いた虎徹の後ろで理佳がTSし始めていることにも気付かない。
「悪りぃな、虎徹。ファンの前で負けるわけにはいかねぇわ」
「俺もだ。理佳が勝て、って言ったからな」
お互いの声が遠く聞こえるほどの歓声に包まれたジムの中で、始まりのゴングが鳴り響いた。
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