第32話 課外授業
10月25日。
この日は課外授業で、生徒たちはバスで渓谷に向かっていた。
この学校では年に二度、こうして山深くに入り、そこで昼食を作ることになっているのだった。
ただの飯ごう炊飯だよ。身構える奈津子に、玲子が声をかけて笑った。
険しい表情の奈津子。しかしそれには、別の理由があった。
ひとつは勿論、自身に起こっている異変についてだ。
あの日以来、視線を感じる回数は増えている。
どこにいても気が休まらない状況に、奈津子の心は疲れていた。そしてその視線の主は、いつ行動を起こしてくるか分からないのだ。
それがいつ、どんな形で起こるのか予想もつかない。
小太郎にあれだけのことをした犯人だ。想像もつかないことをしてくるに違いない。
そんなことを四六時中考えていると、流石に神経がすり減っていくのが分かった。
疲れた。少し休ませてほしい。
眠りも日に日に浅くなっている。何事に対しても、集中力が保てていなかった。
そしてもう一つの懸念。それは亜希のことだった。
亜希はあれ以来学校を休んでいた。玲子によると、両親の離婚が正式に決まり、今はその後のことについての話し合いが行われているらしい。
一番の問題は、亜希をどちらが引き取るかということだった。
父は、自分と一緒に来てほしいと亜希に言った。辛い思いをさせてすまない。新しい環境で罪滅ぼしさせてほしい、そう訴えた。
父が好きな亜希にとって、その申し出は嬉しかった。しかし父の想い人と、これからうまくやっていけるか不安だった。何より亜希は、その女性に不信感を抱いていた。
あなたさえいなければ、こんなことにはならなかったんだ。
そんな思いが日に日に強くなっていた。
これまでの父の境遇には同情する。しかし亜希にしてみれば、父と母、祖父がいてこその家なのだ。
一方の母方にしてみれば、身勝手な理由で家を出る男に娘を取られる、そんなことは許されなかった。何より亜希は、勝山家に残された、たった一人の跡継ぎなのだ。
関係を再構築することに力を注いでいた時期が終わり、今は互いに憎悪の感情をぶつけ合っている。亜希は憔悴しきっていた。
少し気分転換したら? 明日は亜希の好きな課外授業だよ?
電話でそう玲子が励ましたのだが、亜希は力なく笑い、「今回は……いいよ」と言ったのだった。
亜希にからかわれたい。そんな彼女を呆れ顔で小突く玲子が見たい。
亜希の笑顔にどれだけ救われていたかを、奈津子は痛感していた。
この課外授業だって、亜希がいればもっと楽しかった筈だ。
「あそこで今から釣りだからね。え! 姫ってば、釣りをしたことないの? しょうがないなあ、ここはお姉さんが、一つ見本を見せてしんぜよう」
「何威張ってるのよ。あなただって似たようなものじゃない。餌もつけられない癖に」
「玲子ってば、ひーどーいー。それでもほら、心構えぐらいは教えられるから。と言うことで姫、餌お願いね」
「だーかーらー、そうやって何でも奈津子に頼らないの。餌ぐらい自分でつけなさいよ」
「だってだってー、餌って言ってもミミズだよ、ミミズ。こんなうねうねしてるの触るって、そんなの罰ゲームじゃない」
「全くこの子は……ほら、つけてあげたわよ」
「サンキュー玲子、愛してるー」
そんな光景が鮮やかに浮かんできた。そしてそれが自分の妄想で、そんな亜希の笑顔が見れないんだ、そう思うと哀しくなってきた。
「奈津子、大丈夫?」
「うん、大丈夫。まずは魚を釣るんだよね。それから調理を」
「そうね。その前にご飯を炊いておきましょう。ここの魚はそんなに警戒心もないし、釣れる時は結構早く釣れるから」
「分かった。それでなんだけど……玲子ちゃん、ご飯をどうやって作るのか、教えてもらえるかな」
その言葉に玲子が固まる。奈津子は頬を赤らめ、うつむいていた。
「ふふっ」
「玲子ちゃん?」
「ごめんなさい、その、何て言ったらいいのかな……やっと年相応のあなたを見れたって思ったら、何だか嬉しくって」
「そうかな」
「ええ。いつも大人びていて、たくさん辛い思いをしてきて……奈津子を見てるとね、私たちがどれだけ恵まれているか分かるの。私も大人にならないとって、いつも思ってた。それくらい奈津子は大人びていたから」
「そんなことないよ。それに大人って言うなら、玲子ちゃんの方が」
「私のは……ちょっと違うから」
「玲子ちゃん?」
「ううん、何でもないわ。それじゃあ奈津子、まずはお米を洗いましょう。川でお水、取って来てくれるかな」
「うん、分かった」
そう言って水を汲みにいく奈津子の背中を見つめ、玲子が囁くように言った。
「私がそう見えるのはね……違うんだよ、奈津子」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます