第3話 表紙の全裸女性のイラストについて必死に弁明するがスルーされる


かえでくん楓くんほらほらチンアナゴ、チンアナゴチンアナゴだよチンアナゴ」


「女子がチンアナゴを連呼しないでください」


「いいじゃないか、おっぱいまるだしの本買ってたくせに!」


「ちょっと、誤解をまねくでしょ!」


 あわててまわりを見まわす。

 先パイと、先日の約束をはたすためにいっしょに本屋へ行った帰り、なにげなく「そういえばこの近くの水族館、好きで何回か来てるんですよ」という話を出すと、先パイがおどろくほどの強さで食いついてきたのだった。


「水族館、超ひさしぶりなんだけど! 行きたい行きたい行きたい」


 到着するや、先パイは大はしゃぎで、でも声が大きくなりすぎないよう気をつけながら水槽を見てまわった。

 ぼくは、先パイに買うところを目撃された書籍の正当性を主張するため、先パイにこんこんと申し伝える。


「いいですか、あの表紙の絵は有名ゲームのキャラクターデザインもされてた著名な画家の方が描かれたもので、たしかに全裸の女性がえがかれてますけどそれはアートのひとつとしてとらえるべきものであって」


「うははははこの黄色いカエルかわいい!」


「……聞いてもらえます?」


 先パイは足をガバッとひらいて、展示の窓ガラスを下からおそるおそるのぞきこみ、天井近くに張りついているカエルを見つけて歓声をあげた。


 先パイといっしょにいると、ペースをみだされる。

 自分の思うように、いかなくなる。

 でも不快感を感じたことはなくて、そういうところを、特別に感じているのかもしれないと思う。


 うちの高校には、全員がなんらかの部活動にはいるようにというめんどうなルールがあって、本も好きだったし、できるかぎり活動しなくていいようにと、文芸部をえらんだ。

 そこで出会ったのが1歳上の先パイで、最初はさわがしい人だなと距離をおいていたが、だんだんと話すようになって、1年も経つころには、そのさわがしさがいやでなくなった。


 先パイが来そうな日に、部活をのぞくようになった。


 先パイがいる日は、勝手にとなりに席を占めるようになった。


 先パイとつきあってみたらおもしろそうだなと思ったが、これまで自分から告白したことがなかったので、少し腰が引けてしまうところがあった。

 それに、つきあったら、きっと特別な存在ではなくなってしまうんだろうという予感があった。ちょうどいい距離感だから、幻想をのように思っていられる。

 近づけば、いつか、別れがくる。


 これまでの恋人たちと同じように。


 だったら、アプローチをするにしても、先パイが卒業するまえぐらいにしておいたほうが、別れたあとの心配をしなくて済むと考えていた。

 それなのに気づいたらこんなところにふたりでいるのだから、ふしぎだなと思う。


「ねぇねぇ、私この子好き!」


 先パイが、水槽にいるハゼを指さして言う。


 指の長さぐらいの小さな魚で、しましまの模様をしており、ピョンピョンとひれを器用に動かして砂と水とを行き来する。

 行き来するだけでなく、魚のくせに砂のうえでしばらくくつろいだりもしており、乾いてしまうんじゃないかと勝手に心配になった。


 よく見ると、少しまぬけな顔もしていて、言われてみるとたしかにかわいいなと思う。


「楓くんは、なにが好きなの?」


 先パイが、うえからのぞきこむぼくを見あげながら、質問する。


「ぼくですか?」


 なんとなく、水族館の雰囲気が好きではあるのだが、訊かれてみると具体的になにが好きというのは考えたことがなかった。


「ああ、あれですね……」


 ぐるりとまわりを見渡し、てきとうに目についた魚の名まえを挙げようとしている自分を自覚した。

 それがいつもの自分ではあるのだが、先パイに対して、不誠実なんじゃないかとふと気がとがめる。


「水族館の、どゆとこが好きなの?」


 さっとこたえの出てこないぼくに気をつかってくれたのか、先パイが質問を変える。


「水族館の?」


「そ。ここ好きで、って言ってたでしょさっき」


「そうですね……」


 ふだんのやりとりに詰まることは少ないのに、こんなたわいない質問にきゅうする自分が理解できず、早口で頭に浮かんだこたえをそのまま口に出す。


「ほら、動物園よりにおいもないから、きらいって言われにくいし、カエルとかは多少好ききらい分かれますけど、ペンギンとかアシカとかかわいい生きものも多いから、わりとよろこばれるし、街歩きの延長で来れるから、女の子の服とかクツとかそこまで気にさせないで済むし、デートスポットのランキングでもわりと上位にきますし……」


「きみは?」


 先パイがじっとぼくを見つめて、訊いた。

 水に反射してゆらめく光が、先パイの顔を暗がりから不規則に浮かびあがらせる。


「楓くん自身は、水族館のどこが好きなの? いまのはぜんぶ、相手がどうかとか、評判がどうかの話でしょ。それとも、よく考えたら、そんなに好きじゃなかったの?」


「いや、好き……好きですよ。自分、そうですね、ほら、順番にいろいろなものを見ながら歩いていくから、それを話題に出していけば、よく知らない相手と来ても気まずくなりにくいし、暗いから、あんまり、顔とか外見を意識しなくても済むし……」


 ことばにした瞬間、自分がおそろしくうすっぺらな、紙きれほどの厚さしかない存在に感じられはじめた。

 自分が言った「好き」とはなんだったのか、自分にそう思い込ませていただけだったのか、足もとがゆれる。


 先パイは「うーん」と指をあごにあててうなった。


「ことばに、できてないだけじゃないのかな。なんとなくでも、好きと思ってるんなら、なにかありそうな気もするけど」


 と言ったあと、先パイは足を交差させて上半身をまげ、ぼくの顔をのぞきこむとさも楽しそうにニィィと口をゆるめた。


「それにしても、なに、そんなにデートで使ってるのここ? あらあら楓くんはおマセボーイでいらしたのね。生意気だ生意気だと思ってたら、私生活はそんなにもただれていただなんて」


「おマセボーイという語感のダサさをまず自覚したほうがいいと思いますよ」


「ほら生意気出ました! 生意気。生意気少年ボーイ!」


「少年とボーイがかぶってずいぶんエキセントリックな響きになってますけども」


 言いながら、いつものやりとりならスラスラとことばが出てきたことに、どこかほっとする自分を感じた。


 そのとき、「おにーさん!」という声とともに、服のすそをつかまれる。


 4~5歳くらいの女の子が、ムッツリとした表情でぼくのことを見あげていた。


「おにーさん!」


「え、あ、ぼく? えーと、だれかとまちがえてるのかな?」


「おにーさん、るいと、けっこんする」


 と言いながら、女の子はぼくの指をつまんだ。その感触と、「るい」という単語で、1年ぐらいまえにここで迷子になっていた子かと思い出す。


「ああ、るいちゃんか! パパは、きょうはいる?」


 とひざをまげ、目線をあわせてから訊いてみると、るいちゃんはふりかえって指をさした。

 お父さんが、るいちゃんとよく似た女の子の手をつなぎながら、人波にさえぎられて汗をかいている。


「るいっ……とつぜん走ったら、ダメだって……」


 お父さんがようようこちらへたどりつく。

 今回は迷子になっていたわけでもないし、かなりまえなのでお父さんは覚えていない可能性が高く、不審者にまちがわれたらまずいので先手を打っておこうと考える。


「こんにちは。すみません、ぼく、まえにここで迷子だったるいちゃんと……」


「お兄さん、ですよね」お父さんは、ひざに手をついて息をととのえながら、ぼくの弁明をさえぎる。「まえに、るいに声かけてくれた。うち、年パスあるんでよく来るんですけど、来るたびにるいが『おにーさんがいない』ってさわぐんで……」


「そうだったんですか」苦労のにじむお父さんに苦笑でこたえ、るいちゃんにはなるべくにこやかに笑いかける。「おぼえててくれて、うれしいよ。ありがと」


「おにーさん、けっこん」


「結婚はまだはやいかなー。そうだな、るいちゃんがこれぐらい」るいちゃんの頭上に腕をのばし、てのひらを水平に振る。「これぐらいおっきくなったら、また声かけて」


「どうしたらおっきくなる?」


「たくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん寝ることかなー」


「あした、なる」るいちゃんはおごそかにうなずいた。「たべる」


「まってるよ」あしたはムリでは、と思いつつ、意気込みに水をさすのもわるいので笑顔でこたえる。


 るいちゃんは、双子の妹だというれいちゃんと、お父さんに手をひかれて去っていった。

 かがんだまま、ひらひらと手をふると、るいちゃんが数歩ごとにこちらをふりかえるのでお父さんは大変そうだ。


 そのままとなりを見あげると、先パイも満面の笑みで手をふっていた。


「かわいい子だね。彼女?」


「つかまっちゃいますよ。いま彼女いませんし。たしか、1年ぐらいまえにここで迷子になって泣いてたので、声をかけた子です。スタッフさんにお願いしようと思ってたら、すぐお父さんがいらしたんでまったく意味なかったんですけど」


「えらいじゃん」


「そうですかね、一歩まちがえれば自分が通報されてたかもしれないし」ふだん思い出すことのない、元恋人の声が瞬間的に頭を占めた。「いまの時代、あんまり賢くなかったかなって」


「そうかな」


 先パイは腕を組んで、少し考えてから言った。


「きみは、どうしたかったの?」


「……ぼくですか?」


 また「ぼく」の話を訊かれたことで、なぜか、背なかにじんわりと汗がにじむのを感じる。


「そう。楓くんは、声をかけたほうがいいと思ったから、かけたんじゃないの」


「まあ、はい、そうです」


「きみは声をかけたほうがいいと思った。それで声をかけた。女の子は無事で、お父さんとまた会えた。これ以上ないくらい、すばらしい結果じゃないか」


 先パイはことばを区切る。


「……私の、お母さんの友達のお子さんでね、小さいころに私も何度か遊んだことのある男の子がいた。その子はある日、家族で出かけて、ほんの少し目をはなしたすきに、変質者に連れ去られて、もう、帰ってこなかった……私はただ話を聞いただけの他人でしかないのに、こういうところにひとりでいる子を見ると、その子のことを思い出す……自分にはなにかできなかったのかって。そのときにできたことなんてあるわけないのに、他人だから、その場になんにも関係しなかったから、安全圏から卑怯にもそんなことを考えることがある……」


 先パイは、その大きなまるっこいひとみを、これまで見たことのない暗い色にそめて少し伏せた。


「楓くんは、あの子をそんな被害から助けたのかもしれない。もちろん、そんなことは起きなかったのかもしれない。たしかにいまの時代、迷子に声をかけることで、通報されてしまうこともあるかもしれない。そこまではいかなくても、善意で声をかけたのに不審者扱いでどなられてしまうかもしれない。あらゆる『かもしれない』があるなかで、だから、そういう目にあわないように自衛することを、責める権利もまただれにもないように思う。でも」


 先パイがまた目をあげて、まっすぐに、やわらかな視線でぼくをつつむ。


「楓くんは、自分が声をかけたほうがいいと思って、それを実行して、なにも起きなかったのなら、自分のことを誇ってほしいと私は思うよ。いつも必ずそうしたほうがいいとか、そんなことはすべきじゃないとか、そんな大きな話じゃない。今回、楓くんが、自分で感じたことを実行して、たまたまいい結果になった。たまたまでいいじゃないか。今回に関しては、だれにも恥じることのない『なにもなかった』を、きみはひとつまもったんじゃないか」


 予想していなかったあたたかなことばに、うろたえるように、今度はぼくが目を伏せた。「いや、あの……ありがとうございます」のどがうまく動かず、思っていたより小声になってしまったことにおどろく。こんなことで、目の奥からなにか熱いものがこみあげてくるので、必死におさえた。どうして。


「よし!」


 少しだまっていた先パイが、とつぜん声をあげて思いきり笑う。


「もっかい、チンアナゴ見に行こう!」


 先パイはぼくの手をとって、来た道をもどり出した。


 ――そうか、進むだけじゃなくて、またもどってもいいんだ。


 そんなあたりまえのことに、いまさら気がつく。

 うすっぺらだと感じていた自分が、ほんの少し、厚みをとりもどしたような錯覚をおぼえる。

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