第3話 転校


 穏やかな海を見つめる。

 周囲には誰もいない。

 聞こえるのは波の音、小鳥のさえずり、そして風になびく枝葉の音。

 私の新しい生活は、ここから始まるんだ。

 そう思うと、口元に笑みが浮かんだ。


 その時。


 奈津子の背筋に悪寒が走った。

 慌てて後ろを振り返る。


 凍て付くような冷たい視線。

 奈津子の額に嫌な汗が滲んだ。

 膝が震え、口から白い息が漏れる。


「……」


 背後には山々がそびえたち、朝の冷気が漂っている。

 つい先ほどまで、その景色にほっとしていた。


 その筈なのに。


 奈津子の目には今、恐怖の感情が映し出されていた。

 同じ物を見て、同じ音を聞いている筈なのに。

 自分を取り巻く全てから突き放されたような、そんな気がした。


「誰もいない……よね」


 震える声でそうつぶやく。

 野生の動物でもいたのだろうか。

 冬支度に入ろうとしている何かが、自分を狙っているのかもしれない。そんな思いが巡り、奈津子はもう一度身を震わせた。


「……」


 息を殺し、注意深く周囲を見る。

 いつでも走れるよう、腰を少し低くする。


「気のせい……だったかな」


 視線を感じなくなった奈津子が、そう言ってため息をついた。

 ポケットから携帯を取り出し、時間を確認する。


「いけない、ちょっと急がないと」


 そうつぶやき、奈津子は再び歩き出した。





「おはよう」


「姫―っ、会いたかったよーっ!」


 教室に入った奈津子は、そう言って突進してきた女生徒に抱き締められた。


「一日ぶりの姫の匂い。あ~、癒されるわぁ。クンカクンカ」


「亜希ちゃん、恥ずかしいってば」


「何よ何よ、昨日だって寄り道しようって言ったのに断られたし、今の私には姫成分が足りてないのよ」


 そう言って笑うポニーテールの女生徒。

 隣の席の、勝山亜希だった。


「しかし姫、相変わらずサラサラの髪ですなぁ。甘い香りもたまりませぬわ。都会の娘っ子だけあって、いいシャンプー使ってるんじゃのぉ。あ、今度私にも使わせてね」


「別にいいけど……と言うか、そろそろ離してくれないかな。一時間目の準備したいし」


「もうっ、姫ってば本当真面目なんだから。ここは田舎も田舎の高校なの。都会みたいにきっちりしなくていいんだから。適当でいいのよ、適当で」


「そんな訳ないでしょ」


 二人のやり取りを見ていた色白の女生徒が、そう言って丸めた教科書で亜希の頭を叩いた。


「おはよう、奈津子」


「玲子ちゃん、おはよう。助かったよ」


「転校してきたばかりだからって、奈津子も気を使わなくていいからね。迷惑な物は迷惑だって、はっきり言っていいから」


「えー、玲子ってば、ひーどーいー」


 そう言って口をとがらせる亜希を見て、奈津子も玲子も笑った。


 和泉玲子。勝山亜希の幼馴染で、面倒見のいいクラスメイト。このクラスの委員長だ。





「南條……奈津子です。よろしくお願いします」


 転校初日。

 大阪から越してきた奈津子に、周囲は興味深々だった。

 しかし入学して半年が過ぎ、ある程度人間関係が出来上がっていた中、奈津子に声を掛けづらい空気になっていた。

 しかも奈津子は、10日前に事故で両親を亡くしている。

 小さな村社会、彼女の噂は既に広まっていた。

 変化の乏しい学校に、突如いわくつきの女生徒が入って来たのだ。

 興味はあるが、そんな奈津子に声をかけようとする生徒はいなかった。


 その空気を壊したのが、隣の席の勝山亜希だった。


「ねえねえ南條さん、大阪から来たんだよね」


 亜希の言葉に、教室の空気が張りつめた。


「大阪からこんな田舎って、やっぱ不便なんじゃない?」


「あ、いえ、その……まだよく分からない、かな」


「そうなんだー。でもでも、ほんっと不便だからね。遊ぶところもないし、お店だって少ないし。と言うか、7時になったら閉まってるし」


「おいおい勝山、来たばかりの南條を不安にさせてどうする。大丈夫だぞ南條、確かに店は少ないけど、ネット通販は出来るからな」


「先生、それ何のフォローにもなってませんから」


「そうか? 結構便利だと思ってるんだが」


「都会育ちと一緒にしないでくださいよ。大体ここら辺って、コンビニもないんですからね」


「コンビニはないけど、スーパーはあるじゃないか。池田商店」


「はぁ~、駄目だこりゃ」


 そんな教師と亜希のやり取りに、クラスメイトたちも次第に声を上げだした。


「田舎だよ、田舎」


「夜歩くのも命がけだしな。猪とか出るし」


「私も卒業したら、都会に行きたいなぁ」


「南條さんのいた所って、どんな感じだったの?」


「大阪弁、大阪弁で喋ってみて」


「え……あの、その……」


「ほらほら、そんなグイグイ入ってこないの。南條さんはあんたたちみたいに、がさつじゃないんだからね。例えるならそう、山道にひっそりとたたずんでいる一輪の気高き花、なんだから」


「どんな例えだよ、それ」


 次第に賑やかになっていく教室。

 いつの間にか奈津子を巻き込んで、みんなが笑顔になっていた。



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