第2話 なんともないのに周りが心配する。意味がわからない(side理佳)

 保健室に連れられた理佳ただよしは制服に着替えながら、虎徹こてつから受け取ったバッグの中に入っていた下着を取り出した。


「別につけなくていいって言ってるのに。男のときはつけてないのにさ」


 男のときにはなかった膨らみ。カップ数はBと書いてあるが、理佳はそれが意味するところを知らない。これも母親に押しつけられるように渡されたものだった。

 器用にカップの中に膨らんだ胸を押し込むと、ふて寝の姿勢に入る。


「授業受けられなかった。こんなんじゃまた成績が落ちちゃうよ」


 理佳からすれば、体が女になる以外に変わったことはない。それも本人にとっては生まれてから当然のことで、困るようなこともない。


 それよりも周囲のお節介の方が困るくらいだった。両親が心拍数が上がるから、と言うせいで好きな激辛料理もあまり食べられないし、家ではコーヒーも飲めない。こっそり虎徹の家の空手道場に通おうとしたときも、虎徹にすぐにバレて追い出された。


「パパもママも虎徹も心配し過ぎだよ」

「何が心配し過ぎだ。お前が無頓着すぎるんだよ」


 カーテンの向こう側で虎徹の声がする。背の低い保健室のカーテンでは頭が上から少し見えていた。 


「虎徹、授業は?」

「抜けてきた。理佳のおじさんもおばさんも今日は仕事が忙しくて迎えに来れないらしい。だから、俺が病院に付き添ってやる」


「別にいいよー。僕、全然平気だし。虎徹もサボりになっちゃうよ。ほら、教室戻ろ」

「いいわけあるか。何があるかわからないんだ。着替えが済んだらさっさと行くぞ」


 虎徹はカーテンから手だけを差し込んで、理佳を手招きする。大きく力強い手をつかんで立ち上がる。


「もう、虎徹は。そんなに僕を甘やかしてどうしたいの? 僕が虎徹なしで生きられなくなったらどうするのさ」


 理佳は言いながらからかうように虎徹の太い腕に抱きつく。


「その時は一生面倒見てやるよ」

「そんなこと言ってー。僕がずっと一緒にいたら彼女とかできないよ」

「理佳がいなくても俺には彼女どころか、ろくに話してくれる奴も片手で数えられるくらいしかいねーよ」


 この強面で心配性の幼馴染はそういうことを平気で言う。

 僕の苦労も知らないで、と虎徹に見えないように口を尖らせた。


 病院でいつものようにひとしきりの検査を受けたが、予想通り理佳の体には異常なしだった。


「先生、僕の体悪くないよね? みんな心配ばかりで窮屈だよ」

「わからないことが多い病気だからね。仕方ないんだよ」


 そう言って、担当医の五倍木ふしのきは笑った。赤子の時から理佳を担当していて、家族、虎徹に次いで理佳が心許せる人だ。


 五倍木が初めて理佳を診た頃はまだ中堅の医師だったが、今は頭に白髪の混じる年齢になっている。TS病の研究者として論文も出していて、国立大学病院にも招待されたが、理佳たち患者のことを思って固辞し、今も小さな診療所を開いている。


「ねぇ、先生。僕の体って大人になると治るんだよね?」

「あぁ。過去の症例ではすべて十八から二十歳で性転換は止まっている。もう少しの辛抱だよ」

「その時って、男になるんだよね?」


 理佳の言葉に五倍木は一瞬目を泳がせた。少し悩んだ後、慎重に言葉を選ぶように口を結びながら、理佳をまっすぐに見た。


「君が聞いたら教えるように、とご両親にも言われている。いい機会だから話すよ。

 実は君の性別が最終的にどちらになるかはまったくわからないんだ。研究も進んでいない。今のところ、成人前にどちらの性でいる期間が長かったかで決まる可能性が高い、と言われているけど、それ以上はわからない」


「じゃあ、大人になったら一生女ってことも」

「うん。可能性はある」


 理佳は黙ってうつむいた。どうして早く言ってくれなかったんだろう、と両親を恨んだ。診察を終えて、虎徹が家に送ってくれる間も一言も話せなかった。

 自分の部屋に入ってバッグを投げ出し、ベッドに飛び込んでお気に入りのペンギンのぬいぐるみに顔を埋めた。


 その顔は、喜びで真っ赤に染まっていた。


「嘘。僕、女の子になれるかもしれないの? そうしたら、冗談でもなんでもなく、本物の虎徹の彼女になれるってこと?」


 心臓が高鳴る。今が男の体だったら間違いなくTSしていた。


「だってだってだって。そんなこと急に言われても!」


 ぬいぐるみに顔を擦り付けても、ほてりは少しも治まらない。

 おとなしくしていろ、と言われたはずの理佳はその日、興奮でなかなか寝付けなかった。


 翌朝、体はしっかりと男に戻っていた。男に戻るのは決まって睡眠から明けた後、心拍数が下がった状態が続くからでは、と言われているが詳細はわからない。仮眠程度では治らないことがほとんどだが、理佳からすれば戻るタイミングが確実にわかるのはむしろ楽なことだった。


 起き抜けに玄関のチャイムが鳴らされる。パパかママが朝帰りしたんだろうか。パジャマのまま階段を降り、まだ眠い目を擦りながら玄関を開けた。


「おはよう。まだ寝てたか」

「こ、虎徹⁉︎ なんでこんな朝から?」


「おじさんもおばさんも仕事で帰れないかも、って昨日言ってたからな。朝メシ作りにきた。弁当もいるだろ」

「うん、そうなんだけど」


 慌てて寝癖のついた髪を手櫛でとかす。そんなことをしてももう手遅れだと分かっていてもしないわけにはいかなかった。


 髪はボサボサだし、パジャマはクマの柄の子どもっぽいヨレヨレのやつだし、どうしよー、と焦るが何もできない。


 虎徹の顔を見る。見るだけで人が殺せそうなほど鋭い三白眼の向こう側に、誰よりも優しい心があることは理佳が一番知っていた。


 虎徹を見ていると、顔と心臓が熱くなる。

 瞬間、無意識に中に入ろうとした虎徹の袖をつかんでいた。


「どうした?」


 虎徹が心配そうに理佳の顔を見る。


「ごめん。その、女の子になっちゃった」

「なんで、今⁉︎」


 虎徹と朝から会えて嬉しかった、なんて言えるはずもなかった。

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