第8話 結婚願望

 許せなくて悔しくて、梨央は寝室を飛び出し、リビングのソファで夜を明かした。翌日が休みでよかった。こんなクマの出来たご面相では接客できない。きっと化粧もうまくのらないだろう。

 夫が夜中にトイレにでも起きたのか、寝室のドアが開く音がしたけれど、リビングへ足音がやってくることはなかった。

 今まで一番酷い暴言だった。そして、梨央はこんな酷いことを言える人間がいるという事に心底驚いていた。それが自分の夫で家族なのだということにも重ねてショックを受けていた。

 幸人と結婚したときのことを思い出す。

 夫は交際している時は普通に優しい男だった。ちょっと独占欲が強いな、と思う部分が有ったけれど、それはむしろ愛されている証だと思っていた。

 結婚すれば幸福になれるだろう。何も、とてつもないセレブな生活やドラマチックな生活を望んでいるわけではない。普通の、ごく一般的な幸福。誰でも手に入れることの出来るそれが、結婚の先にあると思っていた。

 しかし蓋を開けてみれば。次男だと聞いていたから安心していたのに、夫の兄である長男は嫁と共に外国へ赴任しほとんど帰ってこないそうで、次男の幸人が跡継ぎのようなものなのだと言うし。

 夫は自分の地元に赴任し、親孝行になるといって孫の顔を見せると、家庭をかえりみないひとになった。幸せにするよ、と言ってされたプロポーズの影には、梨央の知り合いが皆無な赴任先に連れて行くという魂胆があったのだ。

 仕事仕事と言っているが、何をやっているかわかったものじゃない。時々女物の香水の匂いをさせて帰宅している夫に、嫌悪感を覚えていた。

 挙げ句の果てには、セックスレスで、あの暴言だ。

 あれだけのことを言われては、もう夫婦の関係を改善しようと言う気は失せるし、結婚生活を続けることさえ嫌になる。

 幸人が欲しかったのは、梨央が望むようなあたたかい家庭を作る妻じゃなかった。

 自身の親を満足させる跡継ぎを産んでくれる妻。

 大人しく言うことを聞いて付いてきてくれる妻。

 用が済めば女とは思わない家政婦になってくれる妻。

 別に愛している女じゃなくてもよかったのだろう。そういえば、まだ会社勤めしていた時に聞いたことが有る。

 給湯室の、同じ女子社員のお喋りだった。まさか、影で本人である梨央が聞いているとは知らずに話していたのだろう。

「実は、あいつがプロポーズして受けてくれた女の子って、梨央だけらしいよ・・・。今まで何人も振られてるって噂。」

 社内でそんな噂が流れていたとはそれまで知らなかった。

 それでもその時は、梨央も結婚願望があったので、気にしなかったのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る