#09 星空の下でのキス

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アシュラフと二人だけで話していると、サラはついふだんなら聞かないことを聞いてしまう。結婚もその話題の一つだ。アシュラフは面倒がらずにていねいに答えてくれる。砂漠に落ちている隕石らしきものを見ているうちに、宇宙に二人だけが残されたような不思議な気分になり、いつのまにかアシュラフとキスしていた。


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「すごいわ……私の故郷のテキサスでも星は見えたけど、まったく違う……」

「不思議だな。同じ宇宙を見ているはずなのに」

「ええ……ここはまるで本当に星の川が流れているみたい」

 地面が乾いているせいだろうか。空がずっと深い海のような色合いで、水のような豊かさを感じさせる。

「幼いころは砂漠の民の家で星を見るのが好きだった」

「砂漠の民って、あのダナ王女が嫁いだという?」

「アメリカではリリアナ妃の話とともに、ダナ王女のことも有名になったようだな」

「ええ。とてもロマンチックですもの。王女としての立場を捨てて、愛する人と一緒になるなんて」

「そう……とても美しい話だ。ラフィーブ王族としては初めてのことだ。それができたのは国王と王妃の寛大さのおかげだろう。キファーフ殿下も賢明な結婚をしたし、現在の王室は盤石だ」

「賢明って……。キファーフ殿下は本当にリリアナのことを……」

「ああ、本気で愛しているだろう。愛情と王族の利益が両立した稀なケースだ」

 やはりこの人にとっては、愛情も利益も同じくらい大切なのね。サラは失望を感じた。彼自身、“賢明な”結婚をするのだろう。

「さっきジャネットという人に会ったわ……」

 アシュラフは意外そうな顔でサラを見た。

「ああ、彼女も来ていたな。誰かが紹介してくれたのか?」

「ええ、マイケルが」

「あの赤毛の?」

「そうよ。彼はとても顔が広いみたい」

「リリアナ妃の元同僚だと聞いた。テレビ局の人間なら、さまざまなコネクションを持っているだろう。アラブ語ができるから、今回の学術交流会のコーディネーターを依頼されたと言っていたな。ジャネットの実家も力のある家だから、知っていても不思議はないが」

「それで……あなたとジャネットが結婚するかもしれないと……」

「僕とジャネットが?」

 アシュラフは特に驚くでもなく言う。

「社交界のゴシップでは、そうなっているようだな」

「あなたを見ていると、ゴシップだけではないように思えるわ」

 私はいったい何を言っているのだろう? アシュラフの結婚なんて、私にはまったく関係ないのに。

 第一、大してよく知りもしない人のプライバシーを詮索するなんて。これじゃまるで嫉妬してるみたいに聞こえてしまう。

 そうわかってはいても、なぜか言葉がするりと口をついて出てしまった。これはきっと、隣から伝わってくる熱のせいだ。アシュラフがほとんど接するほど近くにいるから、ふだんの私でいられない。

「たしかに……彼女と結婚すれば、誰にとっても都合がいい。彼女の家、僕の家、国家にとっても。特に資源開発に力を入れようとしているラウ家は、中東への足掛かりを欲しがっている」

「その足掛かりを結婚でなんて……いいえ、それだけドライに徹することができるなんて、かえって尊敬に値するかもしれないわね」

「そういうところも彼女の魅力だ。あそこまで割り切れる人間は、男でもあまりいないからね」

「だから、彼女と結婚を……」

 アシュラフが少し笑ったような気がする。

「それはまだなんとも言えない。国や家の利益のためにはいいと言っても、やはり結婚はそれだけではできない。家族になるということは、ラフィーブの人間にとっては特別なことだ。一生をともに生きるという誓いを立てることだから」

「それは……離婚の多いアメリカ人への皮肉かしら」

「まさか。国や文化によって価値観はさまざまだ。離婚が多いのは非難されることではない。ただラフィーブでは離婚はアメリカほど簡単ではない。それなりの覚悟、信頼、そしてもちろん愛情がなくてはならないということだ」

 アシュラフの言葉にサラはほっとした。いくら合理的とはいっても、彼は冷酷ではない。

「しかし君は鉱物にばかり関心があると思っていたが、多少は人間関係にも多少は好奇心があるようだ。興味深いね」

 ずばりと指摘されて、サラはかっと体が熱くなった。恥ずかしい……。人の結婚のことを根ほり葉ほり聞くなんて、いつもの私らしくない。しかもそれを当の本人から指摘されてしまうなんて!  

「私、失礼なことばかり言っていたわね。ごめんなさい! お願いだから、今の会話は忘れて」

 サラはいたたまれなくて、ベンチから立ち上がった。これ以上、みっともないまねをする前に彼から離れたかった。

 一歩踏み出したところで、腕をアシュラフにつかまれた。

「いや、失礼なんかじゃない。ラフィーブでは結婚は重大事で、よく話題にのぼる。しないほうがおかしいくらいだ」

 そう言いながら、もう一度、座るようにサラをうながす。つかまれた腕が燃えるように熱い。

「ただ君は、最初に会ったときから鉱物か仕事の話しかしなかったから、個人的なことは話したくないのだと思っていた」

「それは……」

「アメリカではあまり個人的なことを話題にするべきではないというのは知っている。ただ世界中がそうだとは限らない」

「そうかもしれないけど」

「別に僕が気を悪くしているわけではないと知っておいてくれ」

 アシュラフの底知れない黒い瞳がサラの視線をとらえた。吸い込まれてしまいそうで、サラはくらくらした。「それならいいけれど」

 少し声がかすれてしまった。

「それじゃ、君が素直に楽しめる話をしよう。ちょっとこっちへ来てくれ」

 ふいと視線をはずし、アシュラフは彼女の腕を持ったまま、ベンチのうしろに引いていく。そこはオアシスを模した人工の小さな池があり、木が何本か植えてあった。アシュラフは彼女の手を放すと、腰をかがめて、地面の上の何かをさぐっていた。

「ほら、これだ」

 彼はおもむろに立ち上がって、サラのほうを向いた。近い距離で向い合せになって、サラの胸は高鳴った。アシュラフが目の前に手を差し出す。そこにはちょうど手のひらに収まるくらいの大きさの黒い石が乗っていた。

「これは?」

 サラは彼の手の上から石を取り上げて、じっくりと見た。光沢があり、ガラスのような素材に見える。しかし脆そうな感じはしない。片手で持ち上げて月明かりに透かして見る。かすかだが、その光を感じる。

「これは……もしかしたら、隕石かしら?」

「さすがだな。正式に調べたわけではないが、おそらくそうだと思う。ラフィーブの砂漠ではときどき、隕石らしきものが見つかっている。これまで他国と交流があまりなかったから、ほとんど外に出ていないだろう」

 本物の隕石は収集マニアも多く、また学術的にも貴重なので、喉から手が出るほど欲しがる地質学者は多い。どこか知らない星のかけらが地球に降ってきているのだ。

「もしこれが本当に隕石だったら、とても貴重なものだわ。ラフィーブの研究者がじっくりと腰を落ち着けて調べたほうがいいと思うの。でも……こちらにいる間だけ、調べてみてもいいかしら」

「ああ……そうだな。では僕の私有地にあったものを、君に予備調査を依頼したということにしておこう。研究者の競争もなかなか熾烈なんだろう?」

「そうよ。成果を出さなければ消えていくという世界だから、みんな必死よ。地質学は調査に時間がかかるから、のんびりしているように見えるけど、有望なテーマを見つけたいとみんな思っている。でも……ラフィーブにあるものはラフィーブの財産だわ。もしかしたらとても大きな発見に結びつくかもしれない。それを地元の研究者から奪ったりはしたくないの」

 そう言うとサラは照れたように目をそらした。

「もちろん……大発見にはならないことがほとんどなんだけど。ちょっと自意識過剰なのよね。研究者として」

「いや、研究者もそれくらいの気概がほしい。ビジネスもそうだ。成果はあげたい。しかしそれはフェアな戦いが前提だ」

「そうね」

 サラは思わず笑顔になる。ふだんそんなことを言うと、何を青臭いことをという目で見られることが多いからだ。照れくさくなって、渡された石をもう一度、月明かりにかざしてみた。真っ黒に見えたが、光を浴びるとところどころにグリーンの部分が見える。それがステンドグラスのように透明な光を発しているのだ。

「なんてきれいなのかしら……何か特別な石かもしれないわ」


 誰に言うともなくうっとりと石を見つめているサラを、アシュラフはじっと見つめていた。彼女はこれまで会った女性たちとまったく違っている。ラフィーブにも女性の医者や学者はいる。けれども女性の地質学者は見たことがない。もちろんその学問が、ラフィーブではまだ普及していないということでもあるが……。文学や音楽や美術、あるいはファッションではなく、石や空が何よりも好きな女性。今日はクリーム色の膝丈のドレスを着ている。他の招待客にくらべれば地味でシンプルなデザインだ。けれども石を見ている彼女は、内側から発光しているように見えた。アシュラフは、ふいに石をかざしている彼女の手を取った。

「え?」サラが驚いて、思わず声を出す。

「気に入ってもらえたようでよかった」

 ささやくような声でアシュラフが言う。男らしい顔がすぐ近くにあって、サラは心臓が飛び出しそうになった。

「……とても、すてきだわ」

 サラのグレイの目に月明かりが反射すると、白い光となり、まるで空に浮かぶ星のようだ。お互いの顔を見つめ合っていると、周囲のすべての景色と音が、遠く離れていってしまうようだ。一瞬、世界には空に浮かぶ星々と二人だけしか存在しなくなる。

 アシュラフはサラの手を握ったまま、もう一方の手を腰に回してそっと引き寄せた。一瞬、サラが体を引こうとしたが、そのまま放さずにいたら、ゆっくりと彼のほうに体を預けてきた。アシュラフはその顔を上げさせて、その唇に自らの唇を重ねた。


 熱く柔らかい唇の感触に、サラはぼうっとなっていた。いったい私は何をしているの? 会ったばかりの人なのに。一国を支える立場にあって、個人的な感情よりもビジネスや国の利益を優先する人なのに……。それでも惹かれるのを止められない。この熱さから離れられない。

 急に強い風が吹いた。熱も冷めるほどの寒さに、サラが思わず身をすくませる。アシュラフは優しく、だが熱をこめて重ねていた唇を離して、風から彼女を守るようにぎゅっと抱きしめた。ゆったりとしたカンドゥーラを着ているとわからなかったが、厚い胸板のたくましさと、これまで知らなかったエキゾチックな香りに包まれ、くらくらとした。

 アシュラフの指が顔に触れたとき、サラははっと意識を取り戻した。誰かに見られていたら! そんな常識的なことを忘れていた自分が恐ろしい。体をぱっと放して、アシュラフの体を押しのける。

「もう、パーティー会場に戻らないと……」

 アシュラフも止めようとはしなかった。

「そうだな。砂漠の夜は寒い。あまり長く外にいないほうがいいだろう」

「石はお預かりするわ。帰国のときにはお返しするから」

 サラはアシュラフの目を見ずに、小走りで屋敷の中に戻っていった。


 サラのうしろ姿を見ながら、アシュラフは深い息をついた。いったいどうしたというのだろう。これまで西洋の女性とつきあいがなかったわけではない。男性とのつきあいを制限されるラフィーブの女性とは違い、積極的にアプローチしてくる女性も多いし、彼女らとつきあうマナーも心得ていた。だが彼女には、そのようなものを超えた魅力を感じている。国の違いがごく小さなものに感じるような、同じ地球の上に住んでいる者としての共感をおぼえるような……。

 そう思ってアシュラフは苦笑した。地球の仲間とは、またずいぶんスケールの大きいことを考えたものだ……。

 アシュラフは軽く首を振って、屋敷の正面玄関に向かって歩き始めた。だが、その姿をうしろから見つめていた黒い瞳には気づかなかった。


 バンケットルームに戻ったサラは、のどがからからに渇いていた。まっすぐドリンクカウンターに行って、冷たいジュースをもらう。アルコールを口にする気にはならなかった。すでにアシュラフという強い酒に酔ってしまっている。

「サラ、あなたどこへ行っていたの?」

 ちょうど飲み物を取りに来ていたマイアに声をかけられた。

「少し風にあたりに外へ……」

「ああ、中は少し暑いものね。個人宅のパーティーなのに人が多すぎるわ。上流階級って、こういうものなんでしょうけど」

「そうね。きっと政界やビジネス界の人たちが来てるんでしょうけれど、外国人にはわからないし」

「でもあなたは、こういう社交の場には慣れているんじゃない? お父さまは石油会社の社長、ラフィーブ第二王子の妃が友人。実はけっこうセレブよね」

 マイアの言葉に皮肉や妬みはなかった。むしろサラの地味さをからかっているように聞こえる。

「やめてよ。父はたたき上げだし、うちは基本、労働者よ。兄たちも父にこき使われているわ。うちでやるパーティーなんて家庭的で、こういう洗練された雰囲気ではなかったし」

「ふふ、セレブもいろいろね。私たちみたいな学術の世界の人間には、ちょっとなじみにくい世界かもね」

「ええ。でもブライトン教授みたいな人もいるけれど」

「まあ、教授は特別ね」


 教授はドリンクカウンターの反対側で人に囲まれている。二人でそちらのほうを見ていると、華やかなピンク色のドレスを着た若い女性が話しかけてきた。

「ブライトン教授の研究チームのかたなの?」

 二人が振り返ると、肌の色が抜けるように白い、金髪の美しい女性がいた。

 この人、たしか文化交流会の会議にも来ていた……。あの場所で、一人だけ浮いている印象があったから覚えていたのだ。そのあとマイケルに、たしかギリシャの船舶会社の社長令嬢だと言っていた。

「ええ。私はマイア・レイノルズ、こちらはサラ・トランセル。ブライトン教授の助手として調査に参加しているの」

 年長のマイアが如才なく紹介してくれて、サラはほっとした。

「私はコリーナ・バシナス。このあいだ教授と少しお話したわ。地質学のことなんて何も知らなかったけど、でも教授の話はとても楽しくて意外だったの」

 マイアとサラは顔を見合わせる。

「交流会議にもいらっしゃってましたよね。何か地質学に関係のある機関でお仕事でも?」

 若くても名家の人間なら、研究機関の名誉会員のような形でスポークスマンを務めることもある。しかしコリーナは肩をすくめて笑顔のまま言った。

「いいえ。私はただ……アシュラフがいるから来ただけよ。彼はビジネスマンだけど、意外に天文学や地学も好きなのよね。男のロマンっていうのかしら? それで私も少しは理解できるようになるかしらって、来てみたの」

 まったく興味のない学問の研究会に、好きな男性のためだけに来てしまうというのは、それはそれですばらしい行動力のような気がする。

「あとは……父の会社の宣伝かしらね。父は造船会社を経営しているんだけど、ラフィーブとはつながりを持っていたいみたい。ラフィーブは砂漠のイメージが強いけれど、実は海にも面しているから、海運は重要なんですって」

「それはそうね」

 ああ、彼女もやはりビジネス上の関係なのか。それでもあっけらかんと、それを逆手にとって、好きな男性に近づく手段にしてしまうのは、むしろ好感が持てた。したたかというより、健気にさえ見える。

「港に客船を停泊させているから、近いうちにみなさんもご招待するわ。船の上なら、この国ではしにくいこともできるわよ。気晴らしにはなると思うから、楽しみにしてて」

 そういうと、にこやかにほほ笑んで、ドレスを翻して去って行った。サラはマイアと再び顔を見合わせた。アシュラフのまわりには、ああいう女性がたくさんいるのだ。サラはなぜか、胸がふさがれるような息苦しい気分になった。

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