第15話 校外学習8
トイレから戻ると、矢上は再び文庫本に目を通していた。しかし、喫茶店で読書というのは乙なものだな。俺も本は読む方なので、話の種に何を読んでるのか訊くのもいいだろう。
「すいません、遅くなりました」
「ん、おかえり〜」
ぱたん、っと本を閉じ俺と向き合う。気のせいか彼女から柔らかい雰囲気を感じる。
ちょうどBGMで流れてる交響曲が第3楽章に入ったところだった。
「ところで、何を読んでるんです?」
そう訊ねると矢上は何やら勿体ぶった様子でブックカバーを外し、本のタイトルを見せてくれた。
『ライ麦畑でつかまえて』
それは青春小説の古典的名作と言われてる。1年ほど前に読んだが、正直あまり内容を覚えていない。
「確かサリンジャーって言う人の作品でしたよね」
「へえ、よく知ってるね。読んだことある?」
「ええ、以前読んだことあります」
そう言うと彼女は前のめりになって
「やっぱり。土橋君は読んでると思ってた! ここの場面が特に好き」と熱心に語った。
その勢いに押され思わず身体をのけぞらせてしまう。
「お、おぅ。そうなんだ……」
「いやっ〜、さすが、いつも教室の片隅で本読んでる文学少年は違うね」
その茶化すような言い方にムッとする。
「ま、今どきの高校生は読書離れが進んでますから、サリンジャーを知ってる人はあまりいないでしょうね」
高校生の過半数は読書をしないらしい。言われてみれば、学校で読書してる奴は俺くらいなものだったな。
「それにしても、なぜ『ライ麦畑でつかまえて』なんですか?」
「ん? どういう意味?」
急に矢上はしおらしくなった。
「なぜその本を選んだのかなーと思って」
「特に理由はないよ。なんとなく手に取ったらこの本だっただけ」
——ふうん
****
そんな会話をしてる間に料理が運ばれてきた。
「ん〜美味しい」
パンケーキを一切れ口に含んで満足そうに顔が緩んでる。
そしてもう一切れ口に運ぼうとしたその時、矢上が怪訝そうに訊ねた。
「きょとんとした顔してどうしたの?」
「いや、女子って食べる前に写真を撮るんじゃ? ほら、インスタ映えとか」
女子高生はすぐ写真を撮る生き物だと思っていたのだが、違うのか?
「それ偏見って言うんだよ。一緒くたにしないでほしいな」
「あぁ、そうなんですね。すいません」
確かに、喫茶店のパンケーキなどわざわざ写すものでもないか。
「心外だなー。私ってそんなに普通の人間かなぁ?」
首をちょこんと捻って疑問を呈す。こういう仕草をあざといと表現するのだろうか。あと、その語尾を伸ばすのやめて欲しい。むず痒くなる。
うん。このたまごサンド普通にうまい。
しっかりと飲み込んでから口を開く。
「まあ、女子は容姿で判断付かないですから。男子で服装に頓着しない人は居ますけど、女子は基本身だしなみは整えてますよね」
男子はオタクっぽかったり、母親が買ってきたような服を着てる人を見掛けるが、女子でズボラな人は見かけたことがない。
「そりゃ、やっぱり周囲の視線を気にしちゃうじゃん」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
それからしばらく沈黙が流れ、皿にナイフやフォークが当たる金属音に包まれた。俺と矢上は黙々と食べ、その間言葉を交わすことは無かった。
(やっぱり、一人で食う飯が一番美味い。気が散って味を楽しむどころではない。俺は絶対持ち帰り派だ)
****
店を出るとすっかり雨が止み、空には所々晴れ間が見えるようになっていた。西の方は未だ雨粒を含んだ黒い雲が浮かんでおり、東側は綿飴のような白い雲が浮いていた。どことなく不気味さを感じるコントラストであった。
現在時刻2:30。集合の3:00まであと30分もある。
鎌倉駅まで向かう道中もお互い特に喋ることはしなかった。ただ漫然と足音を忍ばせて矢上の後ろをついて行く。
ふと、何気なく空を見ると一羽の鳥が舞っている。その精悍な姿に見惚れていると不意に矢上が立ち止まり呟いた。
「空を飛びたいって思ったことある?」
空を見上げたまま、その視線は一羽の鳥に向かっていた。
自分に語るような話し振りだったので、返事をするのが憚られた。
「私ね、たまに空を飛んでる夢を見ることがあるの。その夢の中では幸福感に全身が包まれて、何でも出来ちゃいそうな気分になるの」
「私には私だけの武器がある。勿論その世界では空を飛べるのは私だけ」
「すっごく幸せな時間なんだ。でも夢から覚めたら、一気に絶望しちゃう」
「なーんだ、夢か。急に現実に引き戻されて陰鬱な気分に苛まれるわけね」
「あーあ、鳥はいいな、自由に悠々空を飛べて」
「私も鳥になりたい」
心の奥底から露出した言葉には彼女の切実さが感じられた。
鳥も色んな苦労がありますよ。餌をとるのに苦労するし、他の動物から狙われる可能性もある。
そんなことを思った。いや、思ってしまったのだ。
それが何を意味するかはもう分かってる。
こんなの口には出来ないな。力のない笑みが浮かんできた。
それから矢上はしばらく余韻に浸っていたが、鳥が見えなくなると「なんか、ごめんね。変な話しちゃって」と、振り返ってはにかんだ笑顔をみせる。その時、雲の隙間から太陽の光スジが差し込んで彼女を包み込んだ。
—— あぁ綺麗だなぁ
我を忘れて見惚れてしまった。胸が熱くなるこの感じ、久しぶりな気がする。
その後は別々に鎌倉駅に戻った。お互いしんみり感傷的になっていたのだ。
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