第8話 虎徹が身長と体重を聞いてきた。意味がわかる(side梓)

殿方とのがたに、連絡先を渡してしまいましたわ」


 あずさは紅茶の入ったお気に入りのカップの縁を指でなぞりながら、何度目かの事実確認をしていた。


「別に、これは試合の日程を連絡していただくために渡したのであって、他意はありません。えぇ、ありませんとも」


 誰もいない部屋で言い訳を並べる。家に戻ってきてからずっとこの調子だ。


「そういえば、先日のお礼を言い忘れてしまいました。自分の言いたいことだけ言って。なんて無礼な」


 試合の連絡先なら所属ジムでもよかったはずだ。梓自身もどうしてそんなことをしたのか、一人になってようやく、自分にしては大胆なことをしたと気付いたのだ。


「やはり、私の理想の男性だったから、なのでしょうね」


 梓はそう結論づけて、冷めきってしまった紅茶に口をつける。


 ときどき男になる自分が普通ではないと知ったのは、梓が幼稚園に入ってすぐのことだった。周囲からは気味悪がられ、怖がられ、避けられた。


 そんな梓がどうやって他人に好かれるか考えたとき、出てきた結論は理想の人間になることだった。


 男なら誰よりも強く、女なら誰よりも美しく。


 それが梓の考える理想像。その理想を実現している間は、多くの人間が自分を尊敬して、関わってくれる。


 ファイトマネーとモデルのギャラで買ったこの家には部屋が二つある。一つは今いるかわいらしい家具で揃えたの部屋。もう一つはバーベルやトレーニングマシンを置いたの部屋。誰にも見られていないプライベートでさえ、梓の理想への探求は徹底していた。


「だから、負けられない。私より強くて、私より優しい男性には」


 もうすぐTS病が治る。そうすればこの理想の中で溺れてしまいそうな生活も終わる。格闘技をやめることになってもモデルをやめることになっても、梓にはそれを受け入れる覚悟はできていた。


 だが、自分が掲げた理想像が壊されたまま、病気が治った、と忘れてしまうことはしたくなかった。


 着信を知らせるメロディが鳴る。

 知らない番号だったが、梓はためらいなく通話ボタンを押した。


「もしもし、どちら様でしょうか?」

伊達崎だんざきだ』

「お待ちしておりました。どういったご用件で?」


 わざと焦らすようにとぼける。

 虎徹こてつから試合を申し込んでほしい、と思ってしまう理由を梓自身も理解できない。


『身長と体重はいくつだ?』

「乙女にそんなことを聞きますの? 恥ずかしいですが、身長は一七六センチ、体重は六七キロですわ。あぁ、また私は殿方に自分のプライベートな情報を」

『違う! 試合するならウェイトを合わせなきゃいけないだろ! 男の方だ!』


 電話の向こうで虎徹が声を荒げる。赤面しているであろう歳下の男をからかうのは思ったより楽しかった。


「身長は同じ。ベスト体重は七八ですが、虎徹様がそんなに減量されては実力が発揮できませんでしょう?」

『八五ならなんとかなる。それでいいか? 一週間くれ』


「たった一週間の無理な減量。言い訳の理由にはしないでくださいます?」

『当たり前だ。場所と時間が決まったら後で連絡先を送るから、理佳に伝えてくれ』


理佳ただよし様に? この電話ではなく?」

『俺は、山にもる。じゃあな』


 梓の最後の質問に虎徹は答えなかった。

 電話が切れる。


「なんで山⁉︎」


 ツーツーとしか言わないスマホに向かって叫ぶ。もちろん答えは返ってこない。ふぅ、と落ち着くために息を吐く。約束はとりつけた。


「やはり優しい方。私の無理なお願いを聞いてくださって。そして、修行のために山に篭もるワイルドさも素敵ですわ」


 うっとりとスマホに表示された電話番号をなでる。


「でもそれはそれとして」


 梓は服を脱ぎ捨て、カップを片付ける。

 さっきから心臓が高く鼓動を打っている。自分の体が力強く変化していく様子を、梓はわくわくした気持ちで見つめていた。


「オレも一度、試合前は山に籠もって自分を追い込みます、なんて対戦カード決定の会見で言ってみたかったなぁ」


 があったら使わせてもらうことにする。だが、今は虎徹を倒すことの方が大切だ。


 女の梓の部屋を出て、男の梓の部屋に向かう。中にはトレーニング用のウェイトの他に大きな鏡やサンドバッグも吊るされている。


「虎徹。バッチバッチに殴り合おうぜ」


 鏡に映る自分の姿に虎徹を重ねて、梓はそのあごめがけて鋭いパンチを放った。

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