第四章 養老渓谷にて

「今日は、外へ出てみませんか?ちょっと、外を歩いてみましょう。ここは、落ち着いたところですし、人混みも何もありませんから。」

のび子がした提案により、水穂さんたちは、かわのやの外へ出てみることになった。ただ、水穂さんにもしなにかあったら大変なので、かわのやの仲居頭が一緒についていくことになった。この仲居頭も結構図太い神経をしている人であるようで、いざとなったら、私が水穂さんを背負って歩きますと豪語するほど、体格の良い人であった。のび子は、車椅子かストレッチャーを借りようかといったが、水穂さんは、自分で歩くと言った。そこで三人は、かわのやを出て、森の中に整備されている遊歩道を歩いてみた。

「ああいいですね。ほんと、きれいですね。なんか、本当に、のんびりしてて、別世界みたい。」

のび子がそう言うと、水穂さんもそうですねと言った。近くにある大きな木には、鳥が沢山止まっている。中には、静岡ではめったに見られない、珍しい鳥もいた。仲居頭が、あれはルリビタキという鳥なんですよと説明してくれた。夏になれば、もっとたくさんの鳥が来て、もっと賑やかになるという。ある意味、オーケストラよりも美しい音楽なのかもしれない。石畳の遊歩道なので、だれでも気軽に歩けるところが、また気軽に自然に触れられる様になっているのだろう。

「じゃあ、養老の滝へいってみますか。本当に短いハイキングコースですが、遊歩道が整備されていますから、そんなに疲れは感じませんよ。それに、いざとなったら、私が背負って歩きますよ。こう見えても私、女相撲に出たことがありますから、力持ちなんです。」

さほど太っているようには見えないが、そう言っているのだから、任せてもいいと言うことだろう。それはいいと言うことになって、三人は、まず、養老の滝へ向かってあるき始めた。看板によると、200メートルしか歩かないはずなのだが、山道なので、結構歩くような気がする。直接滝のそそばに行くのではなく、階段から眺めるような感じで滝を見学させてもらうようになっていた。養老の滝は、上流こそ、単に水が流れているだけに過ぎないように見えたのだが、下流に行くと、大きな滝になって、水が勢いよく流れ落ちていくのが見えた。上流と下流でかなり落差がある滝で、もし、なにか表現する人であったら、もう筆を走らせずにはいられなくなるだろうな、と思われるほど、すごい迫力だった。

「いいなあ。こういうふうに、初めはチョロチョロかもしれないけど、いつかは大きな流れになれるような、そんな生き方をしてみたいなあ。」

思わずのび子はそう呟いてしまった。

「そうですか。そんな事発言するお客さんは、珍しいですよ。」

と、仲居頭がそう言うと、

「僕は、そんな流れには、乗れないでしょうね。」

水穂さんが細い声で言った。

「いいえ。そんな事ないですよ。水穂さんだって、きっとそのうち、大きな流れに乗ることができるんじゃないですか?」

仲居頭は、冗談半分にそう言ったが、

「いえ、養老の滝が美しく見えるのは、恵まれているからですよ。僕は、そういうことはできないと思います。」

水穂さんの言い方が、なにか意味があるような言い方だったので、仲居頭はそうですかだけ言ったのであった。

「お三方、滝巡りですか?」

不意に、大きなカメラを持った女性が、三人に声をかける。

「ええ、いま、泊まっているお客さんをお連れしているところなんですよ。」

仲居頭がそう答えると、

「そうですかあ。ちょっと、そこの方にお願いがあるんですけど、滝の近くで立って、モデルになってくださいよ。」

と、女性は、水穂さんに言った。

「あたし、大学で写真部にはいっているんですけど、展示会に出す写真を撮りたいんです。今、養老の滝を写真に撮ろうと思ってたんですけどね。ほんと、きれいな方だから、ぜひ、写真を撮らせてください。」

「いや、それは無理です。僕はそのようなことはできませんので。それなら、こちらののび子さんか、中居さんをとってあげてください。」

水穂さんがそう言って断ると、

「まあ、残念だわ。ぜひ、美しい方だから、滝と一緒に入ってくれたら、すごい良い写真が撮れると思ってたのに。じゃあ、それなら、そうさせてもらいますね。女性の方と仲居さんで、二人で並んでいただけませんか?」

女性は、にこやかに笑ってそういう事を言った。のび子は、ここで断ってしまうわけには行かないと思って、滝を背にして、仲居頭と一緒に並んだ。

「あのう、できたら、おふたりとも、肩に手をかけてくれませんかね?仲が良いってことを写真に撮りたいんですよ。お願いできませんか?」

女性にそう言われて、のび子と仲居頭はそのとおりにした。女性は、ありがとうございます!とでかい声でいって、一生懸命カメラを構えて写真をとった。

「本当にご協力ありがとうございました。お陰様でいい写真がとれましたよ。」

女性がそう言って、のび子に1000円を渡そうとするが、

「いや、お金は要りませんよ。」

と、のび子は断った。

「本当にありがとうございます。あたしたち写真部の写真展、見に来てくださいません?秋の文化祭で、展示しますから、よろしければぜひ、来てください。」

と、女性は、一枚のチラシを差し出した。そこに東京大学と書いてあったからまたびっくり。これには、三人とも気が付かなかったようだ。

「東京大学の方なんですか?」

水穂さんが思わずそうきくと、

「ええ。そうなんですけどね。あたしも、早くちゃんと勉強しなくちゃと思うんですが、なかなかやる気が出なくて困ります。と言っても、東大生は皆そうだといいますが。それであたしは、部活に打ち込んでいるけど、逆にそれしか生きがいが無いなあ。」

と、東大生は答えた。確かにそうなのかもしれなかった。受験したときは、ものすごい行事になるんだろうけど、実際に東大へ入ってしまうと、つまらない場所になってしまうのかもしれない。それに、東大を受験するとなれば、ものすごい有名人になれるが、入ってしまえば、有名人からただの人へ変わってしまうからだ。それが、生きがいをなくしたと感じられることも少なくないだろう。ときにはそれでものすごく気落ちしてしまう人もいる。

「そうですか。昭和の初め頃ですと、ホタルの灯火積む白雪といいますか、東大に入ったら、ものすごく尊敬されましたけど、今はそうでもないんですね。それも、時代の流れなのかな。まあ、仕方ありませんね。」

と、水穂さんがそう言うと、

「あたしは、今でも東大というところは、すごいところに見えるけど。」

のび子は田舎者らしい感想を言った。

「本当は、あたしから見たら、すごいことやれて羨ましいんですけどねえ。」

「人にも言われますけど、みんな私のことをすごいすごいというだけで、それ以外のことは何も言ってくれなくて、結構寂しいですよ。それより、展覧会、必ず来てくださいね。もし、可能であれば、整理券をお送りするわ。メールアドレスか何か、教えていただけないかしら?」

東大生にそう言われて、のび子は、自分のスマートフォンのアドレスを教えた。まあそれであれば、消してもいいと思うアドレスであった。

「ありがとうございます。じゃあ、展示会が近くなりましたら、整理券をお送りしますわね。印刷すれば、何枚でも使用できますから、メンバーを増員しても結構よ。」

随分強引な東大生だと思ったが、東大生というと、日本で一番えらい民族とみなされるので、のび子たちは逆らえなかった。逆に、東大生くらいにならないと、こういう馴れ馴れしい態度は取らないかもしれない。

「じゃあ今日はご協力ありがとうございました。これで、いい写真がとれたので、東京へ戻ります。」

カメラをカバンの中へ突っ込むと、女性は、養老渓谷駅があると思われる方向へ走っていった。まあ確かに、この養老渓谷は、都心から、電車で2時間程度で来られてしまうところであるから、気軽に来てしまうことができる場所でもある。養老渓谷へ直接アクセスできる、小湊鐵道が、一時間に二、三本しか走っていないのが、難点ではあるのだが、、、。

「全く強引な東大生ですね。なんでも、口に出してしまえば、自分の望みが叶うって思い込んじゃっているのかしら。」

と、仲居頭が、嫌そうな顔をしてそういうと、

「まあ、東大ですからね。日本一高級な学校ですから、多少わがままになっても、仕方ないかもしれないですよ。」

と、水穂さんが言った。

「多少わがままになってもしょうがないか。水穂さんは、何でも受け入れてしまうんですね。」

のび子は、そういう水穂さんに、ちょっとため息をついた。自分だって、大学へ行こうとしていた時期はあった。のび子が通っていた学校は、一応のところは進学校と謳っていた。でも、それにはまるで当てはまらない生徒ばかりいたけれど。そういう事を考えると、何でも望みがかなってしまうという東大生の境遇はちょっと嫌なところもあった。水穂さんが少し咳をしたため、じゃあ、戻りましょうかと言って、三人は、かわのやへ戻っていった。

「一体どうしたの、そんな落ち込んだ顔して。」

と、優は繭子に言った。

繭子は、答えないというか、答えられないのだ。顔の表情で、読み取るしか無い。

「もしかしたら、またあの人たちのことを気にしているの?」

と、優はそう言ってみると、繭子は、首を縦に振った。優は、本当はこういう事を思っては行けないと思うけど、水穂さんのあの話を聞いてから、水穂さんに妹を盗られては行けないとおもう顔をした。

「にいに。」

繭子が蛙を潰したような声で言う。

「大丈夫だ。にいには、何も悪いことを考えてはいないよ。」

優はすぐいったのであるが、繭子にはどれだけ通じているのだろうかと思った。

「繭子。いくらお前が、男の人を、好きになる気持ちはわかるけど、水穂さんとお前とは、立場が違いすぎるよ。お前まさか、水穂さんと会いたいとか、そういう気持ちを思っているんじゃないだろうね。そういう気持ちを持ってはいけないわけでは無いが、繭子は、それはできないんだということも覚えておいたほうがいい。」

優はちょっと説教するように言った。繭子は、そんなことはないという顔をする。

「いや、繭子は、そう思っている。それは、長らく一緒にいるからわかるよ。繭子、自分の立場を考えてご覧。」

繭子は、がっかりした顔をした。

「がっかりしても、しょうがないんだ。水穂さんだって、普通の人では無いんだから。」

思わず優は、水穂さんに言われたことを、繭子に話してしまおうかと思ったが、水穂さんが、誰にも言うなと言われていたのを思い出して、言うことができなかった。本当はいいたかったが、そこまでにしておく。

「お前には、何もできないことだってあるんだよ。繭子はそれをよく理解しておかないと。」

そんな事を言わなければならない自分が、なんか辛かった。

「ああ楽しかったわね。あの強引な東大生が、余計にお散歩を盛り上げてくれたわ。養老の滝も素晴らしかった。」

そういう声が、廊下を歩いている足音と一緒に聞こえてきたのだった。繭子は、がっかりした顔をした。

「ほら、そういうふうに、お前と、水穂さんは違うんだ。」

優がそう言うと、繭子は声をあげて泣き始めた。蛙を潰したような声で。優は、

「泣くのはよしなさい。」

と、いったのであるが、繭子は、それでも涙を止めなかった。優は繭子の涙で濡れた顔を、ハンドタオルでそっと拭いてあげた。それでも、繭子は泣き続けるのであった。

「水穂さん体調大丈夫ですか?」

と、のび子が聞いている声がして、水穂さんは、大丈夫ですと言っている声がする。そして、隣の部屋が開いた音が聞こえたので、水穂さんが部屋に入ったのだと言うことがわかった。

「よし、繭子、ちょっと滝を見に行ってみようか。養老の滝を見に行こう。」

泣いてばかりいる繭子に、優はそう言った。車椅子を押して、部屋を出て、鍵をフロントに預けて、かわのやを出る。このときは、仲居さんも着いてこなかった。多分、優がいるから大丈夫ということになっているのだろう。

優は、水穂さんたちが歩いてきたコースを辿って、養老の滝の近くまで連れて行った。

「ほら、すごい滝じゃないか。いつ見ても大迫力で、マイナスイオンがいっぱいだよ。」

優がそう言っても、繭子は納得しないようであった。すると、前方に、一人の女性が、なにか探しているのが見えた。

「あれえ。確かにここに落としたはずなんだけどなあ。おかしいなあ。もう誰かに拾われちゃったのかしら。」

と、彼女は、そう言っている。先程の東大生であった。

「どうしたんですか?」

優が聞くと、

「はい。ボールペンを一本落としてしまったんです。写真が撮れたのがあまりにも嬉しすぎて、なんか舞い上がってしまったみたいで。一度、養老渓谷駅まで戻って見たんですけど、ボールペンを落としてしまったのに気がついて。」

と、東大生は答えた。

「はあ、そうですか。それは災難でしたね。確かに、こういうところは、落とし物すると、見つけるのが難しいと思いますよ。」

優がそう言うと、

「まあ、いいか。どうせ、渓谷で流されてしまったかもしれないから、諦めて帰ります。まあ、ボールペンなんて、すぐに買ってくればいいだけの話だし。」

東大生らしい答えであった。東大に行くような人は、経済的に豊かな人が多いから、あまり細かいことは気にしないことが多いのだろう。

「でも、今日は、素晴らしく美しい方にお会いできて、あたしは夢を見ているようでした。紙みたいに真っ白い顔していた方だけど、すごいきれいだった。ほんと、どこかの映画俳優でもなれそうな人だったわ。」

東大生は、嬉しそうに言った。

「すごい綺麗って、もしかして、紺色に葵の葉の着物を着ていた方ではありませんか?」

優が聞くと、

「ええもちろんです。着物を着ているから、明治時代の文豪みたい。竹久夢二だって、脱帽するんじゃないかなと思われるほどきれいでしたよ。あーあ、一度でいいから、あの人の写真を撮りたかった。」

と、東大生は、にこやかにわらって答えた。繭子は、ライバルが現れたというような顔をしている。

「あら、その人とお知り合いなの?」

東大生が聞くと、

「ええ。妹が、療養しているところと同じところにいるものですから。」

優は正直に答えた。

「ほんとう!それならぜひ、サインをもらってきてくださいよ!きっと何かわけがあって、養老渓谷に来ているんでしょうし。きっとどこかの芸能事務所とか、そういうところに所属しているんでしょうから。芸能事務所が、あんなきれいな人を放置しておくわけが無いですものね。」

東大生と言っても、彼女は普通の女の子だった。特に最近は、こういうことに燃えてしまうというか、萌えてしまう若い女性が増えていると思う。

「いやあ、芸能人とか、そういうことはありません。そうじゃなくて、事情があって、こっちへ来ていると聞きました。」

優は、そういう事を言っている東大生を、ちょっと嫌な顔をして見た。

「そうなんですか?それでは、どこかの実業家とか、そういう人なのでしょうかね?どこかの社長の御曹司とか、そういう人ですね。きっと海外の有名な大学出てるとか、そういう人なのかな!」

「いやあ、そういう人じゃないですよ。あなた、銘仙の着物というものをご存知ありませんか。その男性が、着物ですが、それが何を意味しますかとか。」

優は、そういう東大生に、そう聞いてみた。

「着物は、東大に入学したときに母が着てました。」

東大生はそう答える。

「でも私は、着ることができませんから、成人式も出るつもりは無いし、関係ないことです。」

「そうですか。まあ。今の若い人なら、そういうことはあるかもしれませんね。あの着物は、僕達より、身分が低いことを示しているんですよ。」

優が説明すると、東大生は、驚いた顔をした。

「そうなの!でも今は着物なんて、誰でも関係なく着ているし、関係ないんじゃないの?」

「そんな事ありません。東大へ入ったんなら、それくらい知っておかないと。江戸時代に設定された身分で、一般庶民より低い身分にされた人がいたことをご存知ないんですか?」

優が聞くと、東大生は、

「そうか、士農工商とあったけど、それ以外にもあったんだった!」

と言った。そこだけは覚えていてくれたらしい。

「でも、あれだけきれいで、芸能事務所がほっとくことが無いような人が、私達より低い身分だったって、ありえることかしら?」

「いや、東大生であれば、そのくらい知っておいてください。もしかしたら、官僚などになって、そういう人を担当するかもしれません。その時に、何も知らなかったら、東大出身でも恥ずかしいです。」

と、優は、彼女に言った。彼女は少し驚いたような顔をするが、少し考えてくれたようで、

「そうか。確かに、貧しい階級で芸能人になった方もいるもんね。そういう人だったのか。でも私は、すごいと思うけどな。時々、私の予備校にもいたわ。東大へ行って、家族を喜ばせることができれば、本望だって言ってた人。あたしは、そんな人、今でもいるのかと思ったけど、時々東大にはそういう人もいるわ。」

と、考え直してくれたようである。

「でも私、そういう人を、かっこ悪いとは思わない。あの人は、間違えなく、きれいな人だったし。そういう人がいてくれて、東大生っていう身分があるんだってことを、私、本で読んだことあるわ。」

東大生は、急いでそういい直した。

「にいに。」

繭子が、不意に蛙を潰したような声で、そういったのである。東大生は、繭子を見て、彼女が何を考えているのかを、読み取ってくれたようだ。東大生となれば、そういうところは感じることが早い。

「そうか。その人のこと、好きなのね。じゃあ、あたしが手伝ってあげる。どうせ、大学なんて、何も大したことないし、つまんないだけだから。いくらでもあたしは、手伝ってあげられるわよ。なにか、悩んでいることあったら、ここに相談してよ。」

と、彼女は、スマートフォンをちらりと見せた。名前の欄には、高見沢美代子と書いてあった。



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