第二章 出られない女性
「水穂さん、今日は庭へ出てみませんか。庭はとてもきれいで気持ちが良いみたいですよ。」
のび子は、水穂さんににこやかに笑いかけ、彼をストレッチャーにのせた。こういうところへ来たんだもん、眠ってばかりいるわけにはいかないと思った。のび子は、水穂さんの体に布団をかけてやり、じゃあ行きましょうと、ストレッチャーを外へ向かって動かした。杉ちゃんは、近所のコンビニで食品を買ってくると言って、留守だった。途中廊下で仲居頭の女性に、ちょっと庭へ出てみたいからと伝えてくれといって、とりあえずかわのやの裏側に出る。
「わあ、きれい。」
裏庭はバラ園になっていて、赤や紫やピンクのバラが、数多く咲いていた。のび子は、水穂さんに、バラがさいて、まるで秘密の花園みたいね、なんていいながら、ストレッチャーをゆっくり動かして、庭を散歩した。庭は、段差のようなものも何もなくて、確かに、障害者でもそうでなくても楽しめるようになっている。手入れが行き届いていて、本当にきれいなバラ園になっているが、ちょっと人工的すぎるというか、そんな気がしてしまう感じもあった。
「きれいなバラねえ。これ、かぐや富士っていうんですって。富士市にゆかりのあるバラみたい。」
のび子が一生懸命、バラの説明をしながら、バラ園を散歩しても、水穂さんは、嬉しそうなかおではなかった。
「どうしたの?具合でも悪いの?」
のび子は、そう聞いたが、水穂さんは答えない。
「だったら、もう少し、楽しそうな顔をしてよ、こんなきれいなバラ園、富士にはなかなかないじゃないの。」
そう、水穂さんにいいながら、のび子は庭の中心にある噴水を見に行こうと言うことにして、そちらの方へストレッチャーを動かしていった。
噴水は、庭の中心部にあった。たしかに水が吹き出ていて、とても華やかなのであるが、でもなんだか、ちょっと寂しいなと言う感じがした。ここの噴水だけではなく、ここがなんだか寂しいなと言う気持ちにさせられるのは、なぜなんだろうか?
噴水の近くには、人が、二人いた。一人は、車いすに乗っていて、なんだか、おばあさんのような顔をしているが、間違いなく若い女性であった。服装が、お年寄りのする格好ではなく、可愛らしいエプロンドレスを身に着けていたからそうわかったのだ。一緒にいた男性もまだ隠居するような年ではない。多分ここに静養に来ているんだなとわかったのび子は、その男性に声をかけてみることにした。
「はじめまして。こちらで療養している方ですか?」
のび子が声をかけると、男性はニコリと笑った。女性の方も、顔を動かすことはできないようであるが、水穂さんの顔を見て、なにか動いたらしい。
「昨日からいらしている方ですね。はじめまして。僕は、村瀬優と申します。こちらは、妹の村瀬繭子。よろしくおねがいします。」
「あー、あー、あー。」
男性がそう言うと、女性がそう声を出した。蛙を潰したような声だけど、一生懸命自己紹介をしているつもりなのだろう。
「村瀬繭子さんですか。よろしくおねがいします。磯野水穂です。こちらは、付き添いで、須田のび子さんです。」
水穂さんがそう言うと、繭子さんは、もし手を動かせるのであれば、握手するような仕草で、水穂さんに挨拶した。
「よろしくおねがいします。村瀬繭子さん。」
そう言うと、繭子さんの目に涙がでているのにのび子は気がついた。
「いえいえ、繭子に直に話しかけてくださって嬉しかったのでしょう。」
そういう優に、のび子は、
「それはどういう意味でしょうか?」
と聞いた。
「いえ、このような体になってから、繭子に直に話しかけてくれる人間は一人もいませんでしたから。みんな、僕が通訳しないと、通じないといって、話しかけようとしないんです。」
「ということは、繭子さんも普通の人だった時代があったのでしょうか?」
のび子は、そう聞いてみた。
「ええ、少なくとも、18歳まではそうでした。繭子は、念願だった大学受験に失敗して、自分の、体にガソリンを撒き散らして、自殺しようとしたんですよ。幸い、発見が早かったので、死ぬことには至らなかったんですけどおかげで、歩くのもできないし、声もろくに出なくなってしまいまして。それで時々、こちらに来させていただいています。」
優はできるだけサラリと話してくれたけど、それはとても衝撃的な内容でもあった。かえって、自殺を完遂したほうが良いのではないかという、内容でもあった。
「そうなんですか。それは大変ですね。なんか、本当に大変だなってのがわかる気がします。」
と、のび子はそういったのであるが、繭子さんには、そういう事を言ってはいけない気がした。
「大変だと思います。ときには、愚痴を言いたくなるときもあると思います。それも、仕方ないことでもありますよね。頑張れって言う言葉も、届かないのかな。きっと絶望的な気持ちなんだと思うけど、まずはじめは、ゆったりした気持ちになることを目指してください。」
と、水穂さんがそういった。繭子さんの表情がまた変わる。
「ありがとうございます。これまで僕のことは励ましてくれる人はいましたけれども、繭子に声をかけてくれる人はいませんでした。繭子も、お礼を言うことはできないと思いますが、喜んでいると思いますから。」
お兄さんの優がそう言って、繭子の代わりにお礼を言う。のび子が繭子を見ると、彼女は、なんとか言葉を喋ろうとしているようであるが、言葉にならないようだ。
「あー、あー、ああー。」
何度言っても、その言葉しか出ない。
「無理して、言わなくても大丈夫ですよ。僕は、繭子さんの気持ちはわかっていますので。」
水穂さんが優しくそう言うと、繭子さんは、ただ水穂さんを見つめることしかできないような顔で、じっと見つめた。
「いえ、大丈夫です。繭子さん。あなたが言いたいことは、ちゃんとわかっていますから。」
水穂さんは、にこやかに笑った。
「おーい!買ってきたよ。まさか庭を散歩しているとは思わなかったよ!」
と、いきなり中庭から車椅子の音がして、杉ちゃんがやってきた。
「はい、今日のおやつは、ケーキだよ。あ、安心して。ナッツも小麦粉も使ってないからねえ。」
杉ちゃんのその顔を繭子さんは、ぽかんと眺めているようだった。確かに、きれいな人と言える水穂さんと比べると、杉ちゃんは彼の引き立て役だ。
「何だ。お前さんは、先客か。水穂さんがお世話になります。僕の名前は影山杉三ね。杉ちゃんって呼んでね。よろしくね。」
杉ちゃんが繭子さんに、そう自己紹介すると、繭子さんは、ちょっと驚いた顔をしていたが、いきなり嬉しい顔になって、
「あは、あはは、あははは。」
と笑い始めた。
「おい、これはどういうことだ。繭子が、こんなに楽しそうな顔をしているんなんて。」
お兄さんの優は、信じられないという顔をしている。
「まあ、良かったじゃないかよ。笑ってくれるのが、一番の宝物じゃないの?お前さんに取って。」
杉ちゃんが優にそう言うと、優は、涙をこぼしながら、
「し、信じられないくらいで。妹が、楽しそうな顔をするなんて、何年ぶりでしょう。」
と、言うのであった。
「そうですか。一体何年、閉じこもっていたんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、もう10年以上経ちます。18歳のときでしたから。繭子が焼身自殺を図ろうとしたのは。」
優は、静かに言った。
「なるほど。何年なのかわからないほどというわけね。それで、繭子さんは、10年以上笑わなかったわけだ。それは確かに大変だったね。でも、これからはもう違うんだぜ。頑張って。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「一体どうして、繭子さんは、焼身自殺を図ろうとしたんです?なにか、あったんですか?」
「ええ、こうなれば、全部話してしまったほうがいいのかな。繭子は、僕よりずっと頭が良くてですね、有名な女子高校にも通って、頑張って東大まで目指そうと色々やっていたんですけど、東大は落ちてしまいましてね。合格発表の翌日に、自分の体にガソリンを撒き散らして死のうとしました。幸い僕が早く見つけたから良かったようなものですが、、、。」
優は、杉ちゃんにそこまで話して、あとは言葉に詰まってしまったようである。
「ああ、無理して言わなくてもいいよ。その後のことは、ちゃんと僕達も予想がつくから。まあ、繭子さんは、それだけ大変だったということだ。確かに、東大はすごいところの様に見えるけど、お前さんにとって、良い場所でなかったから、落ちたんだと思うよ。そう思えばねえ、お前さんは、自殺なんかしなくても良かったと思うけど?」
杉ちゃんは、繭子さんに言った。
「でも、あなたは、それができなかったんですね。誰かに迷惑をかけてしまったとでも思ったのでしょうか。それで、焼身自殺を測ってしまったんでしょう。」
水穂さんが優しくそういうと、
「ありがとうございます。繭子を一生懸命励ましてくださって、ありがとうございます。嬉しいです。」
優は、水穂さんに頭を下げた。
「水穂さんも、早く良くなってもらって、こちらへ出られるといいですね。水穂さんも、寝たきりの状態なんでしょうが、すぐにとは言わないですけど、歩けるようになったら僕も嬉しいです。」
「ええ。ありがとうございます。」
と、水穂さんは優に言った。
「あ、もうそろそろ、お風呂が沸く時間ですね。もう部屋へ戻らなきゃ。」
のび子が腕時計を見てそう言うと、水穂さんも杉ちゃんも、そういえばそうだったなと言う顔をした。
「そうですね。じゃあ、部屋へ戻りましょう。」
と、優が急いで繭子の車椅子を方向転換させた。繭子は、右手で売買をしようとしたが、それはできなかった。
「ああ、気持ちはわかるからダイジョブ。」
と、杉ちゃんが言うと、繭子はとてもうれしそうな顔をした。
「じゃあ、またよろしくね。」
と、杉ちゃんたちは、それぞれの部屋に戻っていった。部屋に戻ると、のび子は、水穂さんにお風呂へ入りましょうかと聞いたが、水穂さんは、そんな気がしないといった。一応各部屋に露天風呂は着いているし、大浴場もあるという、贅沢な施設ではあるのだが、メインである温泉を楽しもうと言う人は、なかなか現れなかった。
杉ちゃんたちは、とりあえず杉ちゃんがコンビニで買ってきたケーキを食べて、水穂さんの着物を着替えさせた。のび子は、かわのやに設置されている、コインランドリーを借りて、下着や靴下を洗った。電気洗濯機は動かせる。ボタンさえ押してくれれば、洗濯から脱水、乾燥まで全部してくれる。杉ちゃんは、今の洗濯機はボタン一つで何でもできてしまうのは嫌だなというが、のび子はこれのおかげで、いろんなことができるというのに、感謝したくなるほどだった。
その日も六時に、仲居さんたちが夕食を持ってきてくれた。今日も水穂さんの夕食はそばが中心に用意されていたが、いつも自分たちが用意しているそばとはバリエーションが違っていて、山菜そばとか、きのこそばとか、色々バリエーションがあった。そういういろんなものが、予め用意されていて、何も苦労もしないで、料理を得ることができるというのが、今の社会でもあった。
「ああ、うまいねえ。ここの料理、すごくうまいよ。上手にできでるよな。」
「よかったらこれもどうぞ。」
と、のび子は、杉ちゃんに刺し身を一切れ渡した。杉ちゃんはすぐに食べてしまった。
「水穂さんは、眠っちまったようだね。」
と、杉ちゃんは、水穂さんの方を見た。杉ちゃんたちより先に、夕食のそばを食べて、もう疲れてしまったのか、眠ってしまっていた。
「まあ、このまま寝かせて上げましょう。」
と、のび子は言った。
「寝れば寝るほど良くなると思いますから。」
「さあ、それはどうかな?」
と、杉ちゃんは言った。のび子は、ベッドで眠っている水穂さんを見た。やっぱり疲れ果てているのは本当なんだろうなと思われるほど、水穂さんは、よく眠っていた。一つや2つ、その近くで手を叩いても反応を示さなかった。水穂さんが、ここへ来て気持ちがいいとか、そういう事を口にしたことは一度もなかった。ただ、ご飯を食べさせて、静かに寝ているだけであった。確かに咳き込むことは無いが、それだけでは良くなっているとは言い難い。
「まあ、いずれにしても、主役は水穂さんなんだし、あたしたちは、良くなってもらうように、お手伝いしましょ。」
「どこまでできるか不詳だがな?」
杉ちゃんと、のび子は静かに眠っている水穂さんを眺めていった。
そのころ、隣の部屋では。
「繭子。」
と、お兄さんの優は、繭子に声をかけた。
「食事の時間だよ。」
仲居さんが持ってきてくれた食事を目の前にしながら、優はそういうのだが、食事を前に黙ったままであった。
「何をそんなにぼんやりしているのかな?」
優はそう言うが、繭子は答えなかった。まあ答えないのは、当たり前なので、優は、繭子の口元に、刺し身を掴んだ箸を持っていったのであるが、繭子は、食べようとしなかった。
「繭子どうしたんだよ。体の具合でも悪いの?」
優は、妹に何が起きたのかわからないで、そういう事を言ってしまったのであるが、繭子は涙をこぼして、首を横に振った。繭子ができるコミュニケーションは、首を縦にふるか横にふるかのコミュニケーションしか無いのである。
「それなら一体どうしたんだ?今まで好きだった刺し身も何も食べないなんて。」
もし、繭子に反論することができたら、繭子は何を言うのだろうか。優にはそれも思いつかなかった。
「おい。繭子。」
優は、そういったのであるが、繭子はやっとぼんやりしたまま、お刺身を口にした。
「ああ良かった。これで、美味しく食べてくれるかな。」
と優はそういう事を言って、また刺し身を差し出したが、繭子は、それもなんとか食べてくれた。それでも何か、上の空でぼんやりしたままであった。
「繭子、一体どうしたんだよ。なにか、困ったことでもあったのか?」
繭子は、お兄さんになにか言いたそうであったが、それでも、自分が蛙を潰したような声しか出ないことも知っていたから、非常に悔しそうな表情をした。自分には意思を表現する手段もなにもないのだ。ただ、首を縦にふるか、横にふるかのコミュニケーションしかできない。せめて、手が動くとか、そういうことがあったら良かったのに。どうして、自分の体は何も聞いてくれないのだろう。
「あ、あ、ああ。」
結局何を言っても、それしか出ないのだった。
じれったいまま、繭子の夕食は終了した。
翌日。
繭子は、いつもどおりお兄さんの優に介助してもらって朝食を取った。せめて、腕を動かして朝食をとりたいと思ったが、腕は少ししか動いてくれなかった。繭子は、茶碗を取りたくても、腕が動かず、茶碗まで届かなかった。そんな事しなくていいと、優は繭子の口元へ、ご飯を運んでくれるのであったが、繭子は、そんなこともできない自分がとても悔しいと思った。優は、いいんだよと言ってくれて、繭子が食べるのを手伝ってくれるのであるが、繭子はそれだけでも、悲しかった。自由になるのは、口と手の指三本しか無いのだ。なんであたしは、それしか自由になれないのだろう。
お兄さんの優は、繭子が少し不安定になっているのではないかという気持ちであった。繭子が食事を摂るのに嫌そうな顔をしたり、悔しそうな顔をしたりしているのは、なにかわけがあるのか、心配になった。
「繭子、今日は外へ行けるかな?」
と、優が聞くと、繭子はにこやかに笑って頷いた。外へ出たがるということは、多分、嫌な思いとか、そういうことはしていないんだろうなと思うのであるが、優は繭子のことが心配であった。
「とりあえず、朝ごはん食べてから、庭へ出ような。」
優は、繭子に言ったところ、繭子はこれまでにない嬉しそうな顔になってくれたので、はあ、今日の調子はいいのかと優は考え直した。でも、繭子のことが心配で仕方ない。そんな気持ちで、優も朝食をとった。
「じゃあ、繭子。庭へ出よう。」
と言って優が繭子の車椅子を押して、繭子を庭へ出すと、繭子はこれまで以上に嬉しそうな顔をした。そして、水穂さんたちがいる部屋の窓をずっと眺めているのだった。
優は、繭子のそんな態度を見て、妹の身に何が起きたのか、理解できた。
「繭子。恋をしたのか。」
優は思わず言った。
繭子は、いつもどおり首を立てにふるのかと思ったが、繭子はそのとおりにしなかった。ひたすらに、水穂さんたちがいる部屋の窓を眺めているだけであった。繭子から答えが無くても、優は、繭子がそういう感情を持ったんだなと言うことを確信した。それは、繭子にとって、人間的な成長につながることでもあるのかもしれないが、優にとっては大きな不安でもあった。
「繭子も人間だもんな。人を好きになることだってあるよな。」
優は、そんな繭子をみて、なんとか、繭子が自分の思いを伝えられないかと考えてみたが、口は食べるだけしか無いし、首を縦にふるか横にふるかしかコミュニケーション手段がない繭子が、果たして気持ちを伝えられるかどうか。いくら考えても本人にはできそうにも無いことだと思った。繭子は、一人では何もできない。兄である自分が全部介助しないと、繭子は、何もできない。それは、変えることができないことであった。人には変えられるものと変えられないものとあるが、繭子には、変えられないものが大きすぎて、何もできないような気がした。
繭子はずっと、水穂さんたちがいる部屋を眺めていた。繭子には、それしかできなかった。でも、繭子は、ずっとその部屋を見つめていた。きっと、水穂さんに思いをそうすることで伝えているのだろうと思われた。でも、それが果たして、水穂さんに伝わるかどうか。それが、一番大きな障壁なのではないかと優は思った。
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