第六章 新しい辞書

その次の日、杉ちゃんが、繭子と優と一緒に、かわのやの庭を散歩していると、また華岡が、警察官を連れて、かわのやにやってきた。一体なんだろうと思ったら、華岡たちの表情は真剣そのものである。

「失礼ですが、村瀬優さんと、村瀬繭子さんですね。ちょっと、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか。お二人が、あの事件のあった日、昇竜の滝の近くで、宮川博さんと話していたのを、滝近くの住民が目撃しておりまして。あなた方はあの日、かわのやの中にいたとおっしゃいましたが、それはもしかして真実ではなかったのでしょうかね?本当の事を話していただけませんか?」

華岡は、優と繭子に詰め寄った。

「はあ、でも、どうして僕達が、一面識もない、宮川さんを殺害しなければならないんです?」

優が聞くと、

「一面識もなかったというのも、また大違いなのでは無いでしょうか?あなたたち、二人のことを、ちょっと調べさせてもらいました。村瀬繭子さんと、宮川博さんは、同じ時期に東京大学を目指していて、かなり仲が良かったことは、複数の東大生が証言しています。繭子さん、あなたは、宮川と、単なる友人関係ではなく、男女の関係にあったのではないですか?」

「あ、あ、ああ。」

繭子さんはなにか話そうとしているが、それはできなかった。華岡と警察官は、言葉が出ない繭子さんに苛立った顔をした。

「違います、繭子が、宮川と男女関係にあったという事実はありません。あれは宮川が、繭子を脅かしていたようなもので、繭子は被害者なんです!」

優がそう説明したが、

「本当にそうですか?それなら、余計にお兄さんが殺害した動機もはっきりしてきますな。お兄さんは、妹さんにまとわりついてくる、宮川さんがじゃまになってそれで殺害したのでは?」

華岡はそう言い返した。

「繭子さん、本当の事を話してください。あなたと宮川博は、もしかしたら、恋人同士だったのではないですか?」

と、ちょっと年配の警察官は優しく言った。できるだけ優しくするように工夫しているのが見えた。それでも、繭子さんは、ああ、ああ、しかものが言えなかった。

「まあ、待て待て、要するにだなあ。事実は一つしか無いはずだ。それに、事実は事実であり、動かせないことも確かだ。問題は、それを繭子さんが、口に出して言えないというところだろう。それなら、事実を言ってもらうしか無いよな。まずはじめに、宮川という男と、繭子さんが、どうして知り合ったのか。話はそこから始めるべきじゃないのか?」

杉ちゃんが、警官と二人の間に入っていった。

「事の起こりは、繭子さんと宮川という男が知り合ったことから始まるんだし。そこからちゃんと説明しないと、刑事さんたちには通じないよ。それに、二人があの事件に関わってないと言いたいんだったら、それを隠す必要も無い。まず初めから話して、終わりまでしっかり聞かせてもらおうぜ。」

「そうですね。」

優は、小さな声で言った。もう後戻りできないと思ってしまったのだろう。

「事の起こりは、繭子と宮川さんが、たまたま同じ予備校に通っていたところから始まりなんです。」

「はあ。それはどこの予備校だ?どうして予備校に行こうと思ったの?受験の対策というものは人によりけりだろ?予備校に行くばっかりじゃないよな?通信教育受けたり、カバネス雇ったり、いろんなやり方があるはずだ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。繭子が東京大学を受験できると、学校の先生から言われたんです。そのくらいの成績だから、東大に行かないともったいないって。」

と、優は言った。

「なるほど。つまり、それは、学校の先生に勧められてしたことで、繭子さんの意思ではなかったわけだね。」

「ええ、そういうことになりますね。僕達は、平凡なサラリーマン家庭ですし、とても東大へ行けるような身分ではありませんでしたが、繭子が担任の先生にそう言われて、家の家族は、繭子を一生懸命鼓舞して、東大へ行かせることを決めたんです。それで、学校の授業ではとても受験対策が追いつかないからって、それで、繭子を、家の近所にあった予備校に行かせました。そこの入学テストでも繭子はすごい成績で。それで、あれよあれよと東大を受験することになってしまいました。」

優は、頭をたれたままそういった。優にしてみれば、妹がそれまで縁のなかった東京大学というところに行くことになって、自分にはできないことが妹にはできるのだと言うことで、ある意味、嫉妬の感情もあったのだろう。まあ、親は東大に行けると言われれば喜ぶが、年の近い兄弟は、喜ぶとは限らない。

「そうなんだね。それで、繭子さんと、宮川博が、知り合ったわけか。」

「ええ。たまたま同じクラスにいたんです。もちろん、予備校ですから、生徒同士の恋愛は認められませんが、繭子は宮川さんと、すぐに仲良くなって、毎日パソコンでメールをしたりしていたようです。その内容は、僕にも話してくれませんでしたので、僕もわからないのですが、繭子は楽しそうにやっていたので、きっとそういう内容だったんだと思います。」

「はあ、お兄さんなのに、妹さんのメールの内容も知らなかったんですか?」

と、華岡が呆れた顔でそう言うが、

「いや、よくあることだ。父親が、娘の結婚相手を、結婚の直前まで知らなかったということはどこの家でもあるだろう。」

と、杉ちゃんに止められた。

「残念ながら、そういうことなんです。僕は、繭子が、具体的に何をしていたのか、よくわからないのです。敢えて言えば、とても楽しそうでしたので、きっと予備校であったこととか、そういう事を話していたんだと思うんですが。」

「はああ、、、。そうなんですか。そこを、しっかり話してもらわなければ困ります。そこをつかめれば、もうちょっと事件の全容がわかると思うんですけどね。」

華岡が思わず言うと、

「そうだけどまだ、聞き出しは終わっていない。華岡さんたちも、自分たちの欲しいものばかり主張しないの。こういうときは、最初から最後までちゃんと聞こう。それで、まあ、具体的にどうだったかはわからないけど、繭子さんと、宮川さんが、仲が良かったというのは間違いないんだね。」

杉ちゃんが急いで言った。

「はい。それは間違いありません。」

「で、その後どうなったの?続いたの?」

「はい。それで一緒に東大を受験したんですが、あいにく、宮川さんだけが、合格することができて。繭子は、不合格だったんです。それで、繭子が、自分の体にガソリンを撒いて自殺しようとしたんですが、それがあいにく助かって。それで、こういう体になってしまったんですが。それなのに、宮川博さんは、何度か、繭子のところに来て、繭子の事をずっと見ていました。」

優は、小さい声で言った。

「はあ、それはどれくらいの頻度で、繭子さんのところに来たのかな?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい。合格発表の直後から、入学する前は、毎日僕と繭子の家に来ていました。繭子に一度でいいからお詫びをしたいって。それが毎日ですから、僕達は、宮川博さんが、繭子を追い詰めているのではないかと思っていました。」

と、優は言った。

「にいに。」

繭子さんがそう言った。でも、その後の言葉は、続かなかった。

「まあ、繭子さん。お前さんが言いたいことはわかるけど、ちょっとにいにの話を聞こうね。」

と、杉ちゃんが言った。

「で、それで、今に至るまで、そうやって、宮川がお前さんの家に来たのか?」

「ええ、4月になって、学校が始まるようになると、週に一度くらいしか来なくなりました。今は全く来ていませんが、でも時々花束が、家の玄関先に置いてあることがあり、それでまだ、宮川さんが家に来て、置いていくんだなと言うことがわかりました。」

「はあ、なるほど。なんかオペラ座の怪人みたいだな。今でも、クリスティーヌを愛しているって言うような。まあ、一途な愛し方だねえ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「で、ここからが本題だ。宮川博さんが、繭子さんを、脅迫したとか、そういう事実があったのか?そこをまず、はっきりさせよう。具体的に、なにか脅迫状を出したとか、それとも、無言電話をしたとか、そういうことはあったのか?」

「いえ、それはありませんでした。でも、定期的に、家の前に花束を置いてくるという行為は、最近まで続いていて。こっちに来たのは、そこから逃げるためでもあったんです。」

「にいに。」

繭子さんは、抗議するように言った。

「はあ、なるほど。にいには、宮川さんの行為を、脅迫だと思っているようであるが、繭子さんはそうは思っていないということだね。よしわかった。そこもはっきりさせような。じゃあ、宮川さんは、今でもオペラ座の怪人みたいに、繭子さんのことを愛しているというわけか。それを、優さんは、そこから逃げようと思ってこの養老渓谷に来たということね。なるほどなるほど。」

「うう、あ。」

繭子さんは涙をこぼして泣き始めた。

「まあ泣かなくていい。事実は事実だからさ。それ以外何者でもない。それは、繭子さんもちゃんと思っておけ。」

杉ちゃんが、繭子さんにいった。でもそれは、何も慰めにならなかったようで、繭子さんは、涙をこぼしてしまった。

「なるほど。事件の背景がわかりました。それで、今度は俺達の番です。それで事件のあった日、繭子さんがここにいることを、宮川博は知って、それで会いに来たのでしょう。それを脅迫だと思った優さんが、繭子さんを守るために、宮川博と、昇竜の滝の近くで口論するかなんかして、それでカッとなって思わず、こういうところではないですか?」

と、華岡が急いでそう言うと、

「違います!僕は、そんなことはしていませんよ!確かに、宮川が、このかわのやの近くまで追いかけてきたというのは間違いありませんが、僕は、これ以上妹に近づかないでくれと言って、それで別れました。その後宮川を手に掛けたなんてことはありません!」

優は急いで否定した。

「でも、宮川を殺すには、動機がありますよね。」

華岡が急いでそうきくと、

「そうかも知れませんが、してないことはしていないので、調べるなら他の人を調べてください!」

優は、強く言った。

「まあ待て待て。華岡さん。繭子さんに、一生懸命付き添ってやっているにいにだぜ。そういう人間が、簡単に他人の命をどうのということをするかな?そういうやつは命をとても大切にすると思うけど?」

杉ちゃんが優の代わりにそう言うと、華岡はそれもそうだなと言った。一緒に来た警察官は、警視が人が良すぎるといったが、華岡は意見を変えないようだった。

「それに、自分がいなくなったら、繭子さんは生きていけないことは、にいにが一番良く知っているはず。まあ、誰かお手伝いさんを頼もうとか、そういう事していればまた別の話だが、それは違うんじゃないの?だったら、簡単に二人の仲が切れるような行為はしないはずだよ。」

杉ちゃんは、続けていった。

「そうだな、杉ちゃんの言うとおりかもしれない。俺も、障害者の親を取り調べたことがあるが、同じような発言を聞いたことがある。私がいなければあの子はやっていけないという言葉。確かにその時も、容疑者にはならなかった。今回もきっとそうだよな。」

華岡は、腕組みをしてそういった。隣にいた警察官が、警視はそうやってすぐおいしい話しに騙されるんですねと呆れた顔して言うのも、華岡は無視して、

「まあ、今回は、俺達の早合点みたいだな。よし、もうちょっと、背後関係を洗ってしっかり調べ直してから来よう。」

と言って警察官にもう帰ろうといった。

「じゃあ、俺達これで失礼しますが、また何か情報がありましたら、しっかり知らせてくださいよ。隠していたって、俺達は調べますから。その時はよろしく。」

華岡と警察官は、杉ちゃんたちに一礼して、かわのやを出ていった。

「ありがとうございました。影山さんが、助けてくれなかったら、僕達絶対、警察に行かなくてはならないと思っていました。本当に、ありがとうございます。」

優が杉ちゃんに言うと、

「いやあね、僕は、名字で呼ばれるのは嫌いだから、杉ちゃんと呼んでくれ、杉ちゃんと。」

と、杉ちゃんはまたカラカラと笑った。

「いやあ、年上の方にあだ名をつけるわけには行きません。やっぱり、影山さんと呼ぶのが一番いいのでは?」

優はまた言うが、

「いいってことよ。それより、お前さんたちが、本当に犯人じゃなくて、ホッとした。早く、宮川っていう男を殺害した犯人が捕まるといいね。」

と、杉ちゃんは言った。

「でも、警察は、お前さんたちが、昇竜の滝へ行ったことは、知ってるんだよな?」

「ええ。確かに、宮川がここまで追いかけてくるのは、もはやストーカーじゃないかって思って。もう来ないでくれって何回も言ったのに、花を置いたりするものですから。」

優は、嫌そうな顔をしていった。

「まあ、それもそうだねえ。でも、一度だけ宮川の気持ちを聞いてやっても良かったかもしれないぜ。もしかして、宮川は、サバイバーズギルドみたいに、自分だけ東大に合格して、申し訳ないと思っていたかもしれないよ。お前さん、繭子さんのメールの内容を知らないんだろ?もしかしたらその中には、一緒に東大に行こうとか、そういう言葉があったのかもしれない。それを破っちまったんだから、宮川はずっと罪の意識を持っていたのかもしれないよ。それを一度聞いてあげても良かったんじゃないのか?」

「ああ、あ。」

繭子さんはまた何かいいたそうな顔をした。

「繭子さんが、何をいいたいか、調べる道具でもあるといいね。一番いいのはドラえもんの翻訳こんにゃくがあればいいが、それもできないしね。例えば、手話を覚えてもらうとか、そんなことはできないものかな?」

杉ちゃんがまた言うと、優は首を横に降った。

「だめです。腕が動かないので、手話によくあるものの形を作ることができません。」

「はあそうか。例えば、指文字でもだめかなあ?片手の五本指さえあれば、形作れるそうだが?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえ、それも無理ですよ。手の指は三本しか動かせないので。」

と、優は言った。

「そうかも知れないけどさ、でもいずれは、ってこともあるんだから、なにか他人に話しかける方法を覚えてもらうのは必要だと思うよ。なんかいい方法無いのかよ。まあ、僕も馬鹿なので、何も思いつかないけど、、、。」

杉ちゃんに言われて、優はすぐ落胆の表情をして、

「僕も色々考えましたが、繭子にできるのは、首を縦にふるか横にふるかしかできません。鉛筆も握れないし、指文字も形作れない。何もできやしませんよ。だから、僕がそばにいてやるしか無いでしょう。」

と、杉ちゃんに言った。

「そうだけどさあ。お前さんが繭子さんのことを思って一生懸命やろうとしているのはわかるけど、いずれは、別れちまうときだって来るわけだからさ。なにかコミュニケーションの手段は持っていたほうがいいよ。ALSとか、そういうものを持ってるやつのコミュニケーションを真似するとか、そういう事やってみたらどうなの?」

「影山さんの言葉は間違っていないと思いますが、繭子には何もできないので。」

いくら言っても平行線になってしまうような会話だった。確かに繭子さんは、手も足も動かないし、誰かの助けを得なければ生きて行けないはずだ。でも、杉ちゃんの言うことも間違いではない。

不意に、かわのやの正面入口が開いた。水穂さんとのび子が散歩から戻ってきたのだ。繭子さんは、水穂さんの顔を見て嬉しそうな顔をする。

「悪いけど、表情だけでは何も伝わらんよ。ちゃんと言葉にして、伝えることを覚えないと。」

と、杉ちゃんが言うと、のび子と水穂さんは、三人の間に何があったのか、わかってくれたみたいだった。

「そうですね。確かに、繭子さんが言葉を交わせないというのは、非常に問題です。」

水穂さんも杉ちゃんの話しに賛同する。

「あ、あたし、いい案を思いついたわ!口でペンをくわえてホワイトボードに書いてもらうとか?」

のび子がそう言うと、

「それも試しましたが、首の動きに制限がありまして、できませんでした。」

と優はすぐ否定した。

「でも、お兄さんがしょっちゅう彼女に着いていられるわけでも無いと思うので。」

と、水穂さんが言う。

「もし可能であれば、辞書を持ってきて彼女が話したい単語を指さしてもらうのはどうでしょう?誰かの本にそういう場面がありました。やはり、手も足も動かない方が、そういう場面を作っておられました。」

「ああ、それはいいかもね。確か、そういう人、いたような気がする。」

杉ちゃんはすぐに水穂さんの話に割って入った。

「重度の脳障害のある人だったかな?その人は、文字盤を指して、喋ってたよな。それと同じだと思えばいいのか。」

「はい、そうです。国語辞典を持ってきていただいて、繭子さんが話したい言葉の頭文字を指さしてもらい、それから、話したい単語の前で指を止めてもらうんですよ。そういうやり方は、アルファベットのほうが楽で、日本語ですと面倒かもしれませんが、それは仕方ありません。それでも、繭子さんが他人に言葉を伝えられるというのはできると思います。」

「水穂さんすごいわねえ。そんな、名案よく思いつくわ。大したものだわ。」

のび子は感心していった。背景を考えると、水穂さんが大変貧しい環境で育ったため、欲しいものが必ず必然的になるから、そういう考えが出るんだろうなとおもった。つまり水穂さんも、生きるのに純粋なところをもっているということである。そういうところを生かしてくれれば、水穂さんだって、生きている価値は十分にあるじゃないとのび子はいいたかったが、それは今の場面ではできなさそうだった。

「とりあえず書籍として出版されている国語辞典を、一冊買ってくるといいと思います。」

と、水穂さんが言ったため、のび子は、すぐ買ってきますと言って、急いでかわのやを出て、駅へ向かったのだった。



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