第38話 ともだち


「亜希ちゃん…何でそんな物持ってるの……危ないよ」


 奈津子の言葉に皆が視線を向ける。坂井は慌てた様子で教壇から降りる。


「やだ! 近寄らないで!」


 亜希がカッターを突き出す。

 震える指を動かすと、カチカチと不穏な音をたてて刃が押し出されていく。


「お父さんもお母さんもそうだった! 本当に言いたかったこと、ずっと隠してきた! 家を守ろうとして、私を守ろうとして! なのに、なのに……こんなことになるんだったら、ちゃんと言えばよかったんだ!」


 言葉と同時にカッターを振り下ろすと、スカートの布が裂けた。


 右足に赤黒い血が伝う。


「きゃああああああっ!」


 悲鳴を上げる者、呆然とする者。

 坂井は近寄ろうとしたが、カッターを振り回して威嚇する亜希に、動くことが出来なかった。

 興奮している亜希を落ち着かせないと。そう思い、笑顔を向けてゆっくりと前に進む。


「か、勝山……言いたいことがあるなら、先生がいくらでも聞いてやる。だから……な? 手に持ってるそれ、渡してくれないか? それから保健室に行こう。そんなに切ってしまって、痛いだろう。手当して、それからゆっくり」


「うるさい!」


 涙を流して坂井を見据える亜希は、肩で息をしながらカッターを振り回す。


「亜希ちゃんお願い、落ち着いて!」


 奈津子の叫びに亜希が動きを止める。

 ゆっくりと奈津子に視線を向けるが、目は虚ろだった。


「……どうしてそんなこと言うの、姫」


「どうしてって……だって、亜希ちゃんのことが大好きで……初めて出来た友達で……友達のそんな姿、私……」


「そんな姿って、こういうことかな!」


 そう言うと、亜希は左手首に刃を当て、一気に引いた。


 手首に刻まれた一筋の傷。

 中から白い脂肪が押し出されると同時に、そこから鮮血が吹き出した。


「あははははははっ!」


 勢いよく噴き出す血に興奮し、亜希が声をあげて笑う。


「ネットに書いてた通りだよ! 興奮してたら、痛みなんて感じない!」


「やめて! やめて亜希ちゃん!」






 私は何を見てるんだろう。

 ついさっきまで、亜希ちゃんに会えて嬉しかったのに。



 何も解決していない。でもゆっくり時間をかけて、心を癒してあげたい。

 そう思っていたのに。



 目の前の光景は何?

 亜希ちゃんが髪を振り乱し、血を流して笑っている。

 これは現実なの?

 これ以上、何も失いたくない。

 やっと出来た友達なんだよ。

 まだ亜希ちゃんを家に誘ってない。

 まだまだやりたいこと、いっぱいあるんだ。

 私の前からいなくならないで。





 涙を流し、声にならない声で訴える。

 そんな奈津子を優しく見つめ、亜希はナイフを首筋に当てた。


「やだ……やだよ亜希ちゃん……お願いだから……」


「……姫と出会えて嬉しかった。短い時間だったけど、毎日楽しかったよ」


「亜希ちゃんお願い! やめて!」


「あはははははははっ!」


 坂井が駆け寄ろうとするが、首筋にナイフを当てて叫ぶ亜希に、近寄ることが出来ない。


「ねえ姫……助けてよ……私を助けてよ……」


「助ける、助けるから! 何でもするから言って! 亜希ちゃんの為なら何でもするから!」


「助けて! 助けてよ姫!」


「亜希ちゃん!」


「あはははははははっ!」


「お願いだから! お願いだから私を信じて! 私の前からいなくならないで!」




 すっ、とナイフが首筋を走る。




 次の瞬間、首筋から手首以上の鮮血が飛び散った。

 勢いよく噴き出した血が、奈津子の顔を赤く染める。


「……終わりだよ、もう……」


 力なくそうつぶやく。

 手からナイフが落ちる。

 目が空を見つめる。


 そして。


 膝から崩れ落ちる。

 奈津子は反射的に亜希の体を抱きかかえた。

 首筋を押さえ、血を止めようとする。亜希の名を叫ぶ。

 しかし亜希の目が、二度と開くことはなかった。





「亜希……ちゃん……」


 亜希の頬に手をやると、まだ温かかった。


「亜希……ちゃん……」


 もう二度と、応えてくれない。

 亜希ちゃんは死んだ。

 今、この瞬間に。

 奈津子はわなわなと肩を揺らし、亜希の亡骸を力強く抱き締めた。


「うわあああああああああっ!」



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