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 ……などと回想に浸っている場合ではなかった。俺は VPN クライアントを起動し、自宅サーバに接続しつつマコトさんに問いかける。


「マコトさん、今、どの PC 使ってます?」


『新しいヤツだ。今日はマイがいないからな』


「分かりました。それじゃ、今からそれを遠隔操作します。マウスポインタとか勝手に動きますが、そのまま何もしないでください」


『……へっ?』


 彼女が理解しているのかどうかわからないが、時間がない。VPN 接続が確立しているのを確認して、俺は VNC (Virtual Network Computing)クライアントを起動し、新しい方の PC の IP アドレスを叩く。VNCはネットワークを通じてPCを遠隔リモート操作するためのシステムだ。園の二つのデスクトップの、どちらにも固定 IP を割り振りVNC サーバを入れておいて正解だった。さらにどちらも WOL (Wake On LAN)を有効にしたため、NAS として設定した例の古いノートPCを介してリモートで電源を入れることすら可能だった。


 VNC クライアントに新しい PC のデスクトップ画面が表示される。ブラウザで提出システムの画面が開かれているのが見て取れた。


 Author……っていうのは、著者のことか? First name, Last name, Email……


 なんだ、大した英語じゃないな。たぶん、必要な項目はプロシーディングスのファイルを見れば全部書いてあるだろう。


「マコトさん、論文のファイルは?」


『ドキュメントに入ってる』


 俺はドキュメントフォルダをダブルクリック。日付順の一番上に、それらしい PDF ファイルがあった。それを開く。著者は三人。最初はマコトさん。次が篠原主任。最後は知らない人だが……Takuya Shinohara ?  この人だけ所属が違うぞ? 都内の某私立大学じゃないか……


『お、おい……なんだこれ……アタシ、何もしてないのに勝手に動いてるぞ……』


 マコトさんらしくない、若干ビビりが入っているような声だった。


「俺が動かしてんですよ。それより、この、最後の著者の人、誰なんです?」


『主任の旦那。大学の先生。共同研究者なんだ。主にデータ解析をやってもらった』


 ……ぐはぁ。


 そんな情報、知りたくなかった……主任の旦那さん、めちゃハイスペックじゃねえか。とても太刀打ちできん……って、最初から戦うつもりもないけどさ……つか、そんなすごい人がいるんだったら、最初からその人に英語で論文書いてもらったらよかったんじゃね?


 まあ、いい。今はダメージを食らってる場合じゃない。俺はとりあえず、論文から著者情報とタイトル、アブストラクト (概要)を引き写す。カテゴリーは……うー、わからん……


『あ、主任が、カテゴリーはプレスクールにしてくれ、って言ってた。あと、コレスポも主任がなるって。アタシ、なんのこっちゃわからんのだけど』


「了解」


 それで不明な部分はすべて解消した。俺はカテゴリーを Preschool (就学前)にして、主任の情報が入力された著者欄の Corresponding Author (責任著者)チェックボックスにチェックを入れる。


『あ、あと一分しかねえ!』焦った声でマコトさんが言う。


「まだ一分もある、ってことですよ! ゼロやマイナスじゃないんですから!」


 どこかで聞いたようなセリフを吐きながら、俺はプロシーディングスのファイルをアップロードする。残り三十秒。


 内容に間違いがないか、改めて入力を最初から見返す。問題なし。


 残り十秒。俺の脳内 BGM も、全楽器が鳴り渡るフィナーレのクライマックスに突入していた。


 俺は Submit (送信)ボタンをクリックする。


 画面が書き換わり、以下のメッセージが現れた。


 “SUBMISSION SUCCESSFULLY COMPLETED” (提出は成功しました)


「……ふぅ」


 俺は椅子の背もたれに身を投げ出し、深くため息をつく。


『サクセス……って、成功したってこと?』


「ええ」


『……やったー!』


「うわっ!」鼓膜が破れるか、と思うほどの大声だった。


『ヨシユキー! ありがとー! ほんとにありがとー! やっぱお前はタダモンじゃねえよ! お礼に今度メシでもおごらせてくれ!』


「そんな……大したことじゃないですよ」


『何言ってんだよ! アタシはめっちゃ助かったんだからな! それに、寝てたところ起こしちまったこともあるし……お前に何かおごらねえと、アタシの気がすまねえよ。だから、何も言わずにおごられてくれ』


「はぁ」


『 あとさぁ……アタシ、何度か言ってると思うけど……』


 そこで何故かマコトさんの声が小さくなる。


『タメなんだから、敬語はなしにしてくれよ。さん付けもなしでさ……少なくとも二人で話してる時は、な……』


「わかり……わかったよ、マコトさ……いや、マコト」


 ……。


 これは、結構わかりやすいフラグだった……


『あーそうそう、今日の歓迎会、場所とか時間、分かってるよな?』


「あ……はい! 18:00から、笑民ですよね?」


『……敬語』


「あ……ごめん」


 そう。今日は笑民(居酒屋)で、俺の歓迎会が開かれるのだ。


『じゃあ、またその時な。今日は、ありがとう。ほんと助かったぜ』


「ああ。それじゃ」

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