やがて殺人は……

弦冬日灯

やがて殺人は……

 五月であった。

 飽きもせずに過ぎ去る季節に私も飽きてきた頃だ。あと少しで、終わるのだ。

 橋の欄干によりかかり、川を眺めている男がいる。その男の近くには、三羽のカラスが群がっていて、先ほどまでは五羽いた。そのカラスに、男は食パンを千切ったかのような小さくて白い何かを食べさせていた。


「オジサン、ちょっといい?」


 私は話しかけた。男からすれば、私とは初対面かもしれないが、私にとってはそうではない。悪夢を見るたびに顔を合わせている男だ。どのような事態が起きても私はこの男を忘れることはないし、この憎しみが泡沫のように消え去ることもない。


「……」

「黙っていても、別にいいよ。ハラ吾郎ゴロウ。心当たりはある?毎日、悪夢は見ていた?常に後ろめたい気持ちはあった?少しでも、あった?」


 原は、横目で私の顔を一瞥した。さて、誰だっただろうかと思い出しているのだろうか。もしかするとアイツかもしれない、なんて考えているのだろうか。原は果たして、少しでも、その心に罪悪感という物を覚えているのだろうか。


「誰だ、お前は」


 しわがれた声で、原はそういった。もう一度私を睨む目には、立派な警戒心や威嚇の意がこもっているかのように感じ取れた。


「探偵、エルココンガ。知ってる?有名になったの。初めましてこんにちは、『私の姉が随分とお世話になったようで』……」

「…………」


 確かに、額に汗をかいた。あくまでもポーカーフェイスらしきものは貫き通すというスタンスらしいが、心拍数が上がっているという事くらいは見て取れる。覚えているのだ。どこかで、逃げ切ったとでも思っていたのだろうか。


「長かったよ、十六年。私ももうオバチャンだ。『お前に姉を殺されてからな』」

「…………何の話だ」

「なんでとぼけるの?分かっているはずだよね。逃げ切ったとでも思っていたの?探すのには本当に苦労したんだよ、学生時代の半分をすべて捨てて、ただひたすら、お前を見つける為だけに生きてきたんだから。お前が今ものうのうとこの世界のどこかで日銭を稼いではどぶに捨てていると、考えるだけで吐き気がしていたんだよ」

「警察を呼ぶぞ」


 原は、ガラパゴス携帯を取り出すと、画面を広げ、まるで通報でもするぞと言わんばかりのそぶりを見せた。


「呼んでみたら?呼べるの?お前が。人殺しのお前が!」

「……」


 原は、携帯をポケットにしまった。


「お前は、私の姉を殺した。一九九六年、春。そうだ、丁度あの日も五月だったんだ。姉の誕生日だったんだ。お前はそれを知っていたか?私たち家族の間での取り決めで、誰かの誕生日には、他の家族で相談しあって一つのプレゼントを上げていたんだ。その年の誕生日は、音楽の好きな姉の為にウォークマンを上げようって話になっていたんだ。本当なら姉は、今でも音楽を聞けていた筈なんだ。それを殺したのがお前だ。お前が姉を殺したんだ。警察は言うだろうな、ただの家出だって。いまだに死体が見つかっていないもんな、どこにも。どこに行ったんだろうな」

「……」

「知ってるか?探偵ってのは、事件なんて一切解決しないんだ。ホームズやポワロや、神宮寺三郎のようにさ、難事件に立ち向かったりはしないんだ。私だって、普段は猫を探したり浮気を調査したりしているよ、だって探偵って名乗りたいんだから。そうすればさ、お前を追えるって思ったんだ。実際にここにたどり着いているようにな。何度振出しに戻ったものか、思い出すだけでキリがない」

「……何の話をしている」


 まるでしらばっくれるつもりらしい。原は、隣に止めていた自転車を立てかけ、乗ろうとしていた。私は荷台を掴んだ。逃がすわけがない。


「放せ」

「嫌だ」

「……」

「人殺し」

「……それで、どうするつもりだ?もしも俺が、知らんが、お前の姉を殺していたのだとして、どうするつもりだ?聞くところによると、死体は見つかっていないんだろう?それでは、事件にならないだろう。ましてや一九九六年の事件だなんて……」

「殺すの」

「……は?」

「敵討ち。お前を殺す」

「お、おい、何を言って……」


 私は、懐から取り出した果物ナイフで、原の心臓部分めがけて突き刺した。しかし、老人とは思えない瞬発力で、私の手を掴んだ。


「馬鹿野郎!この、クソ!」


 そのまま、私はあっけなく投げ飛ばされた。頭を欄干にぶつけ、一瞬だけ意識が飛んだ。気が付くと、今度は原が私に果物ナイフを向けていた。


「警察は?呼ばないんだ」

「フゥー……、フゥー……」


 息を切らしている原に向かい、私は足払いを仕掛けた。今度は原があっけなくすっころんだ。原も私と同じように頭をぶつけたらしい。老人にとっては致命傷だろうが、もはやそんなことは関係ない。

 私は、原から果物ナイフを取り返した。


「や、やめろ……」

「まずは、認めて?」

「……」

「謝って?」

「……ほ、本当にすまなかった……」


 私は、原の右の太ももに果物ナイフを突き刺した。原は悲鳴を上げた。川の向こうまで響いていた。


「お姉ちゃんもさ、お前みたいにさ、そうやって、ごめんなさいって言ってたか?それをお前は聞いたか?お前は殺したんだろう。お姉ちゃんをさ、優しくて、可愛くて、賢いお姉ちゃんをさ、お前はこうやって殺したんだろ!」


 原の太ももを再び刺した。


「こうやってさ、痛そうにしてるお姉ちゃんを無視してさ、殺したんだろ!」

「何回も何回も何回も刺したんだろ!」

「痛そうだ、お姉ちゃん、痛そう、痛そう……。痛そう!痛そう!」

「こうやってさ、刺した後にナイフをかき回したんだろ!」

「泣いて謝ってるお姉ちゃんに、それでもナイフを刺したんだろ!」

「知っているんだぞ!お前が何をしたか、すべて!すべて!燃やしたんだろ!?そして、消し炭を食ったんだろ!?知ってるんだ!吐け!吐け!吐け!吐け!」


 刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し刺し。

 気が付けば、私の周りには人だかりができていた。泣いている人間がいた。全員が蒼褪めているような気がした。目の前には、原吾郎がいた。とても赤くなっていて、内臓が飛び出ていた。ここまで出来たのか、と私は思わず感心してしまった。パトカーの音が聞こえてきたものだから、私はもうすぐで捕まってしまうのだろう。一人を殺したところで死刑にはならないだろうし、無期懲役という事もないだろう。十年や二十年なんて、私にはもはやどうと言ったこともない。私は、今までひたすらに悪夢のような生活を送ってきていたのだ。寝ても覚めても、姉の事ばかりを私は考えていた。寝ても覚めても、姉を殺した犯人を捜していた。その結果が、結末が、結局はこれなのだ。

 血の海の上でへたり込む私を見ながら、思った。

 世界とはどうやら、とても上手く回っているらしい。様々な物は、結局元のあった場所に戻るのだ。落ちたリンゴは木となるし、千切れた雲は雲となる。そういうものなのだ。

 最後にはせめて、音楽を聴いていたいと思った。私は姉の為に買ったウォークマンを取り出した。今となっては古臭い曲ばかりだが、それでも、姉にとっては全てが愛すべき曲であったのだ。私はその事実を忘れてはならない。

 全ては元に戻ったのだ。

 春は夏へと変わるし、夏は秋へと移る。季節は廻り、やがて春に戻るのだ。日は沈み月が昇っても、陽はまた登り繰り返す。

 もはや私は何処にもいない。血の海の上で横たわる私が見える。

 十六年の呪縛からやっと解放され、姉を救い、そして、やがて、殺人は……。

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やがて殺人は…… 弦冬日灯 @peppermint0528

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