第七章 鳥の歌

のび子が、五井駅近くの書店で購入した国語辞典のおかげで、繭子さんは、話したい言葉を探すことができるようになった。それをすれば、優を介さないで自分で言葉を言うこともできるようになるかもしれない。そうすると、優はちょっと寂しいこともある。

その日も、繭子さんは、のび子に手伝ってもらいながら、会話する練習をしていた。このときは、のび子が手伝った。繭子さんが、流暢に話をするためには、練習が必要だった。時々かわのやのロビーで練習をするのだが、その時は、にいにではなく、他人である人物が関わったほうがいいと言うことになり、今回はのび子が、練習にたちあった。

やり方はこうだ。まず繭子さんは、国語辞典の一番最初に掲載されているひらがな五十音を目で追う。そして、いいたい単語の頭文字が見つかれば、そこで頷く。のび子が、あいうえおから順に指さしていくと、繭子さんは、かきくけこのきの文字で、うなずいた。なのでのび子は、きのページを開き、きから始まる単語を指で示していく。「今日」という単語の前で繭子さんは頷いた。それをのび子が、今日と紙に書く。それを確認すると、繭子さんは、またあいうえお一覧に戻って、今度はさ行のせの文字のところで頷いた。のび子は、せから始まる単語を一つ一つ、指さしていく。繭子さんは、「晴天」という単語のところで頷いた。のび子がまた晴天とメモをとる。つまり、「今日」と「晴天」。メモに書いた単語を繋げていくと、「今日は良い天気ですね。」ということを、繭子さんは、言いたいことになる。

「はい、そうですね。今日はよく晴れています。外が気持ちよさそうです。今日は、養老の滝まで散歩しませんか?」

のび子がそう言うと、繭子さんは、また国語辞典をみた。のび子はすぐ、ひらがな五十音を指差すと、いで繭子さんは頷いた。のび子は、いのページを開き、いで始まる単語を指で追う。繭子さんは、「行く」という単語の前で頷いた。それをメモに書いたのび子は、「ぜひ行きたい」と繭子さんが言っているのがわかった。

「単語だけのコミュニケーションだけど、話せて嬉しいですか?」

とのび子が聞くと、繭子さんは、にこやかに笑って頷いた。

「そうでしょうね。言葉が話せるというのは、そうなるとすごいことでもあるんだわ。なにか繭子さんを見て、人間って、すごいことやっているんだなって思っちゃった。繭子さんありがとう。」

のび子は正直に感想を言った。それはのび子が繭子さんから学んだことだ。のび子は長年の不定愁訴で、もう生きていても仕方ないかと考えていた事もあったけど、繭子さんを見て、少し変わってきている。繭子さんのように、生きるのに純粋な人と、初めてあったから。

「じゃあ、繭子さん、これから養老の滝まで散歩に行きましょうか?」

繭子さんが、笑顔で頷いた。彼女も、意思を示してくれるようになったのだと思われた。そこでのび子が車椅子を押して、かわのやの正面玄関を出た。このときも、国語辞典は、欠かさずに持っている。二人は養老川に沿って道路を歩き始めた。

「風が吹いていい気持ちね。」

のび子は、繭子さんにいった。繭子さんは、にこやかに頷いた。

「こんなにいい天気だし、滝もきっときれいよ。」

滝の近くへ到着した。二人は、壮大な養老の滝を眺めながら、しばらく風の音や、鳥の声などを聞いていた。また繭子さんが国語辞典に目をやる。のび子が五十音を指で示すと、今度はるのところで繭子さんは頷いた。そこでるから始まる単語を一つ一つ示していくと、ルリビタキという単語の前で、繭子さんは頷いた。つまり、今鳴いている鳥は、ルリビタキなのだ。ルリビタキ、変わった名前の鳥であるが、とても美しい鳴き声である。

「とても美しい鳴き声をしている鳥ね。」

のび子がそう言うと、繭子さんは頷いた。その直後今度は別の鳥の鳴き声が聞こえてきた。繭子さんはまた国語辞典を見る。のび子が同じやり方で、単語を探していくと、今度は「ヤマガラ」というところで繭子さんは頷いた。かわいい鳴き声の鳥が、この養老渓谷にはいるものだ。しかし、繭子さんはどうしてそんなに山鳥の名前を知っているのだろう。

「繭子さんは鳥が好きなのね。なんでそんなに鳥が好きなの?」

のび子が聞くと、

「ああ、ああ。」

と、繭子さんは言った。また国語辞典に目をやる。また先程と同じやり方で、国語辞典の単語を調べていくと、「つばさ」という語で繭子さんは頷いた。のび子はそれを紙に書く。次に繭子さんは、今度はほから始まる単語を示した。そして、「ほしい」という単語の前で頷いた。「つばさ」、「ほしい」という2つの単語で、繭子さんは何をいいたいのか、よくわからなかったけど、のび子は、翼を持って、空を飛べたらいいと思っているのだろうなと推量した。

「そうなんだ、繭子さんは鳥が好きかあ。私も鳥は好きよ。好きなところまで、飛んでいけたら最高よね。」

のび子はにこやかに笑った。

「ああ。」

繭子さんは、そう言っている。

「じゃあ今の気持ちを、一言で言い表すと何かなあ?」

と、のび子は、国語辞典をまた開いた。今度はうで繭子さんは頷いた。なんだと思って、うではじまる単語を指で追っていくと、嬉しいという言葉の前でとまった。それを紙に書いて、今度はとで始まる単語を追いかけていくと、「ともだち」という単語の前で繭子さんは頷いた。「嬉しい」、

「友達」。つまり、友達ができて嬉しいという意味だろう。

「そうね。私も友達ができて嬉しいわ。これからもよろしくね、繭子さん。」

のび子は繭子さんに言った。繭子さんは同じようなやり方で、様々な鳥の鳴き声から、鳥の名前を言い当てた。ウソ、クマゲラ、サンコウチョウなどいろんな鳥が、この養老渓谷には住んでいる。中にはウソという変な名前の鳥がいるものだ。繭子さんは鳥の名前をよくそんなに覚えていられるものだとのび子は、感心した。

二人が、養老の滝の前で、辞書を通して鳥の名前を話していると、一台のパトカーが、道路を走っていった。パトカーはかわのやの前でとまる。

「かわのやへ戻りましょう。」

のび子は繭子さんの車椅子を押して何があったのかと、かわのやに戻った。かわのやの正面玄関から入ると、

「だから違います!僕は、何もしていません。だから、宮川さんを殺害した犯人ではありません。本当に何もしなていないんです!」

と、優が華岡の前でそう言っているのが見えた。

「しかしですね。村瀬さん。あなたが宮川博さんと、昇竜の滝の近くで会っているのを目撃した人がいるんです。その人のほうが間違っているとでもいいたいんですか?他にもあなたが、昇竜の滝近くから走ってきたのを見た住民もいるんですよ。それでもあなたは、昇竜の滝へ行っていないというおつもりですか?警察をバカにするのも、いい加減にしてください!」

華岡が怒りを込めてそう言うと、優は申し訳無さそうな顔をして、

「僕は、何もしていません。確かに、宮川さんとは会いましたけど、彼を殺害するようなことはいたしません。僕はアリバイが無いとしても、まさか彼の命まで奪うようなことはしません。だって、そうじゃないですか。繭子のことを抱えて、人を手に掛けるような気持ちは生じませんよ。」

と、華岡に言った。

「そうですか。じゃあ、もう一回聞きますよ。宮川博さんと何があったんですか?昇竜の滝の前で、何をしたんですか?」

華岡がもう一度聞くと、

「はい、宮川が、繭子に謝罪をしたいと訪ねてきました。僕は、そういうことは、もうしなくていいと、宮川に話しました。ですが、宮川はしつこくて、もう繭子には手を出さないでくれといったのに、どうしても謝りたいと一生懸命話してくれるのは、確かだったんですが、でも、もう繭子にはあわせたくなかったんです。どうしてもどうしてもと詰め寄ってくるので、僕は振り切るようにして別れました。そのときに声を荒らげたことは認めますが、でも、宮川さんを殺害するようなことはしませんよ!」

と、優は、急いで言った。

「でも、立派な、動機がありますし、目撃証言もとれているんですがね。」

華岡がそう言うと、

「それだけにこだわりすぎるから、刑事さんもいつまでも犯人を逮捕できないんじゃありませんか。他に、可能性がある人物はいないんですか?」

と、のび子は華岡に言った。

「残念ながら、他に、動機のある人物は見当たらなかったし、不審な人物がいたという情報は何も入ってきていない。だから、彼しか、見当たらないので。」

華岡は、警察らしくそう言い訳した。

「そうかも知れないですけど、優さんが、他人を殺めるようなことはするでしょうか?彼でなければ、繭子さんを一生懸命世話することはできませんよ。無条件で誰かを愛せる人は、殺人なんて簡単にはしません。あたしはそう思います。」

のび子はそう言うが、華岡たちは、

「うーんそれなら、どうすればいいのかな。俺達は。」

と、首をかしげるばかりだった。

「本当に、いないんですか?不審な人物を見かけたとか、そういうことは、無いでしょうか?」

のび子は大きなため息を着いた。

「そうなんだが、近所の住民誰に聞いても誰も言わないんだよ!」

華岡は、苛立った様子で言った。

「この、かわのやの従業員に聞いても、話をしてくれないし、本当にどうしたらいいのやら!」

「マアマア待て待て。」

華岡が困った顔をして言うと、杉ちゃんと水穂さんが、正面玄関から入ってきた。

「警察は状況とか、目撃証言とかで、簡単に犯人を決めつけちゃうようじゃだめだぜ。」

「そうだけどねえ。確かに、優くんが、宮川と、昇竜の滝の近くで話しているのは目撃されているんだが、それ以外の人物が、なにかしているという証言は何も無いんだよ!」

「まあ、そうだねえ。そういうことなんだ。それは事実だよなあ。じゃあ、その理由を考えてみな。」

と、杉ちゃんはなだめるように言った。

「当たり前だ!それで当たり前だよ。それ以外目撃証言がなかったということは、それ以外の人物が、いなかったからに決まってるじゃないか!」

「それなら、こう考えてみたらいかがですか?なぜ、それ以外の目撃証言がなかったのか。」

水穂さんが、華岡の話しにそういった。

「それは当たり前じゃないか。優くん以外に、不審な人物はいなかったからだよ。いなければ当然、目撃証言も出ない。」

と、華岡が言うと、

「本当にそうでしょうか。もし、それが、誰かが仕組んだものだったとしたらどうします?」

と、水穂さんが言った。

「仕組んだもの?そんな事あるわけが、、、。」

「いえ、あり得るかもしれないじゃないですか。例えば、有力な人物がいて、その人物がここの人たちに、自分のことを証言しないように、言いふらしていたということがあったかもしれません。」

水穂さんが、静かにそういった。

「そんな事、有り得る話だろうか?まるで時代劇のワンシーンじゃないか。」

華岡が急いでそうきくと、

「いえ、ここは、都会ではありませんし、住んでいる人も都会に比べると格段に少ない。それに都会の人ほど、独立心がある地域でもなさそうですから、有力者の言うことはすぐに従ってしまうかもしれません。僕が住んでいたところもそうでした。」

と、水穂さんは答えた。確かに、水穂さんが住んでいたところほど、軟弱な地域ではないが、確かに、田舎に住んでいる人は、権力者に弱いのは、いろんな文献で確認できるものである。

「そうだけど、それじゃあその有力な人物って誰なんだ。誰がそんなことを仕組むことができるかな?」

華岡は首を捻ってそう言うと、

「ええ、誰かいるはずですよ。この近くで恐るべき偉業を成し遂げた人を探してみてください。それを調べてみれば、情報がつかめるかもしれません。」

水穂さんがそう言うと、

「そうだねえ。やってみるよ。水穂のような発想は、同じような生活基準の人でないと、思いつかないと思うよ。まあ、今どき時代劇にあるようなそんな取り決めがあったことは、無いと思うけどねえ、、、。」

と、華岡は言ったが、

「いえ、ここは、養老渓谷です。東京の都心からすぐ行ける場所であるとしても、東京とは明らかに環境が違うはずです。」

と、水穂さんはきっぱりと言った。

「華岡さん、もう一度やってください。」

水穂さんだけではなく、のび子もそういった。何故か、水穂さんのために、そうしたいと思った。それに、水穂さんのような人でなければ、思いつかない発想を、生かしてあげたかった。

「わかったよ。」

と、華岡たちは、小さくなって、かわのやを出ていった。

「どうもありがとうございます。本当に、お二人がいてくれて助かりました。お二人がああして発言してくれなかったら、僕はどうなるかと思いました。」

優が水穂さんに頭を下げると、

「いやあ、いいんだよ。お前さんは何もしてないんだろ。それを、貫き通せばそれでいいんだ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「しかし、水穂さんが、言うことが事実なら、ここの住民すべてを巻き込んで、黙っている様にと吹聴した、有力な人物って誰なんだろうね?」

「そうですね。私も思いつきません。養老渓谷に住んでいるわけでも無いから当然のことといえば当然なんですけど。」

のび子は、杉ちゃんの言葉にすぐ考えた。

「でもさ、ほら、さっきのことを、考えると誰か浮上するかもしれない。だって、ここは、電車の本数こそ少ないとはいえ、小湊鐵道一本で、五井駅に出られるところだ。つまり、30分電車に乗れば、大都市にたどり着ける。それくらい、利便性のいいところだ。それに、ここに定住している住民もごく少ない。もしかしたらだよ。この養老渓谷に、頻繁にやってくる観光客の姿に変身して、現れるかもしれないよ!」

「ああ、そうか!でも杉ちゃん、ここは、千葉でも有数の観光地よ。観光客なんて星の数ほどいるじゃないの。みんな同じ格好をしているのよ。その中から、有力な人物を見破れるかしら?」

のび子はそう言うが、

「でもさ、その中でものすごい偉業を成し遂げたやつというのは、少ないんじゃないのか?」

と、杉ちゃんが言った。確かにそれはそうだ。そういう人になると、人が限られてくる。

「そうだけど、偉業を成し遂げた人なんて、すぐ見つかるかしら?それに偉業はどんな偉業なのか、それすらわからないじゃないの。」

のび子がそう言うと、

「例えばここで有力な公家や武家を当たってみるとかはだめかな?」

と、杉ちゃんは言った。

「まあ、そういう人が、見つかればの話ですけどね。もしかしたら、偉業の種類も時代によって違うかもしれないですよね。」

と、水穂さんが言うので、のび子はまた考え込んだ。

「そういう人はいるのかな?歴史に残るようなことをする人は、すぐには見つからないと思うけど、、、。」

「すぐには見つからないだろうね。でも、有力な家系とか、そういうことはあったと思うよ。そういう家を当たってみるというのは、犯人につながるかもしれないぜ。」

杉ちゃんがそう言うので、そうなのかなとのび子は思い直した。

「偉いやつほど、些細なことで悩むもんだし、それを隠そうとするし、何よりも世界が狭いじゃないか。」

確かにそうかも知れなかった。のび子はそこで、繭子さんが、なにかいいたそうに、国語辞典を見ているのが見えたので、

「どうしたの繭子さん。なにかあったの?」

と、国語辞典を手に取って、五十音のページを開いた。繭子さんは、今度はたちつてとのとの文字のところで頷いた。のび子が、との文字から始まる単語を、追っていくと、東京という単語の前で繭子さんは頷いた。

「東京がどうかしたのか?」

と、杉ちゃんが言うと、のび子は東京とメモ用紙に書き、次の単語を探すため、五十音のページを開いた。今度は、普通の五十音のところではなく、濁音のところにあるだぢづでどの行にあるだの文字の前で繭子さんは頷く。そして、だで始まる単語をのび子が指さしていくと、大学の前で繭子さんは頷いた。のび子は大学とメモ用紙に書く。

「東京、大学。つまり、東京大学じゃない。つまり、偉業というのは、東京大学ってこと?」

のび子が聞くと、繭子さんはしっかり頷いた。

「しかし、それを成し遂げただけで、偉業になるかな?東京大学は、たしかに、日本ではすごい大学だが、国際バカロレア資格者を受け入れているとか、そういう大学じゃないから、大した大学じゃないよ。」

杉ちゃんが急いでそう言うと、

「いえ、有り得る話です。特に地方では、東京大学に合格者が出た場合、地区住民全員が祝の品を持って来たことだってあります。」

と、優が発言した。

「でもそれは昭和の初めくらいまでで、今はしないんじゃないの?」

と、のび子が言うと、

「いや、有り得る話かもしれませんよ。僕が音大にいったときも、近所中の人たちが駅へ見送りに来てくれたくらいですから、東京大学に合格したとなれば、お祭り騒ぎになるのでは無いでしょうか。それに、ここは電車で30分で都会に出れますが、それとは比べ物にならないほど閑散区間ですし。」

と、水穂さんが言った。

「じゃあ、この当たりで、東大に合格した人物がいて、そいつが、ここの住民に、自分の犯行を隠すようにと、指示を出したのか。住民はその人が東大合格者だからということで、従わざるを得なかった。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。それはあると思います。もしかしたら、本人では無いのかもしれません。その人の親御さんとか、親戚とかそういう人たちかもしれません。」

と、水穂さんが言った。

「そうかあ。じゃあ、ここのあたりで東大に関わりがあるやつといえば、、、。」

杉ちゃんは、少し考えて、

「あ!」

とでかい声で言った。のび子も、同じ言葉が思い浮かび、すぐに杉ちゃんと同じ言葉を言ったため、二人の発言は同時になってしまった。でも、おかげで何を言っているのか、わかるようになった。

「あのカメラオタク!」


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