12

「はぁっ……はぁっ……」


 五百メートルがこんなに遠いとは思わなかった。足には自信がある、などと大見得を切って飛び出したものの、百メートルも走ったところで俺の足はすでに悲鳴を上げていた。


 ろくろくウォーミングアップもしていない状態で走りだしたのもまずかったが、やはり自転車と走るのとでは、若干使う筋肉が違うようだ。

 背中のアスカくんになるべくショックを与えないように、と気を使って走ったのも、余計に足にダメージを与えている気がする。雨も止む気配が全くない。それでも俺は路側帯を全力で走った。


 右側に並ぶ車たちを次々に追い越し、ひたすら走り続ける。

 走りながら右手に持ったスマホを見る。あと二百メートル……百メートル……


 着いた!


 本多医院の看板。個人医院クリニックにしては、結構大きい建物だ。玄関の自動ドアを走り抜け、両足の靴を乱暴に脱ぎ棄てて、俺は受付に突入する。


「野村こども園の斎藤です! アスカくんを……」


 それ以上は息が切れて話せなかった。受付の若い女性は目を丸くしていたが、


「話は伺っています! どうぞこちらへ!」


 そう言って、俺を処置室へ案内する。しかし、俺が処置室に入る前に、そこからマスクと白衣を身に着けた医師や看護師らしい人々が次々に出てきて、俺の背中からアスカくんを奪うようにしてまた中に戻っていった。


 そこで気力が尽きた俺は、がっくりと両膝、両手を床に着き、まさに orz の形になって激しく呼吸する。


「だ、大丈夫ですか? これ、どうぞ!」


 受付の女性が、濡れネズミの俺を見て、タオルを持ってきてくれたようだった。


「あ……ありがとう……ございます……」


 俺はようやく起き上がり、タオルを受け取って頭と顔、体を拭く。


「落ち着かれましたら、待合室でお待ちください」


 女性はニッコリと笑って、また受付に戻っていった。


 息が整い始めた俺は、スリッパを履いてないことに気づき、玄関に戻ってスリッパを履き、待合室に入って長椅子にどかっと身を預ける。


 待合室には俺以外に誰もいなかった。しばらく俺は、そこでぼーっと窓の外の景色を眺めながら、アスカくんの無事を祈っていた。


 アスカくん……助かってくれ……


―――


 主任と川西先生が着いたのは、俺の到着から十分ほど後だった。


「ヨシユキ君! アスカくんは……どうなったんだ?」


 待合室に入ってくるなり、主任が俺に問いかける。


「わかりません……処置室に入ったまんまです……」


「そうか……」


 主任が眉根を寄せた、その時だった。


 処置室から、白衣を着た医師のような男の人が出てきた。


「皆さんの中に、AB型の方、いらっしゃいませんか? もちろん RH プラスですが」


「!」その場にいた全員がその人を振り返る。


「凝固因子を注射して、一応血は止まったんですが……やはり少し出血量が多くて、できれば輸血をしたいところなんです。が……例の事故で、血液センターにも血液のストックがない、ということなんですよ……」


 男の人が顔をしかめながら言う。


「私はB型……シヅコ先生は?」主任が川西先生を振り返る。


「わたしはO型なのよ……」辛そうに川西先生が言う。


「ヨシユキ君、君は……?」


「……」


 俺は黙って財布から、献血カードを取り出し、裏面を見せる。


 そこには、+ AB と小さく血液型が書かれていた。


 輸血する場合、血液型を自己申告しても、それが思い込みや間違いである恐れがあるため、輸血前に一度採血して検査しなくてはならない。しかし、献血カードに書かれている血液型は、当然だが検査済みで確定したものだ。なので、これを見せれば採血の手間が省けるのである。


 前の職場にいたとき、献血センターで献血すると飲み物が飲み放題という話を聞いたので、早速行って献血してきたのだが、それが奏功するとは……。


「……でかした!」


 主任が喜色を満面に表して俺の肩をつかむ。

 いや、別に俺は何もしてはいないんですが……


「何か薬とか、飲んでらっしゃいますか?」と、男の人。


「いえ、今は飲んでません。貧血でもないです」


 俺がそう答えると、男の人もニッコリと笑顔を浮かべる。


「助かります! それじゃ、こちらに来てください!」

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