第2話 新生活
「……」
まだこの天井には慣れないな。
そんなことを思いながら、奈津子がアラームを消した。
あの事故から半月が経っていた。
素早く起き上がり、クローゼットから制服を取り出す。
真新しい感触に微笑み、袖を通す。
着替え終えて窓を開けると、冷気に身を震わせた。
「やっぱ寒いな、ここは」
押し入れに布団をしまうと洗面所に向かい、顔を洗う。水の冷たさに身震いし、また笑った。目が覚めた。
雑巾を手に部屋に戻ると、本棚や机の上を拭く。
時計を見ると5時半。朝食までまだ時間はたっぷりある。
念入りに掃除を済ませると椅子に座り、机に教科書を広げた。
父から「朝を制する者は一日を制す」と指導されていた彼女は、素直にその言葉に従い、こうして勉学から一日をスタートさせていたのだった。
ふと、机に置かれた家族写真に目をやる。
今年の4月。高校の入学式で両親と一緒に撮った写真。
少し緊張気味の自分とは違い、満面の笑みを浮かべている両親。
有名進学校に合格出来たのは、父の教えを守ってきたからなのかもしれない。
と、そこまで思いを巡らせた奈津子が手を止め、自嘲気味に笑った。
「でもまあ……何の意味もなかったけどね」
こうして父の言いつけを守っているのだって、本当ならもう必要ないのかもしれない。
その父は、もうこの世にいないのだから。
受験に全てを捧げ、有名校への進学を果たしたこともまた、今となっては無意味だ。
自分は今、母の実家であるここ、日本海が見渡せる片田舎で新しいスタートを切ったのだから。
学校も転校した。
この辺りではそれなりの進学校らしいが、自分が通っていた高校に比べると、レベルはかなり落ちる。
「ふふっ」
自分の人生が大きな力によって
祖父母との生活にも慣れてきた。
ここは昔ながらの漁村で、家の前には二車線の国道が走っていて、その先に日本海が見渡せる。
家の背には山々がそびえている。
昨今の市町村合併の流れを受け、ここも数年前に市に昇格したらしい。しかしこの
村のままでよかったのにな。ここで住むことが決まってすぐに、奈津子はそう思ったのだった。
「なっちゃん、もう起きてるのかい?」
「うん。起きてるよ」
奈津子が答えると
「おはよう、なっちゃん」
「おはよう、おばあちゃん。今日も寒いね」
「うふふふっ。なっちゃんには少し辛いかもね。
それにしてもなっちゃん、ほんと、早起きだよね。毎朝部屋の掃除をして、その上勉強までして。陽子とは大違いだよ」
「お母さん、朝は苦手だったの?」
「どれだけ起こしても、部屋から出て行ったら二度寝してたからね」
「想像出来ないな。私より早起きだったから」
「明弘さんの躾のおかげね」
「躾……ね」
父の名前を出され、奈津子が微妙な笑みを浮かべた。
「もう朝ご飯の時間なのかな」
「ええ、おじいさんも居間で待ってるわよ。きりのいい所でいらっしゃい」
「うん。丁度ひと段落ついたところだから。すぐに行くね」
「待ってるわね」
「おじいちゃん、おはよう」
居間に入った奈津子が、新聞を読んでいる祖父、宮崎宗一に声をかけた。
「おお奈津子。今日もべっぴんじゃのぉ」
新聞をたたみ、上機嫌な様子で宗一が笑顔を向ける。
「べっぴんって……おじいちゃん、そういうの、恥ずかしいからやめてって言ってるのに」
「何が恥ずかしいもんかい。べっぴんにべっぴんと
まだ10月だと言うのに、部屋にはもうストーブが置かれている。
今年の日本海側には秋がないかもしれない。そんな天気予報の言葉を思い出した。
「それじゃあ、いってきます」
「おうさ。気ぃつけてな」
「本当に送らなくていいのかい?」
「大丈夫だって。もう道も覚えたし、時間もあるから」
「そうだぞばあさん。奈津子はまだ若いんじゃ。棺桶に片足突っ込んどるわしらとは違うんじゃからな」
「棺桶って……おじいちゃん、そういうの」
「分かっとる分かっとる。ジョークっちゅうやつじゃて、うはははははははっ」
宗一の豪快な笑い声に見送られ、奈津子は冷気に身を震わせながら笑顔で手を振った。
海岸沿いの細い道を歩く。
家からバスの停留所までは、歩いて20分ほどかかった。
ここに来て気付いたことがあった。
これまでの生活では、時間がかなり慌ただしく流れていたんだと。
分刻み、ある時は秒刻みの生活だった。
電車の時間に間に合うように。塾に遅れないように。
どんな時でも時計は必須だった。
しかしこの村では、時間は
同じ世界の中で、こんな生き方をしてる人たちがいたんだ。そして今、自分もそこで生きてるんだ。
そのことが嬉しかった。
都会では感じることのなかった物が、ここにはたくさんある。
風の音、鳥のさえずり。
潮の香り、草の匂い、太陽の匂い。
その一つ一つが、すり減っていた心を優しく癒してくれる。
死に物狂いで勝ち取った進学校での生活は、両親の死によって幕を閉じた。
これまでの努力は何だったんだろう。そんな思いがなかったと言えば嘘になる。
しかし奈津子にとってここでの生活は、そんな気持ちを忘れてしまうくらい、満ち足りていた。
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