10

 マコトの言葉を受けて、主任が119番に電話をかける。しかし……


「ダメだ。例の事故で救急車が出払っているらしい。こちらに来れるのはかなり遅くなるそうだ。しかし、出血状況によっては待っていられないかもしれんな」


 受話器を置いた主任の顔に、苦渋が滲む。


 血友病と言えば、血が止まらなくなる病気だ。大学時代の俺の友人に一人、血友病患者がいた。治る病気というわけではなく、それなりに苦労しているようだった。とは言え、小さな傷なら時間はかかるが血は止まり、特に病院に行ったりする必要はないのだそうだ。しかし今回は小さな子供で、しかも出血が止まる気配がない。意外に深く切ってしまったのかもしれない。


 園児台帳をブラウザで開きながら、表計算ソフトでかかりつけ医リストのシートを操作していたマイちゃんが、いきなり口を開く。


「主任、アスカくんのかかりつけ医で輸血が出来て、血友病の対応も可能なのは、本多医院です」


「よし、そこに連れて行こう。保護者に連絡は……」


「わたしがします」アヤノさんだった。


 彼女もやはりシステムの園児台帳からアスカくんの緊急連絡先の電話番号を見つけ、電話をかける。だが、つながらない。すぐにアヤノさんはメーラーを立ち上げ、母親の携帯メールアドレスに向けて送信するメールを作成し始める。


「止血のやり方、ネットで見つけました。この場合は圧迫止血でよさそうです」タブレットを操作していたマコトが言いながら、ひもを取り出してアスカくんの右腕に巻く。


 この間、わずか二分。テキパキと対応する三人を、彼女たち以外のスタッフはみな、あっけにとられたように見つめることしかできなかった。その中には主任と俺も含まれていた。俺が思わず主任の顔を見ると、彼女もこちらを見返して、ニヤリとしながら片目をつぶって見せる。いい表情かおだった。


「それじゃ、私が車で連れて行こう。本多医院なら一度行ったことがある」と、主任。


「待ってください」マイちゃんだった。「主任、それ、いつの話ですか?」


「三年くらい前だが」


「今ネットで調べてみたら、本多医院、去年新築して移転してますよ。しかも結構離れてます。アスカくんの家には近くなったみたいなんですが」


「なんだと?」


 主任は一瞬眉根を寄せるが、すぐに皆の方に向き直る。


「新しい本多医院の場所を知ってる人、誰かいますか?」


 しかし、誰も手を上げようとしない。


「ナビ付きの車で来てる人は?」


 この主任の問いかけにも、誰も応えようとしなかった。園の目の前の駐車場は、子供を送り迎えに来る保護者の車を受け入れる都合上、主任以外のスタッフは原則使えないことになっている。それでも車で通勤したい人は、かなり離れた専用駐車場に停めなくてはならない。そもそも遠くから通ってくるスタッフもあまりいないので、車通勤のスタッフはほぼ主任だけと言ってもよかった。


 アスカくんの顔はかなり青ざめてきている。ぐったりとして動かないが、声をかけるとうなずいたりするので、辛うじて意識はあるようだ。しかし、一刻も早く治療をしなくてはならない状況なのは明らかだった。


「それじゃやはり私が行くしかないか。しかし……」主任は苦い顔のまま続ける。「私の車のナビは、もう地図も古いし最近調子が悪くてすぐに動かなくなったりするんだが……ま、無いよりはマシか」


 よし。ここはやはり俺の出番のようだ。俺は右手を上げる。


「主任、俺が隣でナビしますよ」


「どうやって?」主任が俺を振り返る。


「俺のスマホにはカーナビアプリが入ってます。地図はネット上のものなので、常に最新です。もう既に本多医院の移転先へのルートも作成済みです」


「……さすが」主任はニヤリとする。「肝心なところで頼りになるのは、やはり君だな。よし、案内は任せたぞ」


「了解です。あ、でも主任、主任の車、チャイルドシートあるんですか?」


 とたんに、主任が不機嫌そうな顔になり、吐き捨てるように言う。


「こういう緊急時は、チャイルドシートがない車でも子供を運んでいいんだ。法律もそうなってる」


「あ、そうなんですね……」


 主任の地雷を踏んでしまったことに、俺は気づく。しまった……彼女は自身が子供好きなのにもかかわらず、子供が出来ないことを苦にしていたんだった……


 しかし、主任はすぐにいつもの表情に戻る。


「それじゃ、シヅコ先生、先生はアスカくんと一緒に、後席に乗ってください」


「分かりましたよ」川西先生が応える。


「園長に報告したら、すぐに出発するぞ。ヨシユキ君、君がアスカくんを抱いた方がいい。シヅコ先生と一緒に玄関で待っててくれ」


「了解!」


―――


 アスカくんがなるべく雨に濡れないようにと、主任は車を玄関の前に持ってきた。白いフィアット 500。もちろん某泥棒アニメに出てくる古いヤツじゃなく、現行モデルだ。主任にしては意外にかわいらしい趣味……


 ……待てよ……?


 フロントエンブレムが、サソリのマーク……

 よく見ると、なんか、少しいかつい感じのデザイン……


「主任、まさか、これ……」


「良くわかったな」運転席から出てきた主任が、満面の笑みになる。「そう、アバルト500だ。外見はフィアットの500チンクとあまり変わらんが、エンジンと足回りはまるっきり違う。マジで速いぞ」


「……」


 前言撤回。まことに主任らしい、尖りまくったチョイスだった。


 "師匠、ご無事をお祈りしてます"


 そう言ってマイちゃんが敬礼で俺を送り出した訳が、これで判明した。


 俺の表情を見て俺の不安を察したのか、主任が安心させるように言う。


「大丈夫だ。さすがに病人乗せて無茶はしないよ」


「……」


 それ、病人乗せてなかったら、無茶するかもしれない、ってことですよね……

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