天才魔法学院生(♀)は惚れ魔法を作って幼なじみを振り向かせたい!

幽焼け

天才魔法学院生(♀)は惚れ魔法を作って幼なじみを振り向かせたい!

「今回の魔法も素晴らしい。魔法板は用意していただけましたかな?」


 私は、そう尋ねる小太りでヒゲの中年男性……ドルイド先生に一枚の板を差し出す。

 新しく作った魔法が記録された魔法板まほうばんだ。


「確かに受け取りました。本当にクレアは才能に溢れておいでですな!」


 そう言って頭を下げてくるのは、私の担任のだ。

 ドルイド先生は私のことを”先生” と呼んだが、私は先生ではない。

 このアルベル魔法学院高等部の二年生……つまりは一介の生徒である。


 ではなぜ、教員であるドルイド先生が私のことを”先生”などと呼ぶのかと言えば、理由は簡単だ。


「これでクレア先生が世に送り出した新しい魔法は三十を越えるのではないですかな? 新しい魔法を作り出すのは至難の業……凄まじい功績だ」


 私が学院生となってから新しい魔法を次々と生み出して発表していたからだ。


 魔法とは体内の魔力を使って奇跡を発現させる術のことである。

 誰でも使えるものではあるのだが、魔法は才能によるところが大きい。

 魔力のコントロールや発現させたいもののビジョン……自分で言うのも何だが、私はどうやらその才能を持っていたようだ。

 そして、なにより”新しい魔法を作り出す才能”もあったらしい。


 学院生になる前から魔法の研究に明け暮れていた私は、学院生となった今、多くの魔法を作り出していた。

 もちろん、一般的に新しい魔法を作るのは簡単ではない。

 だからこそ、私の功績は多くの人の知るところとなり、教員ですらも”先生”などと呼ぶようになってしまったのだ。


「ドルイド先生、もういいでしょうか。私は研究に集中したいので」

「おお、これはすまなかった。これからもよろしく頼みますよ、クレア先生」


 そう言って、ドルイド先生は部屋から出ていく。


「……はぁー」


 思わずため息が出てしまった。

 ドルイド先生が嫌いなわけではないが、どうも人と話すのは苦手だ。


「別に、私も新しい魔法を作りたくて作ってるわけじゃないんだけどなぁ……」


 そう、私は数々の魔法を作り出してきたが、それは望んでやったことじゃない。

 もちろん今回ドルイド先生に渡した「植物の成長を促す魔法」も、作りたくて作ったわけじゃない。


 私には、ある特定の作りたい魔法があるのだ。


「一体どうやったらできるんだろう……『惚れ魔法』は」


 私が作りたい魔法……それは昔からただひとつだけ。

 相手を自分に惚れさせる魔法。


 これまで私は「物質の硬度を上げる魔法」だの「眠らせる魔法」だのを発表してきたが、それらはすべて惚れ魔法を作ろうとした失敗作にすぎない。

 周囲の人間はその失敗作を見てずいぶんと私を持ち上げてくるが、私にしてみれば滑稽だ。

 一番作りたい魔法を作れていないのだから。


 そんなことを考えていると、部屋の扉がガチャリと開いた。


「クレア、先に来てたのか」

「キ……キミか」


 入って来たのは一人の男子学生……私の幼なじみのキリーだった。

 私より高い背丈、細身だが筋肉質な体つきに、短く整えられた茶色の髪。

 今日もカッコいい……


 はっ、いけない。


 何を隠そう、私が惚れ魔法をかけたい相手というのがこのキリーだ。


 向こうは私に気がないようだが、惚れ魔法を完成させてしまえば関係ない。

 こう言うのも恥ずかしいが、私はキリーを惚れさせるためだけに魔法の研究を続けていた。


「今日の部活はなにやるんだ?」

「手伝いが必要になったら呼ぶから、今は自由でいいよ」

「わかった」


 そう言ってキリーはこの部屋にあるもう一つの机へと向かう。


 この部屋は私とキリーが所属している部活動、”魔法研究部”の部室だ。

 様々な道具が用意され、かなりの広さがある。

 おそらく、ここまで大きい部屋と設備を用意してもらっている部活は他にないだろう。

 しかも、部長が私で部員がキリーの一人だけ、という小規模な部活である。

 これらの特例が認められているのは、私の功績によるところが大きい。


 無論、別に部員を受け付けていないわけではないのだが、私は人見知りだし喋るのは得意ではない。

 加えて、「惚れ魔法を作ろうとした失敗作で新しい魔法を作ってます」なんて他の人に言えるわけがない。

 そのため、入ってきた学生は研究についてこられずに抜けていってしまうのである。

 結果として、キリーだけが残った。


 ……それにしても、キリーはどうしてこの部活に残ったんだろうか。

 お世辞にもキリーは魔法が得意とはいえないはずだ。

 魔法学院に来ること自体が割と不思議だった。


 私からすれば、好きな相手が近くにいるというのは嬉しいし、魔法の研究にも色々協力してもらっていてありがたい。

 もちろん、惚れ魔法を作ろうとしていることは隠しているけれど。


「……さて、集中してやらないとね」


 私は気を取り直して、目の前に置かれた魔法用の実験道具をガチャガチャといじる。

 魔法の研究には様々なアプローチがあるから、多くの実験道具が置かれていた。


 今日の実験はガラス瓶の中の石への働きかけだ。

 目の前に固定されたガラス瓶の中には透明の液体が満たされ、中には青い小さな石が入っている。

 ここで使っている液体や石は魔力を伝導しやすい性質があり、魔法を使用してその変化を見ていくのである。


 私はキリーに聞こえないような小さな声でぶつぶつと呟く。


「そもそも惚れさせるためには、人体のどこに働きかければ良いんだろう……? やっぱり、心なのかな……。だとしたら、この石を心だと見立てて……」


 ガラス瓶の中に入っている石をキリーの心に見立てる。

 では、一体ここにどんな変化を加えたら相手に対する好意を増すことができるのか。


「やっぱり情熱……? だとしたら、暖かくなるイメージで……」


 私は手をガラス瓶に添えながら、ゆっくりとイメージを強めていく。

 魔法を使う際には起こしたい現象のイメージが何よりも大切だ。


 じっくりと石に情熱を送り込むイメージを強めていると、そこで不意にガラス瓶に自分の姿が反射して映っていることに気づいた。


 ボサボサで地味な長い黒い髪。

 至る所がはねてしまっていて不格好だ。

 その上、長らく切っていないから前髪は目にかかってしまっている。


「う……」


 それを見た途端、急に不安がこみ上げてくる。


 仮に惚れ魔法が完成したとして、こんな見た目じゃ惚れ魔法すらお手上げなんじゃないだろうか……?


 基本的に無から有を作り出すのは難しい。

 キリーが私に対してほんの少しでも好意を抱いてくれていれば、それを増幅するのは魔法でできるかもしれない。

 しかし、もしもキリーが欠片ほどの好意すら私に抱いていなかったら……?


 特に、キリーが恋愛なんか始めようものなら……


 一度そういうことを考えてしまうと止まらないもので、関係ない悪いことまで思いついてしまう。


 私はクラスにも馴染めていない。

 特にこの一帯では有名な資産家の一人娘であるセルジアなんて顕著だ。

 ことあるごとに「貧乏人がワタクシの視界に入らないでくださる?」とか「あの先生の態度……身体を使って買収でもしたのではなくて?」とか、悪口を言ってくる。


 それもこれも、ブサイクでうまく喋れない私がいけないんだ……

 …………

 ……


「クレア? ……クレア?」


 はっ。

 声のした方向にあわてて振り向く。

 気づけば、キリーに話しかけられていた。


「えっ、なに?」

「いや、声をかけたけど反応がないから気になってな」

「ああ、いや、大丈夫。ちょっと集中してただけだから」

「そうか……それにしても、その様子だとまた新しい魔法を作ったのか?」

「え?」


 そう言われてガラス瓶に視線を戻せば、なんと、ガラス瓶の中が真っ黒になっていた。

 中に入っていたのは水のはずだが、墨のように真っ黒で全く奥が見えない。


「オレもがんばらねぇとな」


 そう言ってキリーは実験に戻っていく。


「……はぁ」


 また、失敗だ。

 惚れ魔法を作ろうとしたはずなのに、雑念が入ってしまった。

 今度はどんな魔法を作ってしまったんだろうか。


 ……結論から言うと、この魔法は「闇を作り出す魔法」だった。

 一体何に使うのかは分からないが、これも新魔法だ。

 この魔法を魔法板に記録して、私はこの日の活動を終えることにした。


*


 数日が経った。


 ザーーーー。


 私は教室の自分の席に座りながら、おもむろに窓の外を覗く。

 灰色の空からは地面を叩くような強い雨が降り注いでいた。


 雨月の訪れだ。

 雨月と言われるこの月は、季節として知られている。

 それだけではない。


 一年の中でこの時期だけはすべての人の魔法の力が弱まってしまう。

 一説によれば、厚い雲が空を覆ってしまうことで、魔法の神様の加護が届かなくなるからだと言われている。


 魔法くらいしか取り柄がない私からすると、憂鬱な季節だ。

 髪の毛もいつにもましてボサボサになるし……

 いつもやっている部活も、弱い魔力ですむ魔法薬の研究にシフトしなくてはいけない。


「なにボーっと外を見ているのかしら。あなたがいると教室の空気が悪くなりましてよ」


 振り向けば、そこにいたのはセルジアだ。

 金髪ウェーブで美しい顔立ち……まさに高飛車なお嬢様といった彼女は、相変わらず私を目の敵にしてくるようである。


「ご、ごめんなさい……」

「謝るくらいなら教室から出ていってくれればいいものを」


 そう言うと、セルジアは席に戻っていく。


 今は授業の合間の休憩時間だ。

 ボーっと外でも眺めていたかったが、仕方がない。

 私はもやもやとした気持ちを抱えながらも、席を立つと特に用事はないが廊下へと出ていく。


 すると、そんな私に話しかけてくる人物が居た。


「お、クレアか」

「キ……キミか」


 偶然にも、廊下にはキリーがいた。

 隣のクラスなので、いてもおかしくはないのだが。


 見れば、キリーは両手で大量に積まれた本を抱えていた。

 かなり重そうだ。


「ん、これか? 先生に職員室まで運ぶように頼まれちゃってな」

「じゃあ、手伝おうか?」

「いいよいいよ。これでも身体は鍛えてるんだ」


 そう言って笑うキリーはやはりカッコいい。

 確かに、力のない私では手伝ってもかえってキリーの邪魔になるだけだろう。


「じゃあ、また部活でな」

「う、うん」


 そう言ってキリーは去っていってしまった。

 しかし、キリーのおかげで私の心の中のもやもやもどっかに行ったようだ。

 よし、この後の授業も頑張ろう!


*


 ……それからしばらく、特に変わったことは起こらなかった。

 授業を受け、部活を行って帰宅する。


 魔法が弱まる時期である分、私は魔法薬の研究を主軸に切り替え、それでもいくつかの新たな効果を持った魔法薬の生成に成功していた。

 まぁ、私からすれば失敗なので、どちらにしても早く雨月が終わってほしい。


 もうすぐ雨月は終わってくれるだろうか?

 年によって雨月の続く期間はまちまちだ。

 最大で五十日ほどのズレがあるとも言われている。

 明日にも終わるかもしれないし、まだまだ終わらない可能性もあった。


「うーーーん……はぁ……」


 ゆっくりと伸びをして息を吐く。

 今日も授業が終わり、一段落ついた。

 いくら魔法が得意と言っても、座学が得意とは限らない。

 その日の授業が終われば、なかなかの解放感があるものだ。


 その日授業で使った教材などをキレイに整理して机にしまう。

 よし、部活に行こう。


 そう思って廊下に出たときだった。


「……あれは……」


 ふと廊下の奥に目をやると、キリーが角を曲がっていくのが見えるではないか。

 しかし、あの先は部室などではない。

 いや、むしろあの奥は空き教室と物置しかなかったはず。


 キリーがどこに行くのか気になり、その後を追うことにする。


「あれ……」


 角を曲がると、その先に曲がり道はないはずだがキリーの姿はなかった。

 どこかの部屋に入ったということだろうか?


 そのとき、誰かが喋っている後が聞こえる。

 遠くてまだ内容までは聞こえないが、たしかにこの先から聞こえているようだ。


「ここかな……?」


 ゆっくりと声が大きくなる方向に進んでいくと、一つの空き教室のドアが少しだけ開いている。

 声はその中から聞こえていた。


 キリーの後をつけたことがバレるのも嫌だったので、私はドアの隙間からそっと中を覗いてみた。


「……え?」


 そこにいたのは意外な組み合わせ。

 キリーと、あのセルジアであった。

 隙間は小さくてよく見えないが、間違いないだろう。


 今度は、耳をあてて中の会話を聞くことにした。


「それで、話ってなんですか?」

「キリーさん、私のことは存じておりますよね?」

「ええと……セルジアさんですよね」

「そのとおりですわ。それで、キリーさん、あなたは縁談に興味がおありかしら?」

「縁談……?」

「ええ、つまりはワタクシとの婚約……ということですわ」

 

 目の前がぐにゃりとした。


 学院で卒業後のパートナーを見つける人は多いと聞く。

 特に、身分の高い人にとっては政治的な意味合いも強く、重要な場だ。

 無論、このアルベル魔法学院はそこまで上流階級御用達というわけではないが、それでも結婚相手を見つけるという人も多いだろう。


 キリーはお金持ちというわけではないが、由緒ある家系の出身だったはずだ。

 私は考えないようにしてきたが、キリーに話がいくというのも不思議ではない。


「そういうお話でしたか」

「ええ、お返事を聞かせてもらえるかしら?」

「……」


 キリーが少しの沈黙のあとに答えを返す。


「少し、考えせてください」


 私の心を暗い影が覆っていく。


 声色からは読み取れないが、キリーが断る理由はほとんどないように思えた。

 確かにセルジアの性格は少しキツいかもしれないが、顔は良くてスタイルも抜群である。

 授業の成績もかなり上の方だ。

 それに加えて家はお金持ちときたら、セルジアから声がかかる幸運を断る人などいないように思えた。


 そもそも、考えると返答したということは、少なくともこの提案を検討する余地があるということだ。

 キリーだって前向きに考えるに違いない。


 人と人というのは、仮に最初は互いのことをなんとも思っていなくても、一緒にいる時間が長くなれば特別な思いを抱いてくるものだ。

 そうなってしまえば、惚れ魔法も効果をなさないだろう。


 それに、さすがに私だって、キリーが婚約するというのであれば惚れ魔法をかけるわけにはいかなかった。

 そもそも惚れ魔法自体どうなんだという気もするが、それくらいの分別はつく。


「ワタクシも、ここですぐにとは言いませんわ。色々と詳しいお話もしたいですしね」


 私は二人の話が終わりそうだったので、早足でその場をあとにする。


 ただ、足を動かしてこの場からいなくならなくては、と思っていた。

 なんとか足を動かしてはいるが、極度に緊張したような感覚に囚われ、冷静に思考する余裕がまったくない。

 悲しいとか、そういうわけではないはずなのだが、なぜか目からは涙が溢れてくる。

 とにかく、考えがまとまらない。

 ただ、歩く。


 そうして、私がたどり着いたのは部室だった。

 放課後にいつも部室に行っていたからだろう。

 特に部室に行くと考えていたわけではなくてもたどり着いた。


 ドアを開けて、自分の席に腰掛ける。

 いつものように実験道具をいじり始める。

 惚れ魔法を作るための実験は、学院に来てから何度もやっていた。

 もはや手癖のようなものだ。


 依然として考えはまとまらないが、ただ漠然と恐怖があった。

 自分が何を恐れているのかもわからないが、心が真っ黒であることだけは分かる。


「ふー……」


 乱れる息を整えて、心を鎮めていく。

 ようやく、少しだけ考える余裕ができてきた。


 私の心の中にある恐怖。

 それは、キリーが遠くへ行ってしまうのではないか、という恐怖だ。


 キリーとは幼い頃からずっと一緒だった。

 私は昔からどんくさかったけど、キリーは昔からなんでも上手くやった。


 木に登って降りられなくなった私を助けてくれたり、ちょっとした穴に落ちて泣いている私に手を差し伸べてくれたり。

 私にとってキリーはヒーローみたいな存在だった。


 それでも、昔のキリーはもっと乱暴だった。

 喧嘩をしたことも何回もある。

 何かにつけて私のことを馬鹿にしてきたし、悪口も言ってきた。


 実を言えば、私が惚れ魔法にこだわっているのも、その悪口の一つが原因だ。

 「お前のことなんて誰も好きにならねーよ、ブース!」と、幼いキリーは私に言った。

 その言葉を聞いた私は、最初は傷ついたが、絶対にその言葉を後悔させてやると誓ったのだ。

 容姿がイマイチだというのなら魔法で分からせてやる、と惚れ魔法の研究を始めた。


 キリーと縁を切ることだってできたかもしれないが、私はその道を選んだ。

 だって、キリーのことが好きだったから。


 好きなものはしょうがないじゃないか。

 この気持ちに抗えるものか。


「そうだ……キリーがセルジアに返答する前に、惚れ魔法を完成させればいいんだ」


 これまで失敗続きだった研究だけど、今が最後のチャンスだ。

 雨月の間は研究が進みづらい。

 それでも……なんとかして魔法薬を完成させる……!


 幸いにも明日は学院が休みである。

 どれだけ研究しても明日に差し支えることはない。

 集中しろ。


 私はこれまでの人生で一番と言えるほどに、全身全霊をもって魔法の実験を開始したのだった。


*


 深く息を吐く。

 固く縛っていた紐を緩めるように、全身を弛緩させた。


 ザーーーーー。


 集中して聞こえていなかった雨の音が、大きく聞こえ始める。

 一体どれだけの時間が経っただろうか。

 夜通し研究を続けていたのは間違いない。


 ふと窓の外に目をやれば、雨のせいで暗くはあるが、すでに少し明るんでいた。


「……できたんだ」


 私の前に置かれているのは一本の小瓶。

 その中は淡紅色うすべにいろの液体で満たされている。


 これこそが、ついに完成させた惚れ魔法薬。

 相手の精神に直接作用し、自分に対する好意を増幅させる……

 雨月で思うように魔法が使えない中で、どうにかして完成させた一本だった。


「……帰ろう」


 本当はもっと喜びを全身で表すべきなのかもしれないが、なにぶん全身が疲労でくたくただ。

 魔法の研究は身体的な動きを伴わない代わりに、ごっそりと集中力を持っていかれる。

 一晩中やっていたのだから、もうフラフラの状態だった。

 喜ぶ気力すら残っていない。


 もちろん、できる限り早くキリーにこれを飲ませたい。

 しかし、キリーにこれを飲ませるとしたら部活のタイミングだ。

 新しい魔法薬の実験と言えば、キリーは協力してくれるだろう。


 今日と明日は学院が休みだから、決行は明後日になる。


 私は大切な魔法薬をポケットに入れ、よろよろと帰る支度を整えるのであった。


*


「うう……傘すら重い……」


 自分の体の弱さに嫌になる。

 魔法の研究では体力はつかないし、体も鍛えられない。


 徹夜で研究していた影響も大きいが、傘を持つ手にすら力が入らなかった。


 でも、まだ家までの道のりの半分ほどしか進んでいない。

 とにかく重い足を前に出し続けた。


「オイ、止まれ」


 不意に、近くで声がした。

 とにかく歩くことに集中していた意識が引き戻される。


「聞こえてるよな。止まれと言ったんだ」


 声のした方向を向くと、そこにいたのは覆面で顔を隠した男だった。

 体格はよく、私よりもかなり身長が高い。


 全く気づいていなかったが、すでに数メートルほどの位置まで来ていた。


「ひっ」


 その男の手にはナイフ。

 先端をこちらに向けている。


「なぁに、暴れたりしなければお前を傷つけたりはしないさ」

「な、なんなんですか……」

「お前はクレア・アルトマイルであっているな?」

「……は、はい」

「俺と一緒に来てもらおうか」


 男はそう言ってゆっくりと距離を詰めてくる。

 私はそれが怖くて、一歩あとずさりした。


「おいおい、大人しくしてくれ」

「も、目的はなんなんですか」

「別に殺そうっていうんじゃねぇよ。とにかく、一緒に来い!」


 そう言って、男がこちらに向かって歩を進める。


 こっちに来る……!

 逃げないと……!


「わああああああああ!!!!!!」


 怖くて怖くて心臓がバクバク言っている。

 それでも、脇目もふらずに走った。


「大人しくしろォ!」

「ああっ!」


 スカートを引っ張られて体勢を崩して地面に倒れ込んでしまった。

 バシャーン、と地面に溜まった水が飛び散る。


 もはや、逃げることは不可能だ。


「次逃げたら承知しねぇぞ!」


 服に泥水が染み込んでいく。

 それと同じように、私の心を絶望が侵食していく。


 この男の目的がなんなのかは分からない。

 しかし、おそらくは私の魔法の研究成果に関することだろう。

 どちらにせよ、無事ではすまないことだけは確かだった。


「オラ、こっちに来いッ!」


 男に右腕を掴まれて、無理やり起こされる。


 魔法が使えればどうにかできたかもしれないが、今は雨月だ。

 その上、夜通しの研究で体力も気力もそこまで残っていない。


 それでも、必死で抵抗を試みる。


「大人しくしやがれ!」


 グイグイと腕を引っ張られ、力の差を悟る。

 私の力ではとてもじゃないが振り切れない。

 それでも、とにかく抵抗し続けた。


 座り込む私を男が引きずるような形になったところで、男が足を止める。


「クソ、抵抗すんじゃねぇ! 仕方ない……傷つけるつもりはなかったが、抵抗するってんなら刺される覚悟はできてんだろうな!」


 男が右手に構えたナイフを振り上げた。


 恐怖でとっさに目をつぶる。

 そして、絶望のさなかで不意にをついて私の口から出た言葉は……


「助けて!!! 助けてキリー!!!」


 ここにいもしないキリーに助けを求める言葉だった。


 ザーーーーー。


 永遠のような圧縮された時間の中で、雨の音だけが響いている。

 いつまで経っても刺される衝撃は訪れず、私はゆっくりと目を開けた。


「クレアに手を出すんじゃねぇよ!!」


 そこにいたのは、正真正銘キリーであった。

 キリーは覆面の男の腕を掴んでおり、そこから右脚で蹴りを入れた。


「うぐぁッ」


 体格的には覆面の男のほうがキリーよりもかなり大きい。

 しかし、キリーの蹴りで男は吹き飛び、豪快に地面に倒れ伏す。

 吹き飛んだ衝撃で気絶したのか、男が起き上がってくることはなかった。


「大丈夫か、クレア!」

「キ、キリー! どうしてここに」

「昨日、部活のときに話しかけても反応ないくらい集中してただろ? 家を訪ねても帰ってないし、さすがに心配になって学院まで見に行くところだったんだ」


 そう言うキリーの顔を見ていると、ようやく助かったんだという実感が湧いてくる。

 そんな緊張の緩みと同時に、目から涙が溢れてきた。

 涙はすぐに雨と混ざって落ちていく。


 少しして、キリーが手を差し出してきた。


「……ありがとう」


 私はそっとキリーの手を取る。

 キリーは力強く私を起こしてくれた。


「無事だったなら礼なんか要らねえよ」

「キ……」


 私は”キミ”と言おうとして、言葉を止めた。

 実を言えば、キミという呼び方はキリーを名前で呼ぶのがなんとなく恥ずかしくて、そう呼んでしまっていたに過ぎない。

 でも、今ならキリーと呼んでも良いんじゃないかと、そんなふうに思えた。


「……キリーは強いね……私なんか……」

「それは嫌味なのか? お前は魔法だったら誰にも負けないだろ。これで身体能力までクレアが上だったら、オレの立つ瀬がないじゃんか」


 キリーが私のことを褒めてくれるなんて珍しい。


「怪我はないか?」

「うん、大丈夫」

「泥だらけだな、顔にも泥がついてるぞ」


 そう言って、キリーがそっと手で頬を拭ってくれた。

 いつの間にか、勝手に溢れていたはずの涙は止まっていた。


「ねぇ、キリー」

「ん?」


 これから私は変なことをキリーに聞くだろう。

 でも、これは夜通しの研究による疲れと、先程までの極限状況で冷静な判断ができなくなっているせいだ。

 仕方がない。


「キリーって、私のことどう思ってるの?」

「へっ!?」


 キリーが上ずった声を上げる。


「どう……どうって……その……」


 私はじっとキリーを見つめた。


「そりゃぁ! その……ス……ス……」

「ス……?」

「スキ……あー!!! スキ……が多くて、守ってやらないとなって思うよ!!」


 一瞬、キリーも私もことが好きなのかと勘違いしてしまった。

 そんなわけないよね。


 それでも、キリーは自分のことを思ったより気にかけてくれているようだ。

 そんなキリーの好意は、純粋に嬉しかった。


 それに、キリーの態度はどこか妙で……

 もしかしたら……

 希望的観測かもしれないけれど、ちょっとだけ夢を見ても良いだろうか。


「……ありがとう」

「いやっ、う、うん。ああ、くそ……」

「?」

「とにかく! 帰ろうぜ」


 そう言ってキリーが前を向いた時だ。


「あれ……雨、止んでる」


 雲の切れ間から朝日が差し込んでいた。

 しばらくお目にかかれなかった朝日の眩しさに、少し目を細める。


「やっと雨月も終わりか……ってあれ、なんか落ちてるぞ。クレアのか?」


 そう言って、キリーが地面を指さした。

 そこには何かがきらめいている。


 目を凝らせば、それは小瓶だった。

 私がポケットに入れていたはずの惚れ魔法薬の小瓶。

 きっと、倒れ込んだときに落としてしまったのだろう。


 でも、私はこう返答した。


「知らない。最初からここに落ちてたんじゃないかな」

「そうか、じゃあ雨も止んだことだし帰ろうぜ」


 雨月が終わる。

 あれだけ鬱陶しかった雨は、日の光を受けて美しく輝いていた。


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