第10話 勝山家の事情
「まあ、お父さんのことを考えたら、ちょっとは理解出来るんだけどね」
ストローの包装紙を丁寧にたたみながら、亜希が続ける。
「お父さん、おじいちゃんやお母さんにずっと気を使ってたし。それなのに二人共、お父さんのことを馬鹿にしてね。それでもお父さん、いつも笑ってたんだけど……そういうのってさ、きつかったと思うんだ」
「……」
「お父さん、ほっとする時がなかったと思う。だってそうでしょ? 隣町から一人で来て、友達もいないんだよ?
そういう意味ではお父さん、素直な自分を出せるのは私だけだった。あの家で私が唯一、他人じゃない存在だから」
「おじさん、亜希にすごく優しいもんね」
「うん。私の為なら何でもするって言ってくれる。そりゃあ、怒られることもあるよ。でもね、そんな時でも私、お父さんのことを怖いとか思わなかった。嫌いにもならなかった。本当に私を愛してくれてる、そう思えたから」
「いいお父さんなんだね」
「姫も会ったら分かると思う。本当に優しいから」
「ちょっとだけ羨ましいな」
「姫?」
「私のお父さんは……厳しい人だったから」
「……そうなんだ」
「うん……普通の親子の会話、なんていうものはなかったと思う。話すのは成績のことばかりだったから」
「遊んでもらったこととかは?」
「あんまり記憶にないかな。成績がよかった時に、ご飯を食べに連れていってくれたぐらいで」
「大変だったのね、奈津子も」
そう言って、玲子が奈津子の肩を抱いた。
「だから私、普通のお父さんがどんな感じなのか、よく分からないんだ」
奈津子の言葉に、玲子も亜希も複雑な表情を浮かべた。
「あ、ご、ごめんなさい。今はそんなことより亜希ちゃんのことだよね」
「ううん、いいんだよ姫。私こそごめんなさい。姫はお父さんとお母さんを亡くしたばかりなのに、無神経に家の話なんかして」
「それはいいの。どっちにしたって、私にとっては過去のこと。だから考えないようにしてるの」
「姫……」
「でも亜希ちゃんのことは、現在進行形で起こってる。みんなの頑張りで、これからどんな未来でも選択出来る。だから応援したいんだ」
「ありがとう、姫」
「それで? おじさんが原因って、どういうことなの?」
「うん。実はね、お父さん、先月高校の同窓会があって」
「高校の」
「久しぶりに友達と会って、すごく楽しかったみたい。自由だった頃の自分を思い出したって」
「と言うことはその話、亜希にしたってことよね」
「あははっ。お父さん、何の気も使わずに話せるの、私だけだから」
「でも、そこで何かあったのよね」
「お父さんが昔好きだった人も、そこにいたんだ」
「……あんまり聞きたくないわね、その先は」
「その人が離婚してたらしいの。相手の浮気が原因で。その人は子供もいないんだけど、この年でバツイチ、自分には何の価値もないって笑ってたんだって。
その時お父さんが言ったんだ。『君のこと、ずっと好きだったんだ』って」
「はあっ……お約束の展開ね」
「お父さん、結婚してからの自分のことも話したみたい。ずっと肩身の狭い思いをしてる、正直ちょっと疲れたって。で、その人に励まされて……その後二人は、禁断の愛に目覚めてしまって」
「……それもおじさんが話したんだ」
「あははっ、馬鹿よね本当。思春期の娘に何の話をしてるんだか。それでね、二人の想いはどんどん燃え上がって、ついには一緒にやり直さないかって話になったみたいなの」
「それって、亜希ちゃんのおばさんと別れるってことだよね」
「そういうこと。それでお父さん、昨日おじいちゃんとお母さんにそのことを話して」
「おばさんは何て」
「そりゃもう、怪獣映画を観てるみたいだったよ。吠えること吠えること。能無しのあなたのこと、ずっと面倒みてあげたのは誰だと思ってるの。こんな恩知らず、聞いたことがない。今すぐその泥棒猫と別れて、残りの人生、勝山家に土下座しながら尽くしなさいって」
「……裏切られた気持ちは分かるけど、おばさんの言い方も言い方ね。火に油を注いでどうするのよ」
「でしょ? 私も聞きながら思ったよ。案の定お父さん、そんなお母さんのおかげで、余計気持ちに火がついちゃって」
「まあ、そうなるわよね」
「それで現在冷戦中。お父さんにしても、何とか円満に別れたいみたいだし、タイミングを見てるみたい。お母さんも今朝になって頭が冷えて、今までお父さんにしてきたことを思い出したりして、悪いことをしたかもって思ってるみたい」
「大変だったんだね、亜希ちゃん」
「あははっ、まあ、そこそこにね。でもまあ、こういうことってさ、なるようにしかならないじゃない?
私には分からないことだよ。男子を好きになったこともない訳だし。まして結婚してるのに他の人を好きになる気持ちってなったら、もうお手上げだよ」
そう言って乾いた笑い声をあげた。
奈津子は思っていた。
一見幸せそうに見える家庭。良好に見える人間関係。
でも一歩中に入ると、外からだと見えない闇がそこにある。
そしてそれは、人と深く付き合ってこなかった自分には理解し難いことだった。
これまで考えてもいなかった、人間社会で生きていくことの難しさ。
そこから目を背けていた自分。正確に言えば、父から考えることを否定されてきた自分。
それを考えるのは父の役目だった。自分はただ、父の敷いたレールの上を歩くだけでよかった。
しかしその父がいなくなった今。
自由に生きることを許された今。
こういう闇の部分にも触れていくことになるんだ。
自分にとって未知の領域。
今、自分の遥か前を歩いている亜希ですら、その闇に
いつかそういう決断に迫られた時。
果たして自分に挑むことが出来るのだろうか。
そんなことを思いながら、奈津子は空虚な笑みを浮かべる亜希を見つめるのだった。
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