第19話 小太郎


「今日は疲れたな」


 バスを降りた奈津子が、夕陽に彩られた日本海を見つめてつぶやいた。




 学年一位の成績を修めた奈津子に、クラスメイトたちから羨望の眼差しが向けられた。それは彼女にとって、これまでにない経験だった。


 これまでは、憎悪や嫉妬の感情が向けられていた。

 負の感情に対しては、無視という壁を作ることで対応出来た。そしてそれは簡単なことでもあった。

 しかし好意的な感情に対しては免疫がなく、愛想笑いを向けることしか出来なかった。


「おかしいよね。敵意の方が楽だなんて」


 そう言って笑った。





 その時。

 奈津子はまた視線を感じた。


「……」


 溜め息をつく。

 宗一が告げた「宮崎家のごう」が、脳裏に再び蘇る。


 今日、玲子に相談しようと思っていた。

 亜希は今、家のことで大変だ。その彼女に、これ以上の負担はかけられない。

 家の問題が落ち着き、彼女の中で整理がつくまで待つつもりだった。

 しかし玲子には話したかった。


 いつも冷静で、周囲のトラブルを迅速に解決している彼女。

 そんな玲子の中に、奈津子は洗練された合理性を見出していた。

 彼女は誰に対しても公平で、冷静に物事の本質を見極めようとする。しかしそれでいて、情にも熱い。

 感情と合理性。ある意味交わらないとも言える対極のものを両立させて、最善の解決策を考える。

 そんな彼女なら、また違った側面から、解決の手段を導き出してくれるかもしれない。

 しかし今日はそれどころではなかった。

 周囲に圧倒され続け、ゆっくり話すことが出来なかった。


 そして今。またその視線にさらされている。

 うまくいかないものだなと、奈津子は自嘲気味に笑った。

 そして気付いた。


 笑ってる?


 行動を起こしてきた「それ」に対して、今の時点で打てる手は何もない。

 そんな状況なのに、どうして笑っているんだろう。


 そして気付いた。

 自分に向けられた視線が、いつものそれとは違うからだと。

 そしてその視線は、間違いなく近付いてきている。

 少しずつ、少しずつ。


「……」


 意を決し、忍び寄る視線に顔を向ける。


「え……」


 奈津子が思わず声を漏らした。

 そこにいた視線の正体。

 それは小さな子犬だった。

 あまり詳しくなかったが、その犬がヨークシャテリアだということは分かった。ペットとしては結構メジャーだ。


「どうしたの? 迷子かな?」


 奈津子が微笑み手を向けると、犬がその手を嗅ぎ、舐めてきた。


「ふふっ……かわいい」


 見るとかなり薄汚れていた。奈津子が優しく抱き上げる。


「ご主人様は? 独りぼっちなのかな」


 奈津子がそう言うと、犬は興奮気味に息を荒げ、頬を舐めてきた。


「こらこら、舐めてもいいけど加減しなさい。ふふっ」


 こんな場所で一人、心細かったに違いない。

 そしてやっと出会えた自分に、救いを求めてきたのだ。

 自分と少し似てるかも。

 奈津子は犬を抱き締め、愛おしそうに頭を撫でた。





 宗一も多恵子も、飼うことを許してくれた。

 そのまま風呂に入り丁寧に洗うと、美しい毛並みが姿を現した。

 奈津子は満足そうに笑い、その犬を「小太郎」と名付けた。





「なんでじゃ。犬と言えばタロウじゃろうて」


 晩酌が進み、いい具合に酔いがまわってきた宗一が、ご機嫌な様子で小太郎の頭を撫でる。


「おじいちゃんに言われたから、そうしようかとも思ったんだけど。小太郎を見てたらね、タロウにしてはちょっと小さいかなって思って」


「おじいさん。今の若い子は、タロウなんて名前つけませんよ」


「そうなのか? まあ、奈津子が決めたんならそれでいいさ。なあ小太郎」


 宗一の声掛けに、小太郎が嬉しそうに尻尾を振った。


「でも、どうしてあんなところにいたんだろう」


「面倒みきれなくなった飼い主が、山に捨てたんじゃろう」


「そうなの?」


「ああ。自然に返す、とか訳の分からん理屈でな。自然にとうても、生まれてからずっと人間の世話になってきた犬が、こんな場所で生きていける訳がない。餓死するか、他の動物の餌になるのがオチじゃからな」


「……ひどいね」


「じゃが、こいつはついとった。奈津子の様な娘っ子に拾われたんじゃからな」


「私、ペットを飼うのが夢だったの。でも、お父さんが許してくれなくて」


「そんな暇があったら勉強しろってか? うはははははははっ」


「おじいちゃん、なんでそこで笑うかな」


「笑う門には福来る。どんなことでも笑っておれば、何とかなるもんじゃて」


「全然答えになってないよ。それに意味不明だし」


「まああれだ。奈津子が試験でいい結果を出した。その褒美に、天が奈津子に出会わせてくれたんじゃろうて」


「本当、なっちゃん頑張ったわね。大変な時期だったのに」


「ありがとう、おばあちゃん。これからも頑張るよ」





 これまでは試験の結果がよくても、特に何も感じなかった。父の明弘にしても、「次回も頑張るように」と言うだけだった。

 いつもと変わらず一人、冷たい食事に手をつけていた。

 しかし今。この食卓には温かい料理が並んでいる。

 宗一も多恵子も笑っている。そして、新しい家族が増えた。


 こんなに幸せでいいんだろうか。そう思い涙ぐむ。

 そんな奈津子を温かく見つめ、宗一も多恵子も笑っていた。



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