ピクニック

増田朋美

第一章 旅立ち

その日は朝から降り続いた雨が午後には止んで、暖かく日がさす天気になった。のんびりした日差しの眩しい一日。それはなにか新しいことが始まりそうな、そんな気がする一日である。

その日も、杉ちゃんたちは、いつもどおり、製鉄所で自分たちの仕事をしていたのであるが。

いきなり、四畳半から、水穂さんが咳き込む音が聞こえてきたので、杉ちゃんも利用者たちもびっくりする。

「やれやれ、また始まったか。水穂さんは大丈夫かな。」

杉ちゃんが四畳半へ行ってみると、水穂さんは、横になったまま咳き込んでいる。

「あたし、柳沢先生呼んできます!」

利用者の一人が、急いでスマートフォンをダイヤルし、電話をかけ始めた。

「あのすみません!水穂さんがまた苦しいみたいなんです。ええ、ええ、はい。お願いします。」

利用者は急いでスマートフォンを切り、

「五分くらい待っていてくれれば、来るそうです。」

と、杉ちゃん言った。

「わかったよ。じゃあ、まとう。」

杉ちゃんの言い方は実に単純だった。でも、その待っている五分が、すごく長く感じられ、なんだかとてもじれったい気がした。それは、本当に長時間であり、なんでこんなに時間があるんだろうと思われる。

「もうちょっと辛抱してくれ。そうすれば大丈夫だから。」

杉ちゃんにそう言われても、水穂さんは、返事をしなかった。

「こんにちは。」

玄関に柳沢先生がきてくれたときは、もう何分待たせたんだろうという気がするほどだった。

「ああ、来てくれたんだね。よろしくおねがいします。水穂さんを見てやってください。」

「はい、わかりました。」

柳沢先生は、四畳半に入って、水穂さんの背中を叩いて、内容物を出すのを手伝ってやり、薬を飲ませて咳き込むのを止めてくれた。杉ちゃんは、大きなため息をついた。

一方その頃。

「診察をやめたいとおっしゃるのですか?」

目の前の患者を見て、小杉道子は驚いていった。

「はい。そのつもりです。」

隣のいた患者さんのお母さんがそういった。

「しかしですね。まだ、PET検査の結果もわかってないんですし、もしかしたら本当に異常があるかもしれないですよ。のび子さんのことだってまだ、数回しか診察していませんし。それに、結果が出ていない時点で打ち切りにするのは良くないと思いますが?」

道子は、お母さんに向かってそういった。この患者、つまり須田のび子さんは、最初、腰が痛くてしょうがないと言って、この病院にやってきたが、腰のレントゲンを撮っても異常はないし、血液検査をしても異常がない。なので、道子は彼女にPET検査をやったらどうかと勧めて、彼女はその結果待ちなのであった。

「いえ、でも、これまでの検査で異常はなかったわけですし、のび子も歩いたり、食べたりは普通にできるわけですから、体に腫瘍などは無いと思います。先生、本当にありがとうございました。」

と、お母さんは道子に言うのであった。

「ちょっとまってください。せめてPET検査の結果が出るまで待ってはいかがですか。もしかしたら、本当に異常が見つかるかもしれません。それに、異常がなかったら、精神科などを責任を持って紹介しますから、もう少し待っていただけませんか?」

道子はお母さんにいうと、

「いえ、これ以上、のび子のことでご迷惑をかけるわけには行きません。のび子は一人で移動もできます。歩けますし、何も心配はありません。」

強引なお母さんは、道子にそう言って、のび子に帰るように促した。道子は、せめてのび子さんの気持ちを伺いたいのですが、と言ったけれど、お母さんはそれを聞かなかった。

のび子はトボトボと病院を出た。お母さんは、すぐに家に帰ろうと言う。例えば、病院のあと、サンドイッチでも買っていこうとか、そういうことは一切しない。すぐに家に帰って、おじいちゃんにご飯を食べさせなきゃ、とか、そういう事を言っている。祖父は、ずっと農業をやっていたけれど、高齢になり作業ができなくなってきているので、父や母が手伝っているのだが、その伝達がうまく行かず、毎日ケンカのような事を繰り返しているのだった。暇さえあれば、体のどこかが痛いとか、病院につれていけとか命令し、体が悪くなった事を、のび子や母が農作業を怠けているせいにする。そんな暴言を吐くおじいちゃんを、お母さんは、ただ言いなりになっているだけで、のび子には、早くこの生活になれなさいと言っているだけであるが、のび子にして見れば、どうしたらいいものかわからず、それはできないのだった。祖父が、毎日毎日、自分の体のこと、農作業の事、田植えの事等で、父や母に怒鳴り続けるのを見て、のび子は、腰の痛みを訴えるようになったのであった。友達は、のび子に家を出たらどうかというが、どこにも行くところは無いから、簡単なように見えて、非常に難しい問題でもあった。

暇さえあれば、祖父の着替えを手伝い、食事を作り、祖父の好きな食べ物ばかり買ってきて、機嫌を取り続ける母に対し、いつの間にか、のび子は自分なんていらない存在なんだと思うようになっていた。

多分、家に帰っても、どうせ母は、祖父のご機嫌を取るしかしないだろう。そして、またくだらないことで病院に行って、この家は大事な事を怠けているとか、そういう喧嘩を始めるのだ。本当に、あんな爺さんの世話なんかしなくてもいいのではないかと思うけど、家の人はそんなことはご法度で、祖父にひたすら頭を下げて、祖父の事を、たてまつりながら暮らしていくのだった。

「お母さん、悪いけど、先に帰って。私は、よるとこあるから。」

のび子は、そう言って、お母さんとは違うバスに乗った。お母さんは、やっぱりねという顔をして、自宅に帰っていった。

「そうですねえ。特に肺が悪化しているとか、そういうことはありませんね。そこははっきりしています。ただ、水穂さんは、一生懸命隠そうとしていますが、精神的に疲れています。」

と、柳沢先生が言った。

「そうすると、僕達は、一体どんなことに気をつければいいの?食べさせちゃ行けない食べ物とか?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「どんな事と言われましても、本人に立ち直ろうとする気持ちをもってもらうのが大事ですよ。まあ、できることはですね。その疲れを発生させている現況から、なるべく離してやることではないでしょうか。例えば、介護付きの、観光タクシーとか使って、ピクニックに行ってみるとか。」

と、柳沢先生は答えた。確かに精神的な疲れのある人に、旅行はいい薬になってくれる。

「そうか。ストレッチャーに乗って介護役をつけてか。そりゃ、大変だなあ。でも確かに、自然がいっぱいある観光地で、ピクニックは楽しいだろうな。」

杉ちゃんは腕組みをした。

「それか、温泉もいいだろうな。弁当を持って、湯治場で一日温泉につかってのんびりするとか。」

「まあ、やり方はどんなやり方でもいいですから、どこでも心を癒やして挙げられるような場所へ、連れて行ってやってください。」

「はあ、癒やされるような場所ねえ。」

と、同時にジョチさんが、只今戻りましたと言って、四畳半にやってきた。

「また水穂さんが発作を起こしたんですね。もうこうなったら、女中さんに来ていただくことは難しいでしょうから、どこかへ出向いたほうがいいかもしれません。皆、水穂さんに音を上げてやめてしまいますから。」

「おう、今、それを話していたところだ。」

杉ちゃんは、ジョチさんに言った。

「それなら、そうしてしまいましょうか。どこか有名な湯治場でも探してみましょうかね。でも、一人で行かせるわけには行きませんね。誰かについていってもらわないと。」

「そうなんだよな。そういうことなら僕が行くよ。僕はいつでも暇人だから。」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうですね。ただ、これは観光旅行では無いので、杉ちゃん一人では、ちょっと不安な一面もありますね。」

と、ジョチさんは言った。

「ごめん。」

杉ちゃんはそういう。確かに、歩ける人のほうがいいなんていう発言は、本人の前ではできないものであった。

「仕方ありませんね。水穂さんと杉ちゃんと二人を、世話してくれる、タクシー会社を探しましょう。」

ジョチさんは、急いでスマートフォンを出して、タクシー会社を調べようとするが、

「私が行きます。」

と、若い女性の声がしたので、びっくりしてしまった。

「須田さん。どうしたんですか。」

「いえ、先程、玄関先で、杉ちゃんと理事長さんたちが話しているのを聞いてしまいました。水穂さんには、転地療養が必要なんですね。そして、そこで世話をする人が必要なのもわかりました。そういうことなら、私を連れて行ってください。どうせ、家にいても、居場所がないし、家族にはいてもいなくてもどっちでもいいって言われてますから、私、水穂さんに着いていきます。」

のび子さんがそう言ってくれた決断は、かなり大きなもののようだとわかったジョチさんは、

「わかりました。では、須田さんと三人でいっていただきます。ただ、静岡県の温泉旅館と言いますのは、かなり観光化されていて、昔ながらの湯治場というのは、ほとんどありませんので、除外しましょう。本当は、近くにそういう旅館があったらいいんですけど、それは、まずありませんので、期待しないほうがいいでしょう。」

と、杉ちゃんたちに言った。

「そうですねえ。最近は、転地療養という言葉も死後になっていますからな。」

と、柳沢先生が言った。

「お若い方が、その言葉を知っていらっしゃったことが、驚きでしたよ。おそらく本で読んで知ったんでしょうけど。確か、僕が若かった頃、転地療養向きの旅館が、養老渓谷にあったと思うんですよ。そこは、だめですかね?」

「養老渓谷。」

と、ジョチさんが言った。

「千葉ですね。確かに、自然がいっぱいありますし、都心からのアクセスも良いところです。そこに、あるんですか?」

「ええ、名前は確か、かわのやとか言ってました。今営業しているかどうかわかりませんが、そこであれば、昔ながらの湯治場みたいな雰囲気のあるところですよ。」

その名前を聞くやいなや、のび子は、急いでタブレットを取り出し、養老渓谷かわのやと検索欄に打ち込んでみた。すると、古ぼけた建物の、小さな温泉旅館が出てきた。確かに看板にはかわのやと書いてある。そして、営業中とも書かれていた。

「あの、失礼ですが、ここでしょうか?」

のび子が柳沢先生にタブレットを見せると、

「はい、そうですそうです。ここですよ。まだ、営業しているんですね。僕が患者さんを連れて行ったのは、何十年も昔だったけどね。」

と、にこやかに笑っていった。

「そこは、転地療養を受け入れてくれる旅館なんですね?じゃあ、すぐに電話しましょう。」

「インターネットで予約がとれるようになっていますよ!」

のび子は予約画面を見せた。そこに急いで必要事項を打ち込んで、予約をするというボタンをタップすると、すぐに予約はできてしまった。最近の旅館は、すぐに予約ができるシステムになっている。それは、本当に便利だなと思うのだった。ついでに、のび子は介護タクシーの予約もとってしまった。こう書くと、実に簡単に予約ができるように見えるが、今の時代なんでもインターネットで、できてしまうのである。わざわざ対面とか、電話とかしなくても、そうして予約ができてしまう。

「須田さん、ありがとうございます。それでは、一週間ほど、水穂さんに付き合ってあげてください。」

「わかりました。」

のび子はやっと自分が世の中で必要とされたようで、嬉しい気持ちになった。翌日、のび子は自分の着替えなどをトランクに入れて、それを持って製鉄所に行った。ちょっと一週間ほど旅行に行きたいと言っても、母は何も心配しなかった。多分きっと田植えの季節で、のび子のことはどうでもいいと思っているのだろう。なのでのび子は、母や祖父から解放される嬉しい思いで、製鉄所に向かったのだった。

製鉄所につくと、杉ちゃんが、待っていた。しばらくして、のび子が予約した、ワゴンタイプの介護タクシーが、製鉄所の前にやってきた。のび子は運転手と手伝いながら、水穂さんをストレッチャーに乗せて、ワゴン車の中に乗せてやった。そして、その隣に、杉ちゃんを車いすごと乗せてやり、

「じゃあ、行ってきます!」

と、にこやかに笑って、自分は後部座席に乗りこんだ。行きますよと言って、運転手は、介護タクシーを動かし始めた。ジョチさんが、見送りに来てくれていたが、のび子は、何も気にしなかったのだった。のび子は、東名高速道路を走って、静岡県が遠ざかっていくのを、なんだか嬉しいなと思いながら眺めていた。そして、高速道路を走り続けて、神奈川県、東京都を通り越して、途中サービスエリアで休憩したりしながら、千葉県に入る。東京湾アクアラインで木更津に到着し、更に走り続けて、養老渓谷に到着したのは、昼過ぎだった。とりあえず、予め用意していた弁当を食べて、カーナビを頼りにかわのやという旅館へ向かった。

確かに養老渓谷は、温泉旅館がたくさんあるが、かわのやという旅館は、そこからは少し離れていた、小さな建物だった。多分、部屋の数もさほど多くない、療養向きの旅館である。それに、旅館を囲むような、石塀もない。正しくむき出しの状態で立っている、という表現がふさわしい建物だった。

そこの正面玄関の前で、のび子達の介護タクシーは止まった。のび子はまた、水穂さんをストレッチャーに乗せたままおろしてやり、かわのやの建物に入らせてもらった。

「あの、すみません。インターネットで予約しました、須田のび子ですが。」

と、のび子がいうと、

「はい、須田様ですね。お待ちしておりました。かわのやへようこそいらっしゃいました。」

かなり年をとった、女将さんが出迎えた。なんでも、ここでは従業員全員でお客さんを迎えるのが当たり前になっているようである。その中で、訪問着を着ている女性が二人いるので、若女将と大女将と二人いるのだろう。

「よろしくおねがいします。」

と、のび子は、女将さんに頭を下げた。

「それでは、宿泊の手続きをいたしますから、こちらにいらしてください。その間に、お二人は、お部屋へどうぞ。」

と、若い女性が杉ちゃんたちにそう言った。

「おう、ありがとうな。水穂さんのことは、慎重に扱ってやってくれ。」

と杉ちゃんがいうと、はいわかりましたと言って、中居さんたちが水穂さんのストレッチャーを押して、部屋へ向かって移動し始めた。部屋へ行くためのエレベーターも、ストレッチャー一つ入れても余裕があるくらいだから、かなり大きなものでもある。中居さんの話によれば、部屋は5部屋用意してあるが、その中で、本日は、3部屋が使用されていると言うことだった。満杯になることは、こういうタイプの旅館だと、なかなかないのだそうだ。

「さあお部屋へどうぞ。こちらです。」

中居さんが、部屋の引き戸を開けた。杉ちゃんたちが泊まる部屋は、広々とした和洋室で、畳のスペースと、ベッドルームとに分かれている部屋だった。中居さんたちは、水穂さんの体を持ち上げて、そっと寝かせてくれた。その手際があまりにもいいものだから、

「あれれ、中居さんたち、なんだか、看護師みたいに手際がいいな。」

と。杉ちゃんが思わず言ってしまうほどである。

「当たり前じゃないですか。全く歩けない方だって、ここには来るんですよ。」

と、仲居頭と思われるちょっと気が強そうな感じの女性が、杉ちゃんに言った。水穂さんは、長時間車に乗っていたので、疲れてしまったのが、それとも、ふわふわのベッドに眠れて気持ちがいいのか、静かに眠り始めてしまった。

「へえ、どんなやつが、ここへ療養に来るんですか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、最近は、うつを患った方が多いです。」

仲居頭さんは、にこやかに答えた。それと同時に、須田のび子さんが、宿泊の手続きができたと言って、大女将さんと一緒に部屋に入ってきた。

「いやあ、なかなかいい部屋ですね。とてもきれいだし、のんびりできそうです。こんないいところだとは思いませんでした。」

「ありがとうございます。」

そういうのび子さんに、大女将さんは、にこやかに言った。

「お夕食は、六時で、朝食は朝七時でよろしいですね?」

「はい、大丈夫です。よろしくおねがいします。」

「あと、温泉入浴は、いつでもできますので、お手伝いが必要でありましたら言ってください。私達が手伝います。」

と、仲居頭の女性が言った。

「うちの温泉は、かけ流しですから、偽物の温泉ではありませんから。最近は偽温泉とかよく言われていますけど、うちは、そんな事はありませんからね。」

「おう。どうもありがとうよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「では、なにかありましたら、お電話で呼び出してください。もし、近くを散策するなどで、介助が必要になりましたら、仲居を呼び出してくれれば、手伝いますので。それではごゆっくりどうぞ。」

大女将さんは、杉ちゃんたちに一礼をして、部屋を出ていった。とりあえず、のび子と、杉ちゃんと、水穂さんは、その部屋に残った。

「テレビもないし、つながるのは電話だけか。そういう環境も悪くないね。」

と、杉ちゃんが言う通り、たしかにこの部屋にはテレビはなかった。ゆっくりしてもらいたいという意味があるのだろうか。テレビが設置されていないのは珍しかった。それに、時計などもなかった。それも女将さんたちの方針なのだろうか?

「とりあえず、おやつを冷蔵庫に入れておくわ。」

と、のび子は、途中のサービスエリアで購入したお菓子を、部屋に備え付けの冷蔵庫に入れた。冷蔵庫もあって、歯ブラシやタオルなどの部屋設備も充実しているようである。それだからこそ、余計にテレビがないのが、不思議な気がするのだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る