#13 闇の中の甘いささやき

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サラが置き去りにされたと聞いて、アシュラフは思わず自分が助けに行くと名乗り出る。小さな小屋で一人耐えていたサラを見て、アシュラフは自らの思いを吐露する。サラもまたアシュラフが一人で助けに来てくれたことに心打たれ、彼の気持ちに応えたいと思った。


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 日がすっかり落ちた砂漠にぽつんと建っている小屋の中で、サラは膝を抱えて座っていた。風がどんどん強まるのがわかる。砂嵐が近づいているのかもしれない。

 自分が見つけたものに夢中になって、助手の存在を忘れてしまうのはブライトン教授らしい。悪意があったとは決して思わないが、今が危機的状況であるのは間違いない。

 昼間とはうってかわって、空気が冷え込んできた。それも時間がたつにつれてどんどん気温が下がっている。砂漠の天気は変わりやすい。このまま砂嵐になってしまったら、命に関わるかもしれない……。来る前に脅かされた言葉が、頭の中をぐるぐると回いる。

 いいえ。ここには少なくとも屋根と壁がある。これまでだって天気が不安定なときはあっただろうし、少なくとも壊れることはなかったのよ。ここで朝までじっとしているのがいちばん安全なはず。

 風はさらに強まってきた。何か他のことを考えていないと頭がおかしくなりそうだ。胸ポケットにささっていたペン型のライトをつけて、まわりのようすを見てみる。しかし、がらんとした部屋の中が見えるだけだ。そのとき、パンツのポケットに、アシュラフから預かった石が入っているのを思い出した。救いを求めるように石をポケットから出して、ライトの光を当てる。黒い滑らかな表面に、緑が浮き出して、星がきらめいているようだ。

「きれい……」

 まるでアシュラフの目のようだ。星がまたたく空を思わせる黒い瞳、それを縁取る濃いまつげ、浅黒い肌、抱きしめられたときに感じたたくましい胸……。あのキスを思いだすと胸が苦しくなる。彼の熱い唇の感触を、もう一度、味わいたい……。

 そのとき、ひときわ強い風が木の壁に叩きつけたかと思うと、ドアが大きく開いた。

「きゃっ!!」

 サラは恐怖にかられて、思わず大きな声を出してしまった。

「大丈夫か?!」

 鋭い声とともに、男性が一人で入ってきて、風に逆らいながらばたんとドアをしめた。

「だ、誰なのっ?」

 暗闇の中で顔が見えない。しかしその声には安堵させる何かがあった。

「アシュラフだ。サラ」

「アシュラフ? あなた、いったいここで何を……」

 サラの心臓が大きく跳ねた。

「君が砂漠に置き去りにされたと聞いて、迎えに来た。車も動かないし、天気も荒れそうだ。砂漠に慣れていない者でないと無理だ」

 そう言いながら、持っていた袋から大型のブランケットを出してサラを大きく包んだ。サラの無事をたしかめるように、ぎゅっと上から抱きしめる。サラの息が止まった。だが、サラはあわててすぐに身をはなし、しっかりとブランケットを体に巻きつけた。じわりと温もりが伝わってきて、サラは深く息をついた。そして一瞬の抱擁を思い出すと、頬が燃えるように熱くなった。

 横ではアシュラフがランプを取り出して火をつけている。オレンジ色の光がともると、優しくまわりを照らし出した。

「よくがんばったな」

 サラが目を上げると、濡れたような黒い瞳と視線が合った。さっきまで思い焦がれていた目だ。安堵と恋しさで緊張感が一気にほどける。サラの感情が涙とともにあふれだしてきた。

「アシュラフ、怖かったわ……私、私……」

「わかってる。この暗闇に一人ぼっちで、怖くないほうがおかしい」

 頭までかぶった毛布の上から、そっと撫でられ、サラの感情が爆発した。

「アシュラフ!」そしてサラはアシュラフの胸に飛び込むと、声をあげて泣いていた。

 外では強風が吹き荒れている。がたがたと音をたてる小屋のドアや壁。けれどもとなりに彼の熱を感じるだけで、こんなにも安心できるなんて。さっきまでの恐怖をすべて吐き出して、サラは少しずつ落ち着いてきた。しばらくうとうととしてしまったのだろうか。風がひときわ強くたたきつける音に、サラははっとした。いつのまにか安心しきって、体をアシュラフに預けていたのに気づき、ぱっと体を離す。

「ごめんなさい!」

「いや……」

 アシュラフはまったく動じることなく、穏やかな声で答えた。

「あなた、ここまでどうやってきたの?」

 ふと冷静な思考がよみがえる。車は使っていないとさっき言っていた。屋敷からは一五キロほどの距離で、天候がおだやかな時なら車で二〇分もあれば来られるが、まさか歩いてきたわけではないだろう。

「らくださ」

「らくだ?」

「砂漠を旅するにはいちばんいい。スタミナもあるし、荷物も運べる」

「今も外にいるの? こんなひどい天気の中で大丈夫なの?」

 アシュラフはほほえんだ。

「もともとは野生の動物だ。雨や風や嵐の中で、生き残ってきた動物じゃないか。小屋のそばには風をよける岩もある。大丈夫だ」

「そうだったわね。きっとあなたも、砂漠のことはよく知っているという自信があるから来てくれたんでしょうけど……でも危険なことは変わりない。従者もいないんでしょう? どうしてこんな危険なことを……」

「来ないほうがよかったか?」

 やさしい声で彼が言う。

「いいえ! でも、ただ……あなたに万一のことがあったら……」

「そんな心配をしなくていい。ラフィーブの男はみんな戦士として育てられる。支配層の男ならなおさら、国を守り、王を守り、女性を守ることが義務だ」

 義務……。サラの心は沈んだ。きっと、彼は誰であっても助けようとしてくれるのだ。そう思うと、いっそう切なくなってしまった。

「……たしかに誰かほかの者に行かせることもできた。だが、君が一人で砂漠にいると思ったら、いてもたってもいられなかった」

 アシュラフの言葉はまだ続いていた。はっとしてアシュラフの顔を見あげた瞬間、二人の視線がぶつかった。そしてサラは黒い瞳にとらわれていた。

「他の誰でもない、自分が来なければという衝動にかられたんだ」

「それは……」乾いた声がサラの唇からこぼれ落ちた。

「サラ」

 アシュラフはサラの瞳をじっと見つめる。その目にランプの炎が映りきらめいている。

「君はほかの女性たちと違う」

 そっと顎に手をあてられ、上向かされると、サラののどはからからに渇き、声が出なくなってしまった。

「僕はこれまで、国や家の利益のために、つきあう人間を選んできた。君に最初に興味を持ったのも、アメリカの石油会社の社長令嬢だったからだ」

「……ええ、わかっていたわ」

 遠くから自分の声が聞こえるようだ。

「しかし君を見ているうちに、どんどん惹かれていった」

 熱い息とともに、アシュラフがそっと唇を重ねてくる。

「誇り高く負けず嫌いな君から目がはなせなくなったんだ」

 サラの頭の中は真っ白になっていた。全身から力が抜けていく。

「そして君は美しい」そう言ってアシュラフがキスを深めようとした瞬間、サラはどうにか顔をそむけた。

「いいえ、美しくなんてないわ」そして、顔をうつむける。

 その顎をふたたびとらえて上向かせると、アシュラフは強い視線でサラをとりこにした。

「美しくないなんて、君は自分をまったくわかっていない」

 問答無用といわんばかりの強い言い方に、サラは息をのんだ。

「文化交流会のパーティーでラフィーブの服を着た君はとても美しかった。まわりの男たちもみな、見とれていた。それは僕も同じだ」

 サラは恥ずかしくなった。あのときはすべて美容院でやってもらった。自分でも自分ではないように感じていたほどだ。

「そしてこのあいだ、屋敷の庭で石の話をしていたとき、君の瞳は星のように輝いていた。その輝きに僕は魅了されている」

 アシュラフの目もとがやわらいだ。

「アシュラフ……」この人は、笑うとなんて優しい顔になるのだろう。

「僕のまわりには、よくもあしくも似たような人間ばかりが集まる。合理的でスマートで冷静だ。それは決して悪いことじゃない。しかしそことは違った世界があることを、君を見ていて思い出した」

 指でついとサラの顎をなでる。すると、まるで愛撫されたようにサラの全身に熱がかけめぐった。サラはうわずった声でこたえた。

「アシュラフ、それはかいかぶりよ。私は……そんな特別な人間じゃない」

「僕だってそうだ。ごくふつうの弱みを持った人間だ。なるべくそれを隠そうとしてきたけれど、君といると安らぎを感じる」

 そう言ってアシュラフはサラの背に手をあてると、ぐいと引き寄せた。サラは抗うことなく、彼に身を寄せる。

「本当に?」

「ああ」

 アシュラフはサラの顔を両手で挟み、自分の顔を近づけて、もう一度唇にそっとキスをした。そこからしびれるような感覚がサラの全身に走る。

「んん……」

 吐息にあおられるように、アシュラフがキスを深めていく。体中に熱が回り、さっきまでの寒さはまったく感じない。お互いの胸の鼓動が、聞こえるようだ。

「サラ、僕は君が欲しい……」

 彼のささやく声が、脳のどこか遠くに突き刺さる。彼の言葉に、熱に酔いしれて、サラは何も考えられなくなってしまった。

「アシュラフ……私もあなたが欲しいわ……」

 気づくとそう口に出していた。

 そうだ。私はずっと彼を欲しかった。理屈ではない。人間としての本能的な部分で……彼が欲しい……。

「サラ」

 アシュラフはサラの名前をささやくと、そっと毛布を開いて床に広げ、優しくサラを横たえた。サラは腕を伸ばしてアシュラフの首に巻きつけると、離れていた温もりを取り戻そうとするかのように強く引き寄せた。

「アシュラフ……」

 外で荒れ狂っている嵐も、もうすでに二人の頭の中から消えていた。

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