第三章 不安
その日も、繭子は庭に出て、ずっと水穂さんがいる部屋を眺めていた。それを見て、優は不安になった。もし、繭子が外へ出たいと言い出したらどうしたらいいのだろう。自分の置かれた立場と言うより、繭子が外へ出るにはより多くの人手を必要とする。それをどうしたらいいのか、が最大の問題だった。ここにずっといれば、優が一から十までやり遂げられる。でも、外へ出るとそうは行かない。
ぼんやりと、そんな事を考えていると、声がした。
「こんにちは。」
「ああ水穂さん。今日は、立って歩けるんですか。」
「ええ。あまり寝てばかりいると、体も鈍りますしね。」
立っているのは、水穂さんだった。水穂さんは、ストレッチャーの上ではなく、ちゃんと歩いていたのであるが、優は別のことに気がつく。
「すごく派手な着物ですね。」
思わず口にしてしまった。そのとおりなのだ。水穂さんが着ている着物は、紺と白色の市松格子に、灰色で葵の葉を入れた銘仙の着物である。
「どうしてそんなに派手なのがお好きなんですか?」
もともと顔が派手というか、男性である自分も認めるくらいすごく美しい人であるから、そういう派手な着物が好きなのかなとしか、優は思わなかった。
「そんなこと、ありません。単に派手というわけでは無いのです。」
と、水穂さんは、静かに言って、二三度咳をした。口元を拭ったその紙が、赤く染まったので、優は、水穂さんが持っている病名をすぐわかってしまった。明治時代を設定にしたテレビドラマとかで見たことがあるシーンと似ている。
「そうですか。なにかわけがあるんでしょうね。しかし、どうして、そこまで悪くなるまで放置していたんです?今の医学ではちゃんと、なんとかなるはずですが。もう過去のものになったって、僕は学校で聞きましたけど。」
「そんな事ありません。」
水穂さんは、静かに言った。それは、偏見の目で見られても構わないという感じの顔であった。
「でも、今は、薬とか、手術とか、そういうもので、なんとかなるのでは無いですかね。肺癌とは違うのでしょう?それなら、まだなんとななるのではないですか?一体、ここに来るまでは、何をされていたんですか?」
「ええ、ピアニストでした。」
水穂さんは、静かに言った。
「ピアニスト。」
優は、水穂さんの言ったことを繰り返す。でも、優が知っているピアニストというのは、他の人とは違う才能を持っていて、それをコンクールとか、そういうところで、ものすごく発揮して、自分たちとは違う生活をしている人間にしか見えなかった。水穂さんが、他の人間と違って、大変に美しいのが、それを助長させた。ピアニストというと、ものすごく、大規模なリサイタルをやって、それで生活している人間のハズだった。そういう人だから、体の病気なんて、すぐになんとかしてしまうように、自分でもするだろうし、周りもそうするだろうと優は思うのだが。
「はあ、なるほど。つまり、発展途上国とか、そういうところに行っていたんでしょうか。例えば、バングラデシュみたいな、そういう不衛生な国家にいたとか。」
「近いかもしれませんが、それとはまた違います。それに、そのような発言をすると、バングラデシュで暮らしている人に、失礼になります。」
水穂さんは、優に言った。
「あ、ああ。ごめんなさい。」
優はそう言ったが、自分の左手指に痛みを感じる。なんだと思ったら、繭子が、自分の指を噛んでいた。何をすると思って見てみたら、繭子は優に、大変悲しい顔をして、優の左手指を噛んでいた。
「ごめん、そういう事、言うべきじゃなかったね。」
優はそう言ったが、繭子は更に強く噛んだ。
「ごめんごめん。本当に、ひどいことを言ってしまったな、兄ちゃんは。」
優がそう言うと、繭子はやっと優の手を話した。
「にいに。」
蛙を潰したような声だけど、確かに繭子の声でもあった。そのにいにの三文字に、何が含まれているか、優は、そこも推量して、通訳しなければならないことも知った。繭子には、にいにしか言葉が出なかった。それを言うのだって、随分大変なものだ。それしかできない繭子の事を、説明して、それを通訳して、相手に伝える。こんな面倒な作業を誰がこなしてくれるのだろうか。
「大丈夫です。お兄さんはひどいことを言ってはいません。仕方ありませんよ。本当に。」
水穂さんは、繭子にそういったのだった。繭子は、水穂さんに言われて、また表情を変える。それは、明らかに好きな人に声をかけてもらって嬉しいという気持ちと、自分の望んだことを好きな人に言ってもらうと、恥ずかしい気持ちになる、というのと同じようなものであった。そういう複雑な思いを繭子は、口に出して言うことはできないのだ。もし、口に出して言えたらなら、本当に嬉しいことだろうが、繭子にはできない。優は、そんな妹を、やはりここから出してしまうのは、できないのではないかと思うのであった。
「にいに。」
繭子は、また兄に言った。
「わかったよ。」
優は、急いで、繭子にいつも通りの優しい目をしてそういうのであるが、繭子は、納得してくれたのかどうか、は、不明であった。
「繭子さん大丈夫ですよ。にいには消して悪くありませんから。」
水穂さんが改めてそう言うと、繭子さんは、本当に恥ずかしいという顔をした。それも、なんだか、悲しいところだった。繭子は、終いに涙をこぼしてしまった。優は、繭子が涙をこぼせるところだけでも、すごいところなのだろうなと思ってしまった。
「おーい、おやつ買ってきたよ。なんか近くで、ポップコーンの売出しやってきたから買ってきた。それと、こちらはぬれ煎餅とまずい棒。」
そう言いながら、杉ちゃんと、彼の補佐役と言うべきか、須田のび子さんが戻ってきた。
「ああ、ぬれ煎餅ですか。あれ、よく販売されるんですよね。まずい棒も買ってきたんですね。まずい棒は、まずいと聞きますが、決してそんな事ありませんよ。」
優は、そう言って、二人を出迎えたが、繭子の顔は、二人に帰ってこないでほしいという気持ちが見えているようなので、
「繭子、そういうところは行けないよ。水穂さんは、お前だけのものじゃないんだ。」
と、注意をした。繭子は、また小さくなった。
「いいえ、大丈夫です。繭子さん。僕も、誰かの助けなしでは生きていけませんから。」
と、水穂さんがそう言うので、繭子はちょっと気持ちを取り戻す。
「よろしければ、お前さんたちにも分けてあげるよ。ぬれ煎餅とまずい棒。」
と、杉ちゃんは、紙袋からそれを取り出して、優と繭子に差し出した。
「いや、これは、千葉県民であれば、誰でも食べられるお菓子ですから、あえて貰う必要は。」
優はそういうのであるが、
「いいえ、先程、ここでおはなしさせてもらったお礼です。頂いてください。」
水穂さんがそう言うので、優は、ありがとうございますと言って、濡れせんべいとまずい棒を受け取った。繭子が、それをじっと眺めているので、優は、繭子に、ぬれ煎餅を渡した。繭子は、ぬれ煎餅を口で受け取って、バリバリと食べてしまった。
「あら、おやつが食べたかったのか。よっぽど腹が減っていたんだねえ、お嬢さんは。」
杉ちゃんにそう言われて、優はお嬢さんと呼ばれるのが、ちょっと変だと思った。
「じゃあ、僕達はこれで失礼します。いつまでも、長話していたら、水穂さんの体に障るといけないので。」
と、優がそう言うと、繭子は嫌そうな顔をした。優は、それを無視して、繭子の車椅子を押して、繭子を部屋へ連れて行った。繭子が切ない顔をして、水穂さんをずっと見ていたが、優はそれでも、車椅子を押し続けていた。
その翌日。優がコインランドリーから出した洗濯物を持って、部屋へ戻ろうとしたとき、庭で誰かが咳き込んでいる声がする。そして、なにか重いものが倒れたときのドサッと言う音が聞こえてきたので、優は洗濯物を落としたのも気が付かないで、外へ出てしまった。外へ出てみると、倒れてしまったのは、水穂さんだ。
「水穂さん!」
と優は急いで水穂さんの近くへ駆け寄った。
「大丈夫ですか。今、お医者さんに電話してきましょうか?」
水穂さんは、咳き込みながら首を横に降った。
「いや、そのような状態では、放置しておくわけには行きません。水穂さん、すぐ病院で見てもらいましょう。」
と、優は急いでスマートフォンを取り出そうとするが、濡れた手で足首を掴まれて、ぎょっとした。掴んだのは水穂さんであった。
「どうしてですか。そのまま放置すると、余計に悪くなってしまいますよ。」
優は自分の足首を掴んでいる水穂さんに、そういうのであるが、
「いえ、大丈夫です。こんなものを見に付けている人間が、病院で見てもらうことはできません。」
と、水穂さんはえらくしわがれた声でそういうのだった。なんでそういう事を言うのだろうと、優は思った。
「お願いです。やめてください。」
そう言われて、優は、水穂さんの着ているものを改めて見てみると、たしかに、紺色に葵の葉を全体に入れた着物なのである。女性が趣味的に着物を着るのはたまにあるが、男性が着物を着るというのは、よほどこだわりがあるというか、そういう人でないとしないものである。あるいは、なにかの事情で、洋服が着ることができなくなったか、のいずれかである。優は、演劇部に属していた友人から、着物は、とんでもないやすさで変えるということを聞かされた事があった。確か、洋服よりもずっと安い値段で買えるという話だ。信じられない話だが、500円で買えたこともあった。と、優は聞いたことがあった。そういうわけだから、着物を日常着にしている男性は、なにかわけがある人か、おっかない人にしか無いと思われた。少なくとも水穂さんは、暴力団の関係者ではないと思われたから、なにか訳のある人だろう。
「しかし、どうしてそんなに、医者に見てもらうのを拒むんです?なにか事情があるんですか?医者に見てもらえない事情があるんですか?」
優は、そう聞いてみるが、水穂さんに口に出させてしまうわけにはいかないと思った。そこで、自分が持っている知識をフル回転させて、事情を考えてみる。確か、水穂さんが着ている着物は、多くの女性がよく好んで着るようであるが、それは特別なところに住んでいる人の着物でしか無いので、室内着程度しか使えない、と、演劇部にいた友人が嘆いたことがある。それと似ているような気がした。
「もしかしたら、水穂さんは、そういうところの出身なんですか?」
優は、小さな声で聞いた。
「ええ、静岡県富士市の伝法というところですよ。」
そんな地名はよく知らないけれど、優はそれが、特殊なところであることが、水穂さんの着物から、わかったような気がした。
「そうですか。いわゆる貧しい人たちが、住んでいたところですか。それで、水穂さんは、病気の治療を受けることができなかったんですね。」
優は、水穂さんに言うと、水穂さんは目をつぶったまま頷いた。
「わかりました。僕も、妹があのような事情を抱えているから、そういう人に言えない悩みとか、そういうことはわかるつもりですよ。大丈夫です。」
「でも、今日のことは、くれぐれも他言しないでください。妹さんにもです。」
水穂さんにそう懇願されて、優はにこやかに笑って、
「わかりました。水穂さんが、そのことで、苦しんでいたことは、誰にも言いません。ただ、僕はちゃんと、治療を受けて、元の世界に戻って欲しいです。」
と言った。
「いえ、もうここまで来てしまうと、僕自身も無理だと思いますよ。もうこうなったら、ここで最期でもいいと思っているんです。僕は、そうなって当たり前みたいなところがありますからね。それは、同和地区に生まれれば誰でも感じることじゃないかな。そういうことだと思います。」
水穂さんは、静かに言った。
「どうして、水穂さんが、そう考えなくてはいけないんです?水穂さんは、少なくとも、体に不自由なところがあって、誰かに頼らなければならない人生ではなかったはずだし、やりたいことをしているでしょう。それなら、そのまま、それを続けていればいいだけのことですよ。僕の妹みたいに、何をするにも人手がなければできないということでは無いのです。それは、本当に幸せなことですよ。それなのに、水穂さんは、もういらないというのは、ちょっと、酷すぎるのではありませんか?」
優はそう反論するが、
「いえ、そんな事、綺麗事に過ぎません。新平民として生きているのは、非常に辛いものですから。これで、辛かった人生とさようならできるのであれば、それに越したことは無いです。」
と、水穂さんは言った。その表情を見て、優は、水穂さんは、本当に大変な人生であり、もう、この世からさようならする以外に、救いは無いのだと言うことを、初めて知った。
「わかりました。水穂さん、今回のことは、誰にも言いませんが、僕は、水穂さんがここで命を終えてしまうのは、それはなんだか違うような気がしてしまうんですね。それは、お伝えしてもいいですか。だから、お願いです。ここで、人生を終わりにしてしまわないで、もう一度、外へ出てくれることを誓ってください。」
優は、急いで言った。
「お優しいんですね。あれだけ重度の障害を持っている妹さんを持つと、あなたも優しくなれるんですね。それはよくわかります。それが、ここ以外でも、どこかで活かせたらいいんですけど。それは、むりなのでしょうか。」
水穂さんは、静かに言った。
「それでも、僕は水穂さんを、ここで倒れたままにしてしまうのは行けないと思うんですよ。だから、せめて、部屋へ戻してもいいでしょうか?もちろん、先程おっしゃったことは誰にも言いません。それは守りますから、水穂さん、お部屋に戻させてください。」
優は、そう言って、水穂さんを背中に背負った。それをしてみて改めて、水穂さんがかるすぎるほど軽いということを知った。どうして、ここまで軽いのだろう。
「じゃあ、行きますよ。」
優は、水穂さんを背負ってあるき出した。そして、建物の中に入って、水穂さんの部屋に行き、水穂さんをベッドに寝かせてあげた。
「水穂さんは、ここでずっと寝ていたことにしてください。僕は、ただ外を通っていくだけにしておきますから。もちろん、先ほどのやり取りは、誰にも言わないので、安心してくださいね。」
水穂さんの布団をかけてやりながら、優はそういった。
「じゃあ。ありがとうございました。」
「では、御免遊ばせ。」
水穂さんと優は、そういって別れた。優は、部屋を出て、落とした洗濯物を拾い集めながら、世の中には、自分たちよりひどい生活を強いられてきた人物がいるんだと言うことを知って、涙が止まらなかった。自分たちが、世界で一番不幸だと思っていたけれど、それは、間違いだったのか。しかも、その被害にあった人が、あれほど美しい人物というのが驚きだ。本当は、あんな美しい人物であれば、多少世間から外れても、なんとかなるのではないかと思ってしまったことだってあったが、そういうことはできないのだと改めて知った。
「にいに。」
と、言われて、優はやっと正気に帰った。繭子が、自分の顔を見つめている。繭子は、唯一動く右手の指三本で、ティッシュペーパーを取ろうとしている。
「いいよ繭子。そんな事しなくても。」
優はそういうのであるが、繭子はやめなかった。
「繭子。」
声をかけても繭子はそれをやめない。
「繭子のせいじゃない。繭子のせいじゃないよ。」
繭子は、じゃあ何?という顔で自分を見た。優は、それを見て、繭子に、思わず先程の事を、話してしまおうかと思ったが、水穂さんのあの顔を思い出して、彼の言うことを守らなければならないのではないかと思った。
「大丈夫だ。にいには、何もしていないよ。」
やっとそれだけ言うことができた。
「それより、今日の夕食は何になるんだろうね。にいにはそれが楽しみだなあ。」
繭子は、自分のごまかしが通じたのか、やっと笑顔になってくれた。
優は、繭子がそうなってくれたのを確認して、良かったと大きなため息をついた。ふと、窓の外を見ると、庭にはツツジがたくさん咲いている。もうそんな季節になったんだと思った。自分たちは、何も変わらないけど、季節だけは変わっていくのだなと思った。
かつては、繭子があのような体になって、何ができるだろうかと真摯に悩んだこともあった。繭子は命こそ助かったようなものの、かえって、自殺をするより悪いような環境に陥ったのだ。それだけはどうしても変えることができないことでもあった。
優は、そんな事を考えながら、水穂さんはそういうときどうしたのだろうか、聞いてみたくなった。水穂さんも自分が同和地区の出身者であることは、何をしても変えることはできないことだろうから、それをどう解釈するかで幸不幸はかなり違っていたに違いない。水穂さんは、どうそれを解釈していただろうか?幸福とか、不幸とか、あるいは、嫌なこととか、そういう事だと思うんだけど、それをどう処理していたのだろうか?
そうなると、水穂さんは、良き先輩のように見えた。そういう自分では変えられない事を抱えて、生きてきた人の一人なのだ。優に湧いてきたのは、水穂さんのことを、妹を惑わした困った人物とみなすのではなく、水穂さんに対する尊敬の感情だった。そうなると、水穂さんがいまここでこの世からさようならをすると宣言してしまうのは、ちょっと悲しいというか、もったいない気がした。
「水穂さん、どうか、あんな事言わないで、生きてください。」
と、優は、繭子に聞こえないように言った。きっと、水穂さんが生きて来たことを、語る時期は必ず来るはずです、とも思った。
ツツジに雨が降ってきた。この時期には雨が降りやすいらしい。まあ、そういう季節なので、アタリマエのことなんだけど、優は、どこか寂しい気がしてしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます