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 予想に反して、主任の運転は穏やかそのものだった。加減速は常にスムーズで、マニュアルシフトなのに変速ショックがほとんど感じられない。これならコップの水もこぼれないだろう。


 しかし。


 主任の顔に浮かんでいる表情は、それとは対照的に険しかった。目の前の道がかなり渋滞しているのだ。


「残りの距離は、あとどれくらいだ?」言いながら、横目で主任が俺を見る。


「あと二・一キロですね……」と、俺。


「こんなに道が混んでいるとはな……事故の影響かな?」


 主任の声には焦りが感じられた。俺はスマホを見ながら応える。


「そうですね……バイパス、まだ通行止みたいですから。おそらくバイパスを迂回しようとする車がこちらに流れてるんでしょう」


「運が悪いな」主任がため息をつきながら、後ろを振り返る。


「シヅコ先生、アスカくんの様子はどうですか?」


「そうね」川西先生が顔を上げて応える。「出血は少し収まってきたようだわ。一応脈はあるし、呼吸も止まってない。ただ、呼びかけに対する反応が……弱くなっているみたい……」


「そうですか……」


 辛そうに主任は再び前を向く。


「主任、裏道を使いますか?」


 俺の提案に、主任はあからさまに反応する。


「なにっ? そんなことできるのか?」


「ええ。このアプリは渋滞情報も取れるので、それに応じたリルートも可能なんです。が……若干遠回りになりますし、細い道を通ることになるかもしれません」


「かまわん! 今はとにかく少しでも早く本多医院に着くことが先決だ!」


「分かりました。それでは、そこの路地を左に入ってください」


「了解!」


 左の路地に入った瞬間、主任はグイとアクセルペダルを踏み込む。アバルト500は前輪をホイルスピンさせながら急激に加速する。


「ひぃっ!」


 後頭部がヘッドレストに貼りつき、思わず俺は悲鳴を上げる。


「レイカちゃん! 飛ばしちゃダメ!」


 川西先生だった。普段の彼女らしからぬ、厳しい声色。いつもならこの人も、主任のことは「篠原先生」って呼んでたはずだが……


「あ、すみません……シヅコ先生……」


 主任は申し訳なさそうに言うと、アクセルを緩める。


 ……。


 あの主任を、下の名前に「ちゃん付け」で呼んで、しかも平気で叱りつけられる……いったい、川西先生って、どういう人なんだ……?


―――


 俺はカーナビアプリを駆使して、ひたすら裏道を指示しまくった。主任は忠実にそれに従い、本多医院まであと五百メートル、というところまで近づいた、の、だが……


 ここで大渋滞につかまってしまった。本多医院まではもう道一本で、迂回のしようがない。


「くっ……ここまで来て……」


 フロントガラスの向こうで動こうとしない車のテールランプが、それを睨みつける主任の顔を赤く染める。


「……」


 しゃあない。もうこれしかない。


「主任。俺がアスカくんをおぶって、走っていきます。あとはもう道一本ですからね」


「なんだと? 君、そんな体力あるのか?」主任が驚愕の表情で俺を見つめる。俺は不敵に笑みを浮かべてみせる。


「ええ。俺、毎日の自転車通勤で足はかなり鍛えられましたからね。ひ弱なパソコンオタクと思ってたら、大間違いですよ」


「……すまん。恩に着る」


 言うが早いか主任はシートベルトを外し、ジャージの上着を脱いで俺に渡す。


「アスカくんをおぶったら、これを被せて雨に濡れないようにしてくれ」


「……分かりました」


 俺もシートベルトを外し、助手席を後ろにリクライニングさせて川西先生からアスカくんを受け取り、おんぶ紐で彼をおぶって主任のジャージを被せる。ジャージからは、主任の香りと体温がほのかに感じられた。


「これでOKですか?」俺は主任を振り返る。


「ああ。頼んだぞ、ヨシユキ君」真剣なまなざしで、主任が俺を見つめながら言う。こういう顔の主任は、本当に綺麗だ。これが見られただけでも、ここまで助手席に乗ってきた甲斐があった、というものだ。


「ヨシユキ君、気を付けてね」川西先生がニッコリとほほ笑む。


「了解! 行ってきます!」


 俺は二人に向かって敬礼すると、ドアを開けて雨の中に飛び出した。

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