#15 同じ世界では生きられない

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アシュラフはサラとの将来を考えていたが、サラの方から、二人でともに歩む将来はないと言われて衝撃を受ける。一夜の関係を持ったことを後悔はしていないといいながら、いったい何が不安なのかアシュラフには理解できなかった。しかしサラは研究者として生きることが唯一の望みだと言う。


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 アシュラフは、ダウンタウンにある石油会社の本社ビルのオフィスにいた。ゆうべは仕事が終わるのが遅くなり、サラたちが滞在している別荘に戻ることはできなかった。サラと話をしたいと思ったが、体と心の疲れをとるのが先だと考えた。まだ落ち着いて話をできる状態ではなかっただろう。よけいなことを考えさせて、負担をかけたくなかった。

 ビジネスや国のことは関係なく、将来を考えたいという女性に初めて出会った。彼女との未来……障害はまったくないではないか。彼女も石油会社の社長令嬢。リリアナ妃とは大学の友人だし、何をとっても遜色はない。ただそう感じさせないのが彼女の持ち味だが……。

 午後になり、国全体の仕事の能率が落ちる時間になったとき、デスクのインターホンが鳴った。今日は何か予定が入っていたか……。そう考えて通信ボタンを押す。

「地質学研究チームのサラ・トランセル様がお見えです」

 アシュラフははっとした。

「通してくれ」

 二、三分して、サラがオフィスに入ってきた。いつもの作業着だが頭にスカーフを巻いている。

「もう大丈夫なのか?」

「ええ、きのう一日、休みをもらってゆっくり眠ったわ。今日はこれからまた現場に行くけれど、その前に教授に頼んで車を回してもらったの」

「そうか……」

 ぎこちない沈黙が流れる。女性を前にして、何を話していいか戸惑うなんて、ティーンエイジャー以来だ。アシュラフは心の中で自分を苦々しく思った。

「あの、本当にありがとう。もしあのまま一人でいたら、命に関わったかもしれないとお医者様にも言われたわ」

「いや……それはあの晩、言ったとおりだ。君が砂漠に取り残されたと思ったら、いてもたってもいられなかった」

「アシュラフ……」

 サラは顔を赤くして目を伏せた。

「それから、これをありがとう。別荘に置いておけばいいと言われたけれど、とても細工のいいものだし、もしかしたら大事なものではないかと思って、あなたにじかに渡したかったの」

 彼女が持っていた袋には、きのう貸したアバヤがあった。それは妹のレイラーが別荘に残していたもので、とっさに持って行ってしまったものだ。

「この縫い取りはサウード家の紋章をアレンジしたものだ。妹がつくらせたんだが、もう長い間、着ていなかったようだから持っていった」

「じゃあ、やっぱりじかにお返しできてよかったわ」

「ありがとう。わざわざ」

 再び沈黙が流れる。アシュラフが声を出そうとした瞬間、サラのほうが先に口を開いた。

「あの、アシュラフ。先に言っておいたほうがいいと思ったから来たの。あの……夜のことは……」

 サラはいったん言葉を切って深く息を吸う。

「私はまったく後悔していないわ。あなたがどうしても欲しかった。でも……私たち二人の先があるとは思えない。ラフィーブは女性の貞潔をとても重んじると聞いたけど、私はアメリカ人。お互い合意の上なんだから、もしあなたが責任を感じているのなら、その必要はないと言いたかったの」

「どういう意味だ。責任を感じなくていいだなんて、僕が遊びで君を……」

 あまりにも思いがけない言葉に怒りがわいてきた。

「そうじゃないわ。あのとき、あなたも真剣だったと信じている」

「それならどうして、そんなことを言う? 戻ってからずっと、君との将来のことを考えていた。僕らが一緒になるのに、なんの障害もないじゃないか」

「……それはどういう意味? 私は研究所の一介の助手よ。あなたとは住む世界が違うわ。いまどき社会的地位とか身分とか関係ないというけれど、違う世界の人間が一緒になってうまくいくことは少ないわ」

「いや、君は自分をわかっていない。一介の助手? 君個人の肩書はそうかもしれないが、世間的にはアメリカでも五指に入る石油会社、トランセル石油の社長令嬢じゃないか。僕だって別に王族じゃない。基本的にはビジネスマンだ。気おくれすることなんかないだろう。僕たちはかなり近い世界にいるはずだ。きっとうまくいく」

 彼の言葉を聞いたサラの顔がすっと冷たくなった。

「アシュラフ……あなたは誤解をしているわ」

「誤解? 何を?」

「あなたは私が、ラフィーブの支配階級の男性とつき合うことに、ためらいを感じていると思っている。だから親の仕事のことを持ち出した。でも私はそういう評価をされるのがいやなの。アメリカの大企業の社長の娘という地位。それは私が自分で手に入れたものではないのよ」

 正面からにらむように強い視線を向けられて、アシュラフは内心で驚いた。いったい何が問題だというんだ。

「もし私たちが結婚したら、私があなたの世界に入ることを期待しているでしょう。ラフィーブのトップビジネスマンの妻として、社交界で役に立つ女性。あなたを支え、あなたとともに、ラフィーブの将来を考える。リリアナは王室の一員となり、求められた役割をきちんと果たしている。彼女自身がその素質を持っていたのと、キファーフ殿下からの愛情があるからできるのよ。でも私はあなたの世界に入ることは望まない。石油会社の社長の娘として求められることさえできなかったわ。研究員になって、ようやく自分の居場所を見つけたのよ。これが私が欲しかったものだわ。そう簡単には手放せない」

「サラ、それとこれとは話が違うだろう」

「そうかしら……」

「なんだって?」

「あなたはこれまで、恋愛も友情もビジネスに役立ててきた。ジャネットやコリーナとつきあっているのもそれが理由でしょう。それが国のため、家のためになることだというのもわかるわ。人の上に立つものの義務だという考え方も。でも、もし私がふつうの、たとえば農家に生まれた娘だったら、将来を考える気になったかしら」

 アシュラフは一瞬、ひるんだ。

「答えてほしくはないわ。私は研究員として働き、ごく当たり前に恋愛して家庭を持ちたいの。一国の政治や経済に関わるような、そんな器ではないのよ。今回の調査が終わったら、私はアメリカに帰って仕事を続ける。それが私の望み。それだけを言いたかったのよ」

 アシュラフの返事も聞かず、サラは踵を返して部屋を出て行こうとする。しかしドアを開ける前にアシュラフに腕をつかまれた。

「アシュラフ、放して!」

「いや、放さない。自分の言いたいことだけ言って帰るなんて許さない。あまりにも勝手な言い分だろう」

「どうして? あなたの世界に私は入れないと言っているだけだわ」

「……サラ、たしかに僕はこれまで人を利用してきた。そして利用されてもきた。だが君に会ってわかった。男と女にとっていちばん大事なのは……」

 そう言ってアシュラフがぐっと顔を近づける。体を密着させたとき、彼のスーツからかすかに森の香りがして、サラはくらくらとして体から力が抜ける。アシュラフはサラを強く抱きしめて、その唇を奪った。荒れ狂う嵐の中での夜を思い出し、サラの体がうずく。何度も角度を変えて、アシュラフは口づけをする。サラは頭の芯がしびれて、何も考えられなくなった。

「アシュラフ……」

「サラ、他のことはどうでもいい。僕は君が欲しいんだ。君もそうだろう?」

 アシュラフの言葉に、サラはうなずいてしまいそうになるが、わずかに残っている理性の断片がそれを踏みとどめた。

「だめよ……私は……」

 ここで流されてはだめ。サラは腕でアシュラフを押しのけ、走るように部屋から出て行った。


 アシュラフはあえて追いかけなかった。今の彼女には何を言っても無駄だろう。しかし必ず彼女の思い込みを解いて、彼女を手に入れる。そのために自分がやるべきことをやらなければ……。

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