#07 らくだに乗ってシークに抱かれて

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馬に乗り慣れているサラは、らくだに乗ってみたいか聞かれてすぐ乗りたいと答えた。わくわくしながららくだに乗ると、あとからアシュラフが乗ってきて、自分が乗り方を教えると言う。うしろから抱かれるような姿勢になり、胸の鼓動がおさまらない。らくだの上から見る景色には、地面から見たものとはまったく違う壮大さがあった。


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 らくだのそばにはサラだけでなく、他の助手も来ていた。アメリカでは見なれない動物だけに、近くで見たいと思うのだろう。

「遠くで見ているよりずっとでかいんだな」アジア系で小柄なチャールズが言う。

「そうね。馬には何度か乗ったことがあるけど、かなり勝手が違いそうね」

 マイアの言うとおり、らくだが立ち上がったら馬よりはるかに高い位置に視線が来ることになる。しかしサラはひるまなかった。

「私に乗らせてもらえるかしら? 馬だったら乗りなれているの」

 周囲からおもしろがるような歓声があがる。サラはかがんでいるらくだのこぶに登るようにしてまたがった。

「ほう。威勢がいいな」

 従者が手綱を持ってらくだを立ち上がらせようとした瞬間、張りのある低い声が聞こえた。従者があわてたように腰をかがめる。

「アシュラフ……」

「馬に乗るのは慣れているということだが、鞍がないから最初はバランスがとりにくい。私が同乗して乗り方を教えよう」

 アシュラフはそう言うと、返事もきかずにサラのうしろに腰かけて、従者から受け取った手綱を引いた。らくだが立ち上がるとき、サラの体が大きく傾いた。

「きゃっ」思わず大きな声が出る。

「大丈夫だ」

うしろからたくましい腕にぐいと抱え込まれた。服を通して彼の体温が伝わってくる。絶対的な安心感……。その熱に包まれると、体がリラックスした。

「脚でこぶを強く挟むようにするんだ」耳元でささやかれる声が心地よい。サラは大きく息を吸った。

 サラの緊張が解けるとらくだもリラックスしたのか、ゆっくりと落ち着いて歩き始めた。それでも揺れは大きく、乗り心地がいいとは言えない。だが、周囲を見回すと、さっきまで自分が写真を撮っていた崖の地層が、どれほど壮大なものだったかようやくわかった。

「すごい……まわりはこんな景色だったのね。小さな石や鉱物ばかりに目が行って、全体がまったく見えていなかったんだわ」

「まじめな人間ほど視野が狭まってしまうことがある。ときどき研究とは関係ないところから対象を見ることも大事だろう」

「そうかもしれないわ」サラは微笑んだ。しかしその瞬間、アシュラフと密着していることに気づき、急に胸の鼓動が速くなった。手綱を持つ彼の手が自分の手に触れると、そこが熱を持つ。顔に血が上り、のどが渇いてきた。

「あの……このあいだはきれいなお花をありがとう」

「ああ。あれは私の非礼のお詫びだ。礼を言わなければならないのは私のほうだ。兄上からはすぐに返信が来た。今すぐ何かするという話ではないが、違う国の文化やビジネスのやり方を知れば得るところがある」

「あなたにとって、人間関係はすべてビジネスに結びつくものなのね」

 皮肉でもなんでもなく正直な気持ちだったが、言ってしまってからはっとした。一国の経済を支える大物に、ひどく失礼なことを言ってしまったのではないか。

「……私自身は、それが国を豊かにし、国民を幸せにする道だと信じている」

「国民?」

「あなたがたはすでに豊かさを手に入れているが、私たちの国はまだ国全体が豊かになったとは言い難い。だからこそシーク・マルルークが一部の富裕層だけでなく、多くの国民が豊かに暮らせるような策を次々と実行している。しかしそれを支える資金を、いつまでも石油に頼っているわけにはいかない」

 彼の行動の基盤には、ただの金儲けではなくもっと大きな目的があったのだ。

「あなただって、自分の研究がいずれ人類や、あなたの父上の会社のためになるとは思わないか」

 そうアシュラフに問いかけられた。

「そんな……私はただ石や鉱物が好きなだけ。目的があって研究所にはいったわけではなくて」

「ああ……たしかに本来、学問というのはそういうものだな。何かを知りたい、何かを解明したいという欲求に基づくものだ。人類のためとか、お金のためとか、そういうことを考えるのが不純かもしれない」


 サラは何も答えられなかった。本当に自分は、したいことをしてきただけだ。家とは関係ないところに行きたいという逃避もあったかもしれない。それで間違った選択をしたとは思わないが、大きな目的があったわけではない。サラが黙ってしまったのを察したのか、アシュラフが声の調子を変えて言った。

「余裕がでてきたようだな。もう少し走らせてみるか」

 アシュラフが手綱を強く引くと、らくだが目を覚ましたように早く歩き始めた。急に勢いがついたので、サラはこぶをつかんだ腕に力を入れた。まわりの風景が飛ぶように去っていく。少し顔をうしろに向けると、アシュラフがおもしろそうに笑っている。

「大丈夫だ。決して落とすようなことはしない。そのままバランスを保つんだ」

 おそらくアシュラフにとっては大したスピードではないのだろうが、サラはつかまっているのがやっとで、それまで考えていたことも、頭の中から飛んでしまった。

 一回りしてもとの場所に戻ってきたとき、サラの心臓は早鐘のように鳴っていた。それが恐怖からなのか、アシュラフと密着していたせいなのかはわからない。

 従者がらくだをかがませるとき、また大きく傾いたが、足を地面につけた安堵感のほうが大きかった。膝ががくがくしていたが、アシュラフに弱みを見せたくなくて、脚に力を入れて彼の目をまっすぐ見つめた。

「どうもありがとう。とても楽しかったわ」

 強がっていても、声が震えている。

「それはよかった」

 声は穏やかだが、笑いをこらえているような目だ。この人は、わりと子供っぽいのかもしれない。サラは呼吸を整えながら思った。

「ところで、別荘での滞在はいかがです?」

 アシュラフがそばにいたトニーに尋ねる。

「とても快適です。野外調査に来て、こんな快適な宿に泊まれるのは初めてです。なにもかもすばらしい」

「不足しているものは?」

「まったく。あの場所で熱いシャワーの恩恵に浴せるなんて、思ってもみませんでした」

「たしかに砂漠では水はぜいたく品だ。しかしあの場所にはちょうど水が出た。それで本格的に井戸を掘り、誰でも自由に使えるように解放している。今は少数しか残っていないが、遊牧民が移動するときなどの救いとなっている」

「それはすばらしい。しかし水の存在が争いの種になることはないのですか。ラフィーブにはいくつかの異なる部族がいると聞いていますが」

 アシュラフは気を悪くするでもなく、少し考えて答えた。

「そのとおり。かつての部族間の争いは、水や食物をめぐるものがほとんどだ。おかしな話に聞こえるかもしれないが、そういうときは絶対的な権力者が管理するのがいちばん効率がいい。今のラフィーブでは王家であるシャイフ家が絶大な権力を持っていて、その井戸も正式には政府、すなわち王家の管理下にある。もしこれを私欲のためのみに使ったら、あっという間に反乱が起きるだろう。しかし王があくまでそれらを預かるという形で国民に共有させているから、不満は生じていない。とても賢明なやり方だろう。ラフィーブはまだ民主主義が機能する段階にはない。これはアメリカ人には理解しがたいことかもしれないが」

 研究員たちは感心したようにうなずいた。

「ラフィーブの近年の発展の理由がわかるような気がします」

「王への称賛の言葉として受け取っておこう」

 アシュラフがかすかにほほえみ、言葉を続ける。

「週末にあの別荘で小さなパーティーを開く。みなさんにも参加していただきたい。ごく気楽な集まりだ。調査の疲れをとって楽しんでいただければ幸いだ」

 そう言うと、アシュラフはまた従者たちとともに、らくだに乗って去って行った。

「気楽な集まりと言ったって、私たちにとっての“気楽”とは意味が違うんでしょうね」

 マイアが彼らを見送りながら、しみじみと言った。


 アシュラフはらくだの歩を進めながら、さっきまで一緒に乗っていたサラの反応を思い出してほほえんだ。必死でらくだにしがみついていながら、降りたら何事もなかったように「楽しかった」と強がる。いつも女性にあんなことはしないのだが、彼女を見ていると、ついからかいたくなる。自分がまだ少年だったころ、国や家の利益とは関係なく、友人たちと好きなだけ星を眺めていたころを思い出す。彼女自身が人間関係に利益を求めていないからだろう。

 そんな気持ちはずいぶんと忘れていた。

 アシュラフはサウード家に生まれた者として、家や国を第一に考える習慣がついていた。しかし必要以上に、そうしたものに縛られていたのだろうか。そして、サラの体がこれ以上ないくらいしっくりなじんでいたことに今になって気づいた。

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