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 その日の21:00過ぎ。


「……あれ、ヨシユキ君だったのか。こんな時間まで何やってるんだ?」


 職員室の引き戸を開けて入ってきた、その魅力的なアルトの声の主は、篠原主任だった。彼女は今日は市役所に行っていたらしく、ずっと不在だったのだ。通常はスッピンでジャージがデフォな彼女だが、今は通称「お出かけモード」で、上下ともスーツに身を固め、メイクもバッチリ決めている。もう凜々しくて惚れ惚れするほどだ。


「あ、主任、お疲れ様です!」俺は愛想良く返事する。「いや、ちょっと、ネットワーク環境を改善しようと思いまして……この時間なら誰の迷惑にもならないので」


「ご苦労なことだな。残業手当は出ないぞ」


「いいっすよ、サビ残でも。これやっとけば間違いなく後で俺が楽になりますから、それで相殺ってことで。主任もこれから何か仕事をするつもりなんですか?」


「まあ、少しだけ、な」


「だったら主任もサビ残じゃないですか」


「私は裁量労働制ってヤツでな。まあ、どっちみち残業扱いにはならんのだが……それはともかく、君、それ、どこから持ってきた?」


 主任の視線が、今俺がいじっているノートPCに注がれる。


「中島先生が持ってきたんですよ。これも直せる? とか言って」


 俺は今日の出来事を簡単に主任に説明した。


「そんなことがあったのか……それは、以前園の予算で買って私が使っていたノートパソコンだ。だが、ハードディスクが壊れて使えなくなってな。捨てるにも金がかかるし、そのまま放っておいたんだ。私は自前で新しいヤツを買ったしな……だけど、君、それ直せるのか?」


「もう直しましたよ。ハードディスクは俺のお古に交換して。さっき、一瞬家に帰って取ってきました」


「ほう……さすがだな。だけど、OSを入れ直さないとダメなんじゃないのか?」


 主任こそ、さすがだ。俺とこういう会話が出来るのは、この園ではこの人しかいない。


「その通りです。でも、リカバリーディスクが見つからないし、こいつも結構古い機種ですからね。だったらもういっそのこと、 NAS にでもしちゃおうと思って、今無料フリーのLinuxを入れて設定しているところです」


「ナス?」


「ええ、ネットワーク・アタッチト・ストレージの略で、要するにネットワーク上で共有するハードディスクですよ。今日みたいに、パソコン内蔵のディスクにしかファイルがないと、そのパソコンが使えなくなったらおしまいじゃないですか。だけど、NAS にファイルを保存しておけば、ネットワークを通じてどのパソコンからも使えます」


「なるほど。そう言えば昔、研究室でそんなふうにファイルを共有してたな」


「研究室? 大学のですか?」


「うん……まあ、そうだな」


「だったら話は早いですね。これで随分便利になりますよ」


「だけど、そのハードディスクは君の私物だろう? ずっとこれに入れたまんま、って訳にもいかないんじゃないか?」


「だったら、新品を買ってください。500GB もあれば十分だと思います。今ならSSDだって五千円くらいで買えますよ」


「それくらいで済むのか!」篠原主任は目を丸くする。「だったら十分買えるよ。君に任せるから、適当に見繕って買ってきてくれ。領収書は忘れるなよ」


「分かりました。それで主任、実は、もう一つ提案があるんですが……」


 この時の俺は、その「提案」が後にまたフラグを立てることになるとは、夢にも思っていなかった。

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