第2話 いきなり結婚をせまられるが諸条件がととのわず延期にする
「ねぇ、ちょっと好きって言ってみて」
元恋人は、満たされたような笑顔を見せながらこちらをふりむいて、耳もとでささやいた。
「こんなところで?」
デートで、水族館に来ていた。
まわりには、家族づれや、カップルなど、多くの人がいる。
ちらとまわりを見ながら、迷惑にならないかなと考える。
「いいから!」
彼女は
メイクできらきらと光った、切れ長の目をほそめる。ぼくの腕を引いて、顔を近づける。んっ? んっ? と言いながら耳に手をあてる。
「好きだよ」
しかたないなと、小声で彼女にささやいた。
水槽からは少しはなれたところで、暗く、けれどあざやかな青い光が、ぼくらのまわりをつつんでいた。
彼女は「キャー」とさけんで顔を手でおおうが、片腕はぼくの腕にからませたままだ。
目だけでちらとふりかえり、背後から男性ふたりが歩いてきているのを確認すると、「ほら、あそこのクラゲのエリア、光のかたまりみたいなのがふわふわ浮いてる。ちょっと近くで見てもいい?」と彼女に聞いて、そっと移動をうながす。
ぼくはなんとなく水族館が好きで、ただひとりで来るほどの熱量もないので、恋人がいるときは声をかけてここへ来ることが多かった。
都心の駅の近くにあるから、買いものやお茶のついでとして誘いやすい。
過去の恋人たちの反応はさまざまだった。
楽しそうにはしゃいでくれる子もいれば、カエルや四角い顔の魚を見て「ちょっとダメかも」と言う子もいた。
このときの彼女は、展示にはさほど興味がないようで、どちらかというとまわりの見に来ている人たちを「あそこのカップル、不釣り合いじゃない?」「あそこの子、もうちょっと服にワンポイントあればおしゃれになるのに」と評するのに熱心なようだった。
声をかけたときは「水族館大好き!」と言っていたので大丈夫かと思っていたが、たぶん気をつかって合わせてくれていたのだろう。
興味のないところに誘ってしまって申しわけなかったなと思いながら歩いていると、館内のゆるやかなカーブを曲がったところで、泣いている3歳ぐらいの女の子に行き合った。
「パパ、パパ……!」
絶叫のような泣き声をあげながら、合間に、お父さんをもとめる悲鳴を発していた。
近づきすぎないようにしつつ、ひざを曲げて床につけ、目線をその子に合わせてから、なるべく警戒させないようほほえむ。
「パパとはぐれちゃったの?」
女の子は不安そうに指をくわえると、少し泣きやんでコクリとうなずいた。
「じゃあ、おにいさんおねえさんといっしょにさがそっか」
にっこり笑ってそう言うと、女の子はまたコクリとちいさな頭をかたむけてうなずいた。
不安だったのか、おそるおそる、ぼくの指の先をつまむ。
へんに手をにぎって誤解をまねいてはいけないので、自分の手はひらいたまま、「だいじょうぶ、見つかるよ」ともういちど笑いかけた。
こういうとき、恋人といっしょにいると、まだまわりからあやしまれにくいので助かる。
高校生といえども男性ひとりだと、通報されてしまうのではとこわくなることもある。
彼女にも、こっそり「スタッフさん、近くにいるかな?」と聞くと、「え、ああ……どうかしら」と言ってまわりを見わたしてくれた。
自分も、ひざをついたまままわりを見てみる。もしかしたら、親御さんのほうもさがしていて、すぐに来てくれるかもしれない。
と思っていたら、先のほうで、「るいー!」と声をあげて一心不乱にまわりをさがしているお父さんらしき人がいた。
女の子に「パパかな?」と指を向けて確認すると、「パパー!」と大声を出して手をふる。メガネをかけたお父さんがこちらに気づいて、人ごみをよけながら汗をかきかき
見つかってよかったと、行こうとすると、女の子が指をはなしてくれない。
「す、す、すみません。この子が寝ちゃったんでかかえてたら、いなくなってて」
お父さんの腕には、双子なのか、女の子と同じ年ぐらいのよく似た子が眠っていた。
「いえいえ、ちょうどいま声をかけたところで、すぐに見つかってよかったです。よかったね、るいちゃん? でいいのかな。お父さん見つかって」
「るい」るいちゃんはうなずくと、小さな指を4本たてながら、おごそかに言った。「さんさい」
「3歳か! えらいね、自己紹介できて。それで、あの、もうだいじょうぶだよね。指が、あのぅ……」
お父さんのほうに行くかと思いきや、指をにぎったまま不動の体勢をたもっているので、どうしたものかと困惑する。
「る、るい。お兄さん、こまっちゃうから、はなしなさい。お兄さんとお姉さんにありがとうして、行くよ」
「るい」るいちゃんはおごそかな表情のまま告げる。「おにさんと、けっこんする」
お父さんが雷撃に打たれたような顔でかたまる。ぼくもこまったが、またひざを曲げて、るいちゃんに目線を合わせる。
「ごめんね、おにいさん15歳だから、まだ結婚できないんだ。るいちゃんがもっともっと大きくなったときに、また声をかけてくれたらうれしいな」
「…………」
るいちゃんはこたえず、わかったのかわからないのかなんともいえない反応だったが、指ははなしてくれた。
悲しげな顔から復活しないお父さんと、いっしょに去っていくるいちゃんに小さく手をふって別れを告げる。
「見つかってよかったね」
ほっとして彼女にそう言うと、彼女は不満そうに腕を組んでいた。
「あんまり、賢くないよ。いまの時代、声をかけたほうが犯罪者だとまちがわれることもあるんだし、あんなに近くにいたんだからどうせすぐ見つかったでしょ」
すぐに見つかったのは結果論であって、遠くにはぐれてしまっていることもある。
自分がいま犯罪者じゃないことは、せめて自分は知っているんだから、万が一のことが起こるまえに声をかけたほうがいいんじゃないかと思った。
そういうことばが頭に浮かんだが、言えずに笑って「たしかにそうだね、ごめん」とこたえた。
こういうとき、笑う以外に、どう反応したらいいのかわからない自分を、愚鈍だなと思った。
彼女は、またぼくの手をとって自分の腕をからめた。
「それに、いまは私とのデート中! 何歳だろうと、私以外の女の子に気をとられちゃうのはヤダな。
いきおいよく言ってから、彼女は「言っちゃった言っちゃった」と小声で恥ずかしがった。
彼女は、べつの高校に通う同学年の子だが、登下校のとき同じ電車にのっているぼくを何度か見かけたらしく、声をかけてきてくれた。
そのときの、目もあわせられない緊張しきったようすを、とてもかわいらしいなと思ったし、そのときつきあっている恋人もいなかったから、わたされた連絡先に電話をかけて、とりあえずデートに出かけて、つきあいはじめた。
つきあいはじめたときは、たしかに彼女は、他人よりも特別な存在だった。
「好きだよ」と伝えることにも、抵抗はなかった。気もちのままに「きみを特別だと思ってるよ」なんて
みんなはよろこんだ。
なのに、少し時間がたつと、いつか自分のなかで彼女たちは特別でなくなってしまう。
「好きだよ」とは言えるのに、胸の中心にあった特別な気もちが、うすれて煙みたいに消えていく。
いまも、彼女を特別と思う気もちが、うすれていくのを感じていた。
「ねぇ、もう一回好きって言って!」
彼女は、また楽しそうに笑って要求をした。
「好きだよ」
ぼくは口角を少しだけあげて、声をひそめて言った。
彼女とは、この日から一カ月もしないうちに別れた。
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