5
転職して最初の土曜日。もちろん休日である。これまでの疲れを癒すため、俺は午前中ずっと惰眠を貪るつもりだった。
しかし。
いきなり携帯が鳴る。相手は園の番号だ。
「ふわい……もしもし……」
『あー、やっぱ寝てたか……ワリィなあ、起こしちまって』
その声は……「パソコン四天王」最後の一人、デフォの「サイトウ」こと、斉藤マコト先生だ。一応「女」ではある……が、名は体を表すというか……髪はバッサリのショートだし、体型はスリム。声も低いし、性格もサバサバしてて、なんだか口調も男っぽい。しかも俺とタメ年で、初対面でいきなり
"紛らわしいからさぁ、お前はアタシを『マコト』と呼べ。いいな、ヨシユキ"
などと言われてしまい、かといって呼び捨てにするのも気が引けるので、俺は彼女を「マコトさん」と呼んでいる。とにかくかなりボーイッシュな人なのだが……
結構顔立ちは、かわいらしいのだ。さらに、中島先生ほどではないが……この人のバストもそこそこ大きいのである。しかもスリムな体型なだけあって、余計にそれが映える。ちなみに彼女自身は別にLGBTとかではなく、今はフリーだが普通に彼氏がいた時期もあったらしい。確かに、このアンバランスな感じは意外に悪くない。
それはともかく。
「マコトさんですか? 一応、俺、今日、休みなんで……」
『すまん。それはよーく分かってる。だが……こっちは今ピンチなんだ。頼む! ちょっと助けてくれ!』
「何があったんですか?」
『実はな……』
マコトさんの話はこうだった。
幼稚園の教員も、いろいろな学協会で取り組みを発表することがあるのだが、この前、とある学会で彼女が中心となった取り組みを発表したところ、なんと優秀発表賞を受賞してしまい、関連するヨーロッパの国際学会で発表するように推薦されたらしい。
もちろん旅費も全部出る、とのことで、タダでヨーロッパ旅行に行ける、と彼女は大喜びしていたのだが、その前にプロシーディングス(講演論文)というのを英語で書いて Web 上で提出する必要があるという。しかし彼女は英語は大の苦手と来た。
それで、彼女は日本の学会で発表した時の講演概要をそのまま Web の翻訳サイトで翻訳し、念のため提出前に共同執筆者の篠原主任に確認してもらったところ、これじゃまったく意味が通じない、と言われて意気消沈してしまった。
"だったら主任が書いてください"
と頼んだら、
"私も忙しくてそんな暇はないが、有料の論文翻訳サービスがあるからそれを使っていいよ"
と言われたので、さっそく彼女はその翻訳サービスに論文を送ったのだそうだ。
しかし、その翻訳が予想以上に時間がかかり、出来上がったのが今日の朝方だったという。提出の締め切りが今日で、彼女は今 Web の提出フォームにアクセスしているのだが、全部英語で書かれているため、何をどうすればよいのか皆目分からない、という。
ただでさえこの園には英語ができる人がほとんどいない上に、土曜日でスタッフの数も少なく、一番英語ができる主任は休みで電話をかけても通じないらしい。それで困り果てた彼女は、俺に助けを求めてきた、というわけだ。
俺も前の職場では、システムを組むのにオープンソースのソフトウェアをベースにすることが結構あったのだが、ドキュメントが日本語訳されているものは少なく、大抵英語のままになっているため、そこそこ英語を読む能力はついたと思っている。助けになるかもしれない。
「それで、マコトさん、締め切りは今日の何時なんですか?」
『午前零時ジャスト』
「……って、もう過ぎてるじゃないですか!」
『現地時間で、だよ。向こうとは九時間時差があるから……日本時間では午前九時だな』
俺は部屋の時計に視線を走らせる。
8:51
「……って、あと十分切ってるじゃないですか!」
『そうだよ! だから焦ってんじゃねーか!』
「……」
デン、ドンデンドン……
俺の脳内で、ラヴェル作曲「ダフニスとクロエ」第二組曲終盤の「全員の踊り」のティンパニーが鳴り始めた。
あと十分じゃ、今から自転車飛ばして園に向かっても、とても間に合わない。俺は自宅 PC の電源を入れる。
「 URL 教えてください! 俺がアクセスしてアップロードしますから!」
『それはありがたいけど、プロシーディングスのファイルをどうやってお前に送ればいいんだ?』
「う……」
マコトさんはPCのメアドを持っていなかった。オンラインストレージを使うにしても、彼女がそんなものを知っているとは思えないし、使い方を教えている時間もない。
「それでも、画面に何が書いてあれば分かれば、マコトさんにどうすればいいか教えてあげられますから!」
『分かった』
俺はマコトさんから URL と彼女のアカウントを教えてもらい、さっそく提出システムのログインフォームにユーザー名とパスワードを打ち込んでみる。
が。
"MULTIPLE LOGIN PROHIBITED"(多重ログインは禁止されています)
画面に表れたメッセージは非情だった。マコトさんが先にログインしている限り、俺は同時にログインできないのだ。ということは、画面を見ながら教えることも出来ない……
残り五分。すでに俺の脳内 BGM は、「ダフニスの愛のテーマ」を過ぎて一旦ピークを迎えた演奏が、再び盛り上がり始めている。
しゃあない。最後の手段だ。
こんなこともあろうかと。
俺は、いつでもどこからでも園内 LAN に入れるように、VPN 環境を組んでおいた。この前俺が主任に提案したのが、まさにそれだった。
時間は主任と会話した夜に遡る。
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