第33話 苛立ち


 時間がゆっくりと流れていた。





 岩の陰に結構いるから。そう言われ、その辺りに針を落として魚を待つ。

 糸が引くのをひたすら待つ時間。

 周りでは他の生徒たちも、ポイントらしき場所に狙いを定め、糸を垂らしている。


長閑のどかだな」


 こういう「無為な時間」というものを、これまで経験したことがなかった。

 ただ魚が釣れるのをじっと待つ。一体何が面白いんだろう。ずっと思っていた。

 だがこの時間、思っていた以上に楽しい。そう思った。

 久しぶりに顔を見せた太陽。穏やかな陽気の下で過ごす時間は心地よかった。

 全ての悩みが、今この時だけは消えていく。

 そんな不思議な感覚。全部リセットされるような、そんな気さえした。


「それにしても……中々釣れないものだな」


 他の生徒たちは慣れているのか、結構なペースで釣れている。

 何かコツでもあるのだろうか。そんなことを考えていた時、突然奈津子の視界に影が映った。


「なんだ南條、全然釣れてねえみたいだな」


 見上げると、バケツを持った男子生徒が自分を見下ろしていた。


「勉強はお得意でも、魚を釣るのは苦手ってか」


 頬のニキビを掻きながら、そう言って口元を歪める。丸岡だった。


「……」


 奈津子は思っていた。

 そうだ、こんな子、いたんだったと。


 学年トップの座を自分に奪われた人。それが許せなくて、嫌がらせをしてきた子供のような人。

 しかし奈津子は今の今まで、丸岡の存在をすっかり忘れていた。正直、名前が何だったか思い出せない程だった。


 奈津子にとっては今、それどころではなかった。

 亜希のこと、小太郎の死。忍び寄る何者かの存在。そのことで頭がいっぱいだった。


 ごめんなさい、今それどころじゃないの。

 あなたに構ってる時間なんてないから。

 そんな気持ちが態度に出てしまい、奈津子は適当に相槌を打って視線を川面に戻した。

 それがまた丸岡の怒りを買った。


「は、ははっ……勉強以外はこのザマか。都会の優等生様は、俺らとは違うんだな」


 うるさいなあ、少し静かにしてて。折角いい気分なんだから、私のことは放っておいて。

 丸岡の言葉に背を向けたまま、奈津子が無言で返す。


「……そうかよ、俺なんかと話す気はないってか。でもこのままだとお前の班の食卓、寂しいものになるな」


「……」


「何なら俺の魚、恵んでやってもいいぞ」




 ああもう、うるさい!




 丸岡の絡みに苛立ち、奈津子が別の場所に移動しようと立ち上がった。

 まだ無言のままだ。


「おいおい南條、折角分けてやるって言ってるんだ。ありがたく受け取ったらどうなんだ」


「……」


「ちょっと待てよお前、何シカトこいてるんだよ」


 奈津子の対応に我慢出来なくなった丸岡が、荒々しく肩をつかむ。その時初めて、奈津子が丸岡の目をしっかりと見据えた。


「……離して」


「お前が謝るのが先だ。いい気になってんじゃねえぞ」


「……いいから離して」


「謝れっつってるんだよ!」


「うるさいっ!」


 こんな程度の低い人間と、これ以上関っていたくない。そんな気持ちが声を荒げさせた。

 その声に気付いた玲子が、物凄い勢いで走ってきた。


「丸岡! あなた奈津子に何を!」


「何もしてねえよ! 釣れてないようだから、俺の魚を恵んでやるって言っただけだよ!」


「恵んでやるってあなた、どこまで上から目線なのよ! 何様のつもり?」


「ああもう! 面倒くさいやつがまた増えやがった!」


「面倒くさいのはあなたでしょ! いいから向こうに行きなさい!」


「けっ。くだらねえ、本当くだらねえ……ほらよ、一匹恵んでやる」


 そう言ってバケツから魚をつかむと、腰に差していたサバイバルナイフを取り出した。二人の前でこれ見よがしに首を落とし、玲子の足元に放り投げる。


「……丸岡あんた、いい加減に」


「何だよ、血抜きの手間を省いてやったんだ、感謝しろよ」


「……私の言ったこと、全然理解してないのね」


「どうせ今から食うんだ。どう殺しても同じだろうが」


「この人でなし!」


「うるせえこの偽善者!」


 玲子の様子に激高した丸岡が、バケツの中の魚を地面に叩きつけた。


「ただの魚じゃねえか! 今から食うんじゃねえか! 坊主みたいな説教してんじゃねえよ!」


 感情を制御出来なくなった丸岡が、そう言って二人の目の前で魚を踏み付ける。


「こいつらはただの食材だ! 俺らが食う為の存在なんだ! 敬意も糞もあるか!」


 肩を怒らせ、行き場のない感情を魚にぶつける。そんな丸岡の胸倉を玲子がつかむ。

 その時、騒ぎに気付いた担任の坂井が駆け付け、間に割って入った。

 事情を聞いた坂井は大きくため息をつき、隠し持っていたサバイバルナイフを没収すると、丸岡に自分の持ち場に戻るよう促した。


「玲子ちゃん、大丈夫?」


「うん、大丈夫……ごめんね、折角奈津子が我慢してたのに」


「いいよ、そんなこと。それより私、もう一度行ってくるね。一匹ぐらい釣りたいし」


 そう言った奈津子に微笑み、玲子は「頑張ってね」と声をかけた。

 奈津子の背中を見つめながら玲子はため息をつき、踏みしだかれた魚たちに手を合わせたのだった。



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