第五章 カメラオタクの女性

その日も、水穂さんたちは、また養老の滝を散歩していた。大きな迫力のある滝を眺めている水穂さんは、少しづつではあるけれど、良くなってきているようだ。今日も歩いて滝まで来られるし、えらく咳き込んでしまうことも少なくなった。やっぱり、養老渓谷の自然がいっぱいある場所が、静岡のような気ぜわしくてストレスの多い場所よりも良さそうだと言うことだ。

水穂さんとのび子が、養老の滝を眺めていると、

「こんにちは。」

と若い女性の声が聞こえてきたので、振り向くと、いきなりカメラの音が聞こえてきたので、びっくりしてしまった。

「よし!撮りましたよ!絶対写真に撮ると思っていました。現代版竹久夢二を一度はこのカメラに収めたいと思っていました!」

そこにいたのは、高見沢美代子さんだった。

「なんですか。人を勝手に撮ったりして。いくら東大生でも、勝手に写真を撮るなんて、非常識ですよ。」

と、のび子がそう言うと、

「はい。そうですね。でも私は、諦めませんよ。一期一会の儚さ辛さ、記念になる人を、いつまでも残しておける、カメラは世紀の大発明!」

美代子さんはそんな事を言っている。

「そうですが、写真を撮るなら、本人に許可をもらって撮ってください。」

のび子は呆れたように言った。

「そうですねえ。でも、許可をもらおうと言うんだったら、永久に現代版竹久夢二を写真に残せませんから。それでは、困るでしょ。それに、私、あなたのことは、展示会には出しませんよ。それより私が、一生の記念として、あなたのことをカメラに収めて置きたかっただけですよ。」

「そうですか。そんなに印象に残ったんですか。」

水穂さんは、苦笑いした。

「当たり前ですよ。もう一回いいますが、水穂さんは、竹久夢二も脱帽すると思います。大学に行ったら、女性がいっぱいくっついてくると思いますよ。」

「なるほど。東大生は、頭が固くて、日頃から勉強ばかりしているのではありませんか?」

「いいえ、大学は、つまらないです。東大なんて、入るのはすごい大変だけど、入ってみたら、何だか空っぽの箱に足を踏み入れたみたい。退屈ですよ。」

のび子は美代子さんに、何学部にいるのか聞いてみると、美代子さんは、文学部と答えた。確かに、東大の中でも、比較的入りやすい学部かもしれないが、それでも、日本で最高峰の大学なのだから、もうちょっと、そこを大事にして貰えないだろうかと思う。

「まあねえ。東大なんて、頭のいい人がいっぱいいるといいますが、それ以外に、何もいいことがありません。校舎も古いし。中には、車椅子の学生さんもいるから、あんな古臭い作りで、可哀想です。もっと出入りしやすい校舎にしてくれればいいのに。」

今どきの女性の感覚だと東大はそうなってしまうのか。

「あーあ、大学生なんてつまんないですよ。早く卒業して、カメラ関係の仕事に就きたいな。親は大学院への進学も勧めてくれてはいますが、そんなところなんて、私にしてみれば時間の無駄です。」

「そうですか。確かに、私から見たら憧れの大学ではあるんですけど、入ってしまうとそうなってしまうもんですかねえ。」

のび子が美代子さんにそう言うと、

「私は、親に大学へ行けと言われて行ったけど、つまらないことばっかり。大学なんて、一時の飾り物かな。まあ、誰かの歌詞を借りれば、退屈な授業が俺たちのすべて、ですよ。早く四年生になって、社会に出たい。もう、親の飾り物でいるような人生は嫌ですよ。」

と、美代子さんは、がっかりした顔でいい始めた。

「飾り物?なにかあったんですか?」

のび子は美代子さんに言った。

「ええ。全くねえ、うちの親と来たらね、私を東大に入れて、家のメンツをあげたかっただけみたいで。私が、東大に入ったと言って、近所の人に自慢ばかりして。私は、いい迷惑です。まあうちの両親は、ふたりとも叩き上げの職人ですが、それを私にはさせたくなかったみたいで、東大に行けと言ってうるさかったです。私は、カメラ関係の仕事をしたいって言ったのにな。全く、四年間なんてあっという間だといいますけど、私にしてみれば、つまんない時間を四年間与えられただけ。だから時々、ここに来て、命の洗濯するんです。」

「いや、親御さんの言うことは、間違いでも無いと思いますよ。確かに退屈かもしれないけど、東大を出れば、ある程度日本社会では優遇されることは間違いありませんから。いくら東大の学問が退屈であるとしても、そこにいるべきだと思います。」

水穂さんがそう言うと、美代子さんは、

「そうねえ。確かにそうかも知れないけど。試験の点数さえ良くて、それで地位が決まってしまうような、そんな学問は、もう嫌だわ。」

と言った。確かに、小学校から、高校まで教育システムはそうなっている。試験の点数が一番良ければ、たしかに、上位の学校に行くことができる。

「そんなの、教科書の答えを写すだけで、何も意味が無いと思うんだけど。まあ、家の親は、東大に行けばそのようなことは絶対にないって言うけど、大嘘だったわ。それなら、好きだったカメラに打ち込んでおくべきだった。」

まあ確かに、彼女の言う通り、日本の教育は、そういうふうになっている。彼女は、そのつまらなさを、カメラをすることで紛らわせていたのだろうが、ときにそのつまらなさは、若い命を落としてしまうこともある。

「そうですか。まあ確かに、勉強もろくにしないで野球に打ち込んでいたとか、そういう事があっても不思議では無いと思います。僕も、幼いときはそうでした。勉強のことなんてどうでも良くて、ピアノに打ち込んでいましたから。」

水穂さんがそう言うと、

「そうよねえ。そうしていたほうが、よほど楽しいんじゃないですか。私は、なんだか頭が空っぽになってしまう。」

と、美代子さんは言った。

ちょうどこのとき、

「にいに。」

と、蛙を潰したような声がして、車椅子を押している音がした。誰だろうと思ったら、繭子さんだった。繭子さんの顔が、美代子さんを見て、どんどん変わっていくのが見える。

「ああ、確かあなたは、村瀬繭子さんでしたわね。体のご不自由で大変ですね。」

美代子さんが急いでそういうと、繭子さんは、ちょっと怒りの表情をした。一緒に来た優は、それで良かったと思うような顔を一瞬だけしたが、すぐに元に戻った。

「ああ、わかってるわよ、繭子さんの気持ち。じゃあ、私、お邪魔虫は消えるかな。今日は現代版竹久夢二も写真に撮れたし。三時の小湊鐵道で、五井駅に戻ります。」

美代子さんはカメラをカバンの中に片付けてそういった。

「美代子さんはいいですね。東大という身分も保証されているし、繭子と違って、誰かに手助けを頼む必要もない。自由でいいですよ。」

優が、繭子さんの気持ちを代弁してそういう事を言う。

「まあ、人間は、誰でも超えられない壁ってありますから。」

水穂さんが彼女を慰めるように言うと、

「ちょっと皆さん!お前さんたちに、ちょっと聞きたいことがあるんだって。ちょっと協力してやってくれ。」

と、杉ちゃんがやってきた。一緒にいるのは、華岡と、警察官が一人いた。

「実はですね、昇竜の滝近くで、若い男性の遺体が見つかりました。それで、養老渓谷近くに宿泊している皆さんにお伺いしているんですが、昇竜の滝近くで、不審な人物がいなかったかどうか、ご存知ありませんかね?」

と、華岡がいかにも警察らしく言った。

「昇竜の滝。養老渓谷の近くの秘境ですね。そこで、殺人があったということですか?」

優がそうきくと、

「はい。そうなんです。それで、今、この近辺で滞在している人たちに、不審な人物などを見かけなかったかどうか、お話を聞いているんです。」

と、華岡が言った。

「だから言っただろ。かわのやに泊まっているのは、僕と水穂さんとのび子さん、そして、繭子さんと、優さんだけしかいない。みんな、昨日まで昇竜の滝へ行ったことはない。それに、僕も繭子さんも歩けないので、一人で昇竜の滝に行くこともできません。だから、疑うのはやめてさっさと返ってくれ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですが、あなたが全部言うのではなくて、皆さん全員から確認をとりたいんです。昇竜の滝近くで昨日の一時ころ死亡したとされる、宮川博さんを目撃したとか、そういうことも聞きたいんですよ!」

と、警察官は苛立った顔をしていった。

「そうですね。その日は、僕も繭子もかわのやにいましたし。」

「僕らは、食品買いに行ったよな。水穂さんは、三助おじさんに手伝ってもらって、温泉に入ってたな。その時に、不審な人物なんて、見かけなかったな。」

杉ちゃんと優は相次いでいった。

「ああそうですか。わかりました。それでは皆さんこの事件に関わっていないということですね。それでは、やっぱり、宮川博さんは、自殺といえばいいのかな。遺書のようなものは出ませんでしたけど、、、。」

と、警察官が華岡にいうと、華岡もそうだねえと頷いた。

「まあ、不審な人物がいるわけでもないし、そういうことになるかな。」

と、華岡は結論を出したように言った。

「宮川ね、、、。」

いきなり、彼女、高見沢美代子さんがそういった。

「どうしたんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ、なんとなくですが聞いたことあります。同じ学部じゃないから、あまり詳しくは知りませんが、確か、東大でもトップクラスの秀才だったと言うんです。その名が、宮川博だったような、、、。」

美代子さんがそういった。

「そうですか。では、あなたは、宮川博と知り合いだったんですか?」

華岡が警察らしくすぐにそれに飛びついた。

「知り合いって言えば知り合いですけどね。まあ、特に仲が良かったわけではありません。ただ、ものすごく頭が良くて、私には到底かなわない存在だと思ってました。学部が違うから、私は、あまり話はしませんでしたけど、一人で学食で黙々と、勉強しているのは、見ましたよ。」

美代子さんは女子大学生らしくそういった。大学生というのは、そうやってすぐに他人の事を、噂してしまうものだ。それでいじめが発生してしまうこともある。

「まあ、あたしは、そういうことができるほど、頭がいい女性ではありませんでしたけどね。宮川さんは、住んでいるところも違うし、まあ、私は彼の彼女にはなろうと思ってもできないでしょうからね。それで諦めてました。」

「あ、あ。」

美代子さんがそう言うと、繭子さんが言った。

「どうしたんだ。」

優がそう言うと、繭子さんは一生懸命なにか伝えたいと言う感じがした。でも、残念ながら、言葉が作れないという感じで、それに自分でもじれったい感じを持っているようなのだ。

「もしかして、あなたさんが不審な人物を目撃したんですか?」

と、警察官がそうきくと、繭子さんは、首を横に降った。

「それとも、宮川が、昇竜の滝へ行ったのを、目撃したとかですかね?」

と華岡が言うと、繭子さんはかなしそうな顔をして、首を横にふる。

「警視も考えてものを言ってください。こんな重度の障害がある人がですよ、不審な人物を目撃するわけ無いじゃありませんか。それに彼女は、お兄さんの介助がなければ、移動はできないわけですから、お兄さんとかわのやにいたというアリバイは正確なんじゃありませんか?」

警察官が呆れた顔をして、華岡をみた。それを杉ちゃんまでが、ホントだホントだと言ってからかったので、華岡は小さくなってしまった。

「本当に、華岡さんは、警視まで昇格できたのが不思議だよ。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「それでは、あなたなにをいいたいんですかね。事件のことなら、もう皆さんのアリバイは確認できましたしね。あなたがなにか付け加えることは無いでしょう?」

年配の警察官がそう言うと、繭子さんは、

「うう、あ。」

と声をあげて泣き出してしまった。

「大丈夫です。あたしは、そのようなことは考えていません。なんであたしみたいな、ただの平凡な学生がですよ。宮川博のことを、好意に思わなきゃならないんですか。そんなね、宮川博さんとは、足元にも及ばないです。もう雲泥の差といったらいいかなあ。私は、全然違いますから、もう、繭子さん、変なことを推量しないでください!」

と、美代子さんが、急いでそう言うが、繭子さんはそれでも泣いたままであった。

「繭子さんは、多分誰かをなくすということには、非常に敏感なのでしょうね。それで、美代子さんが、博さんをなくして戸惑っていることになにか、慰めてあげたいんでしょう。でも、それが、できないから、泣き出してしまったんです。それは、繭子さんはとても優しいということです。」

水穂さんが、静かに言ってくれて、繭子さんは、水穂さんの方をみた。水穂さんが自分の気持を代弁してくれて、嬉しかったのだろう。

「そうですね。美代子さんも、もっと自分の気持ちに素直になったほうがいいのではありませんか?宮川博に憧れの気持ちを抱いていて、まさか自殺をするということは、ありえないと思っていたのでは?」

水穂さんは、美代子さんにいった。

「美代子さん、本当の事を言ってください。それでは、宮川博とあって話したりしたことがあったんですか?」

華岡がそうきくと、

「はい、、、。勉強を教えてもらったことはありました。でも、それだけです。彼が、悩んだりとか、自殺するなんて、考えてもいませんでした。添れに私は、先程もいいましたけど、学部も違うし、親密になれるわけないじゃありませんか!」

と美代子さんはそういった。

「わかりました。それでは、まあ、宮川博とは、同じ大学の友人だったというわけですね。」

「ええ、そういうことです。」

美代子さんはきっぱりといった。

「ああ。」

繭子さんが、それに反してなにかあるかのようにまた言った。

「なんですか。ちゃんと言葉にしてくれないと、話ができませんがね。あなたもね、お兄さんばかりに頼らないで、自分の事をちゃんと言えるようにしたほうがいいですよ。そうしないと、将来、大変なことになりますよ。」

警察官は、一般人としてアタリマエのことを言った。

「そうだけど、障害者には、どうしてもできないことだってあるよ。今はできなくても、そのうち獲得できるかもしれないじゃないか。だから、闇雲に親不孝とか、そういう言葉は言わないほうがいいぜ。」

と、杉ちゃんが言った。

「それに、そういうこと、障害のあるやつに言って、自分はかっこいいと思ってしまうやつが一番実は迷惑なんだよな。それは、そうだろう?おもいやりのあるやつは、そういうことは言わないや。」

「ああ。」

繭子さんは、蛙を潰したような声でそういった。

「もし、繭子さん、あなたが、この事件に対して重大な事を知っているんだったら、ちょっと話をしてもらいたいと思うんですが、お兄さんにお聞きします。繭子さんと確実に話ができるようにするには、どうしたらいいですか?」

と華岡が聞くと、

「それが首を縦にふるか、横にふるかしかしてきませんでした。」

優は、正直に答えた。

「では、筆談もされなかったんでしょうか?」

華岡がまた聞くと、

「はい。指も三本しか動きませんので。」

と、優は答えた。

「それなら、我々の捜査に協力していただきたくてもできないということですかね。いやあ、それでは、惜しいことをしましたな。その重要な証言者が、言葉が全く言えないとは。」

「華岡さんそんな言い方をされると、繭子さんを侮辱することになりますよ。」

水穂さんがそう牽制したが、華岡たちは情報で生計を立てているようなものなので、本当にがっかりした様子だった。

「ああ。」

繭子さんは、また何か言おうとしたが、言葉にならない。どうしても、ああという音にしかならないようである。

「少なくとも私は、宮川博くんのことは、憧れていたと言っても、ただ、遠くから眺めていたに過ぎません。それに、勉強教えてもらっただけのことで、それ以外言葉をかわしたことはありませんし。それでいいにしてくれませんか。私は、それ以外何も言うことはありませんので。」

美代子さんは、急いで、華岡たちに言った。

「ああ。」

繭子さんはまた何かいいたいようである。

「もうよしなさい。繭子は、できないこともあるよ。誰でもできることとできないことがあるんだ。それで良いと思わなければだめなこともある。だから、今回のことは、警察に任せようよ。」

優が、お兄さんとしてそう言うと、繭子さんはまたガックリと肩を落とした。

「まあ、仕方ないじゃないか。いずれにしても、今回の参考人はお前さんたちの捜査に協力できないようだな。それなら、他の人を調べて、繭子さんの証言を想像するしか無いよ。それはしょうがないことだと思ってよ。僕だって、足が悪くて、立つことは一生かかってもできない。」

杉ちゃんが、カラカラと笑った。

「そうですね。いずれにしても、皆さんは、かわのやにお泊まりですよね。また、時々、事件のことについてお話を伺いたくなったらこさせてもらいますから、よろしくおねがいします。」

警察二人は、そう言って、繭子たちに一礼し、すぐにパトカーに乗って帰ってしまった。

「はあ、怖かったあ。あたし、警察と関わったの初めてだったから、緊張しちゃったわ。」

のび子が一般人として感想を言うと、

「僕も、緊張しましたよ。誰だってそうなるのではないですか?」

と水穂さんが言ってくれた。水穂さんに、のび子は、体は大丈夫なのか聞きたかったが、

「まあ、華岡さんはああして強引なやり方をしちゃう人だから許してやって。」

杉ちゃんに言われてそれはできなかった。とりあえず、のび子たちはかわのやへ、カメラオタクの美代子さんは五井駅へ、それぞれ戻っていくことにした。一日で本数が少ない小湊鐵道を待つのは苦痛だなと言いながら、美代子さんは、養老渓谷駅まで歩いていった。杉ちゃんたちは、彼女が何を隠しているのだろと考えながら見送った。




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