#10 戸惑う二人

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アシュラフは衝動的にサラにキスした自分の気持ちをはかりかねていた。恋に溺れるようなことはこれまでなかったし、あってはならないことなのに……。サラもまたどうすればいいのか戸惑っていた。そして二人の迷いをさらに深める女性の存在が……。


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 アシュラフは高層階にある自分のオフィスで、昨晩のことを考えていた。なぜあのとき、彼女にキスをしたのだろう。月明かりを浴びて輝く彼女の瞳は美しかった。深い青の天上でひときわ明るい光を放つ星のように。それを見たとき、急にその星を手に入れたいという強烈な衝動をおぼえたのだ。

 まったく自分らしくない。この国の支配層として生まれ、国や家のために生きることが当たり前と思ってきた。恋愛をしても激しい感情で判断を誤るようなことがあってはならない。

 デスクの上のインターホンが音をたてる。

「なんだ」

「ジャネット・ラウ様がお見えです」

 落ち着いた男の声が響く。ラフィーブでは宗教上の理由から、男性と女性がビジネスの場でも同席することはほとんどない。どこでも男女別が基本だ。アシュラフの秘書も、気心の知れたベテランの男性だ。

「アシュラフ」

 部屋に入ってきたジャネットは紺のパンツスーツで、頭には髪を隠すためにスカーフを巻いていた。

「やあ。いつも外国人用のホテルやパーティーでしか君を見ないから、そういう姿は新鮮だな」

「外国の文化や習慣は尊重するわ。会社に肌を露出したかっこうなんかで来たら、社員の信頼を失ってしまうでしょ?」

「よくわかってくれていて、うれしいよ。それで今日はどんな儲け話を持ってきてくれたんだい?」

「あら、私には商売の話しか期待してないの?」

「そういうわけではないが、僕と君との間にあるのはまずビジネスだから」

「たしかにね。でもそうでない話もあるわ。私としては、そろそろ返事が欲しいのだけれど」

「ああ、その話か」

 今はあまりしたくない話だと、アシュラフは思う。

「ええ。アシュラフ、前から言っているわよね。私とあなたが結婚すれば、誰にとっても大きな利益があるのよ。もちろんあなたと私にとっても」

「それは認めよう」

「それなら、なぜ返事をずっと引き延ばしているの。重要なことを決められないのは、リーダーとして失格なんじゃないかしら」

 アシュラフはジャネットを見た。相変わらず言いたいことをずばりと言う。それだけはっきりしているのは、自分にとっても好ましい。しかし結婚となると話は別だ。

「もしかして宗教の違いがまずいということかしら? ラフィーブ家の跡取りたるものが、東洋の女と結婚するのは許されない?」

「そういうことではない」

「そうね。キファーフ殿下はアメリカ人と結婚しているし、あなたの妹のレイラーも、イギリス人と結婚したわ。それなら結婚に踏み切れない理由は何なの?」

 アシュラフも結婚は愛情のみで決めるものとは思っていない。まだ落ち着きたくないというような理由で、答えを出さないわけではないのだ。

「……このあいだ、イギリスの貿易会社が一つ倒産した。ラフィーブとは取引はなかったが、それまで倒産の徴候などまったくなく、驚く人が多かった」

「いいかげんな経営が表に出ない会社もあるわ」

「いや、大きくはないが、地道で堅実なビジネスをしていた会社だ」

 ジャネットは黙って、じっとアシュラフを見つめた。

「ラウ家が経営する貿易会社のライバルだったことは、もちろん知っているだろう?」

 ジャネットが両眉をあげて、肩をすくめる。

「それがどうしたというの? ビジネスに競争はつきものだわ」

「それが公平な競争なら。あの会社の倒産は、むしろ罠にはめられた可能性が高いと、僕は思っている」

「あなたが思っているだけよね」

「ああ、今のところはね。僕だってビジネスの世界に入っていろいろなものを見てきた。きれいごとばかり言う気はない。しかし自分の会社、自分の家族が関わるとなれば、慎重になる。今のラウ財閥のやり方は、ラフィーブのビジネスと相いれないと言わざるをえない」

「堅いわね。でも国王や政府がそういう姿勢なのだから、しかたないのでしょうね。いくらラフィーブ金融界を左右するサウード家も、国からにらまれるようなことはしたくないというわけ」

「ラフィーブがここまで発展したのは、現国王の方針のおかげだ。サウード家もそれに共鳴して、王室を支えてきた。僕もそれが正しい道だと思う」

「わかったわ。それは父に伝えておきましょう。私たちにとっての課題ということね」

「ジャネット、それは……」

「でもビジネスのやり方の違いだけが、私との結婚を渋っている理由なの?」

 アシュラフがけげんな顔をする。

「どういう意味だ?」

「ゆうべのパーティーで、あの地質学研究員とあなたとの親密な姿を見たわ」

 アシュラフが片眉を上げる。

「浮いた噂も多いあなただから、大して気にするようなことではないかもしれないけれど、これまで浮名を流した女性とは、だいぶタイプが違うみたいだから、どういう心境の変化かしらと思って」

「プライバシーについて、他人に話す必要はないな」

「あら、そういうところも西欧風なのね。答える気がないのはわかった。結婚の返事については、また改めてうかがいに来るわ。でも私もそれほど長くは待てないのよ」

「わかった。お互いにとっていちばんいい結論を出すよう努力しよう」

 ジャネットはもう一度、肩をすくめて出て行った。


 閉められたドアを、アシュラフはじっと見つめる。彼女は結婚すべき相手ではない。それはずいぶん前からわかっている。返事を延ばしているのは、会社の利益や相手への思いやりのためではない。彼女のうしろには、世界経済にまで大きな影響力を持つラウ財閥がついている。そのビジネス手法は、清廉潔白とはいいがたい。自分が彼女との結婚を断ったとき、自分の会社だけでなく、国がどのような影響を受けるか、それほどの損失を被るか読み切れない。それがアシュラフをためらわせている理由だった。


 パーティーの翌日から、サラたちは現場での鉱物採集に戻った。ラフィーブ滞在期間は短い。土曜も日曜もないのだ。サラは体力には自信があった。外での作業が何日続いてもそれほど苦にはならない。おまけに今回は、アシュラフの別荘というホテル並みの屋敷に滞在しているのだ。夜にゆっくりバスに浸かるというぜいたくが許されている。

 それなのにちっとも能率があがっている気がしない。気づくとぼんやりして、石とは別のことを考えている。

 自分の心を乱している原因はわかっていた。

「アシュラフ……」あのキスはいったいどういう意味だったのだろう。彼は私に好意があるのだろうか。いいえ、彼はプレイボーイとして有名な人だ。砂漠でのロマンチックなムードに、ただ二人で酔ってしまっただけよ。彼も、そして私も……。

 そう考えて、なんとか研究に集中しようとする。それでも気持ちの乱れが態度に出てしまっていたのか、小屋で昼食をとっているとき、トニーにたしなめられた。

「サラ、疲れているのかもしれないが、砂漠ではちょっとした気のゆるみが大きな事故につながることがある。ましてやここは外国だ。気をひきしめてくれよ」

「ごめんなさい。気をつけるわ」

 サラは素直に謝って、持参してきた水を少し多めに飲んだ。暑い中で水分が不足したら、さらに頭がぼんやりしそうな気がしていたからだ。午後は少し小屋から離れるし、外に出るときも水筒を持ち歩いていたほうがいいかしら。でもそうすると、一日分の水が足りないかもしれない……。

 そんなことを考えていると、急にドアが開いて陽気な声が聞こえた。

「失礼します。みなさん」

 全員がドアのほうを見た。すると白い綿のサファリルックに、頭に白いクトゥラを巻いている。髪が隠れているので一瞬、誰だかわからなかった。

「やあ、マイケル。どうしたんだい?」

 トニーが最初に声をかけた。

「うん、鉱物採集風景を記録するために、少しカメラを回させてもらおうと思ってね。それから水と食べ物の差し入れがある」

「それは助かるな。思っていたより暑くなって、水が足りなくなりそうだった」

 マイケルは愛想よく笑って、車から荷物を運ぶ。ずいぶん気配りのできる人なんだわ。リリアナがあれだけ信頼しているのだから、やはり有能な人には違いない。サラはてきぱきと動く彼を見ながら、そう思った。

「それから、コリーナ・バシナスから伝言がある。明日の夜、彼女の家の船に招待するってさ。作業が終わる時間に案内係をよこすから、居場所を教えておいてほしいって」

「え? 作業場から直接?」

「ああ。別にフォーマルでも何でもないから、Tシャツと短パンでいいよ。シャワーも風呂もあるし、そのまま食事して、遊んで、帰りはまた車でアシュラフの別荘までおくってくれるそうだ」

「ずいぶんぜいたくね。そんなことまでしてもらっていいのかしら」

 マイアが心細そうに言う。研究員としてこれほどの待遇を受けたことがないから、うれしさより先に不安を感じるのだ。

「気にすることはない。宣伝活動の一環さ。僕もそのようすをばっちりカメラに収める。スターテレビのラフィーブ特集で、バシナスの豪華客船が映されるってわけだ」

「まあ、そういうことなら……」

「それからアシュラフを誘う口実でもあるしな。上流階級っていうのは、いろいろ思惑があるのさ」

 マイア、チャールズ、トニーが顔を見合わせて肩をすくめた。

 作業をまた開始しようと外に出ると、マイケルがサラに小声で話しかけてきた。

「サラ、ちょっと」

 その深刻そうな口調に、サラは思わず身構える。

「何? どうかしたの?」

「ほら、これ使って」

 彼はそう言って、小さなチューブを差し出した。

「これ、何?」

「日焼け止め。研究熱心なのはいいけどね、この国の日差しはお肌の大敵よ。ふだんのファンデーションだけじゃだめ。強力なやつだから、始める前にちゃんと塗っておきなさい!」

 そう言うと、そのチューブを彼女に押しつけて、車のほうへ歩いていってしまった。サラは日焼け止めのチューブを持ったまま、しばらく呆然としていた。大きなお世話だと思ったが、なんとなく笑える。

「ありがたく使わせていただくわ」

 そうつぶやいて、顔にクリームを塗っていると、少し気持ちが軽くなり、研究への集中力が戻ってきたように思えた。

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