最終話 月明かりの下で「月がきれいですねと言え」とせまられたときのこたえを考える


「なかなか楽しかったねぇ!」


 先パイの行きつ戻りつにつきあわされて、結局何時間も水族館ですごしたあと、そとに出るとすっかり暗くなっていた。


 少し座って休みたかったので、近くのビルにある、屋上庭園のベンチに先パイをさそった。


「ふーん、けっこう雰囲気いいねぇ」


 先パイはきょろきょろとまわりを見わたした。


 芝生や木々をほの明るい街灯が照らし、人工的な雰囲気はぬぐいきれないものの、目に入る緑が多いことで都会的なさわがしさがうすれる。

 公園に行くよりは人も少なく、穴場といえた。


 空を見ると、まんまるの満月が、小さくあわく、中心とはとてもいえない中途半端な高さで、都会の光のなかにうもれている。


「ねぇ、楓くんさー」


 めずらしく、しばらくしゃべらずにいた先パイが、ふと口をひらく。


「クラゲ、好きなんじゃない?」


「……クラゲですか?」


「そう。私が4回目にチンアナゴ見に行ったときさ、別れて見てたら、きみクラゲのとこいたでしょう。最初に歩いたときもゆっくりになってたし、少し、目がかがやいてたよ」


「……そうですかね」


 言われて、たしかに、きらいではないけどとクラゲのことを思い出す。


 水槽という密閉された空間にいるのに、ふわふわと、自由にただよって、光を反射してきらめく。

 内臓もなにもかも透けて、少しグロテスクにも見えるのに、どこか神々しい。


 そうなのかなと思った。

 胸の内側で、心臓が、いつもより少し大きく主張をする。


「好きな本の話をするときもさ、早口になってうんちく垂れるでしょう。きょう買った本の表紙の話とか、『火星バカ一代記』だっけ? 読んでおもしろかった本の話をするときもさ、私はむかしのSFぜんぜんわかんないけど楽しそうに話してたよ。うんちくは時と場合を考えたほうがいいと思うけど、私は、そういうときのきみのほうが、いいと思うな」


「『火星年代記』ですね。火星でバカが一代で滅んだ記録があるならそれはそれで読んでみたいですけど、うろおぼえにもほどがあります」


「そうそう、そういう生意気な受けこたえをするときもね」先パイはニカッと笑った。「スカしてるときより、いいと思うよ」


 座ったまま、太ももにひじを置いて、組んだ指のなかに鼻を、口をおさめる。

 自分の胸のなかの特別な感情に、問いかける。


 どう伝えたらいいのか、わからなくなる。


「先パイ」


 からっぽで、うすっぺらだから、しかたないかとあきらめる。


「好きです」


 考えながら、愚鈍に、少しずつしゃべる。


「このまえの、言わされてるとかじゃなくて、その、自分から言ったことがないんで、なんて言ったら伝わるのかわかんないんですけど――」


「ふへへ」


 先パイが照れくさそうに笑った。


「楓くん」


 笑って、空をあおぐ。


「月が、きれいだね」


「?」


 言われて、あらためて月を見てみる。


「ああ、満月ですね。まわりが明るいんでちょっとぼやけてますけど」


「えっ、知らんの?」


「なにがですか?」


「月がきれいですね」


「? はい、まあ、きれいですね」


「ちょっと、『月がきれいですね』って言ってみて」


「? 月がきれいですね」


「ちがーう心のこめかたがちがう! 心をこめて、うたうように、『月がきれいですね』と言え」


「それなんなんですか、心こめてますよ」


「I love you よ」


「え?」


「I love you を訳すと、『月がきれいですね』になるのよ」


「なりませんよ」


「なるのよ。だから、心をこめて、『月がきれいですね』と言え」


「愛してる」


 世間に流通していることばのほうが、恥ずかしがらずに口に出せた。

 自分のことばが、自分自身が「浮いてしまう」ということがないから。

 ただ先パイはそれを聞いて「ふはっ」と恥ずかしそうに笑った。


「ありがとう。でもちがうのよ。それなら、きみなりの I love you が聞きたい。『月がきれいですね』でも『死んでもいいわ』でも、『きみをしあわせにする』でも『いっしょにしあわせになろう』でも、なにも言わずに手をにぎることでも抱きしめることでも髪をなでることでも、遠くから祈ることでも、ひざのうえで眠ることでも、なんでもいい」


 先パイは、月を頭上にいただいて、光りかがやく。


「私は、ただ、きみのことが知りたい」


 先パイの大きなひとみから、目がはなせない。


「きみの口から、行動から出たきみのことばを、自分の心に焼きつけたい」


 ぼくはおそれた。


 自分のことばを出して、自分自身をさらして、笑われたらどうする。

 嘲笑されたら。

 あきれられたら。


 失敗したくない。

 自分自身をさらして傷つけられるのは、ただカッターで肌を肉を切りつけられるよりも、もっと傷を負う。


 のどがカラカラにかわいて、あえぐように口をひらく。


 ――自分のことを誇ってほしい。


 先パイの、声がよみがえった。


 ――ただ、きみのことが知りたい。


 先パイが、ぼくのことを見ている。


 まっすぐに、少し口もとをゆるめて、ぼんやりとあわく光ってぼくのことを見ている。


 ――先パイは、ぜったいに、ぼくを否定したりしない。


「と、そのまえに」


 口をひらこうとしたところで、先パイがこほりと軽く咳ばらいをする。


「私の返事、ちゃんと伝わってなかったね。人に聞くまえに、自分の胸襟きょうきんをひらくのがスジだ。私の『月がきれいですね』は、えーと、どうしようかな」


 先パイはまよったあと少し息を吸って、思いきり破顔はがんすると、いきおいよくぼくに飛びついてきた。


「……私も好きだぁ!」


 シンプルにさけんで、力強くぼくを抱きしめる。

 耳もとで、脳をとろけさせるような声で、ささやいた。


「ハグしてるときってさ、完全に、無防備じゃない。かんたんに首をかき切られて死んじゃってもおかしくない。だから、こうして思いを伝えてハグをして、『あなたになら殺されてもいい』ってそういう覚悟を示す。それが私の『月がきれいですね』」


 これまでに感じたことのないほど、どきどきと、先パイに呼応するような力強さで心臓が脈うつ。


 手が、ふるえた。

 おさえるように、先パイの髪に、背なかに手をそえる。


「先パイ」


 ぎゅっと抱きかえしてから、一度顔をあげる。

 明らかなまるい月が、流れくる雲にかくれようとしている。


 伝わらないかもしれない。

 笑われてしまうかもしれない。


 そう思いながら、少しだけからだを離して、すぐそばにある先パイのひとみを見つめた。

 そのまんまるい瞳孔の奥ゆきに吸いこまれるように、ふるえるくちびるから、自分のことばをおし出す。


「だれよりもきみのことが特別だ。いま、だれよりもきみのことが特別だ」


 先パイは、世界中の幸福をあつめたような顔をして、笑った。


 もう一度強く抱きしめる。

 そのまま目をあげると、月はうすい雲にかくれてしまっていた。

 またひたるように目をつむる。先パイの笑顔が、まぶたの裏にいつまでも消えずに焼きついている。

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「月がきれいですね」と言え #先輩と後輩 七谷こへ @56and16

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