薄紅
また季節が過ぎた。雪が溶け、暖かい日差しが差し込む、春。俺は大学二年になった。そして相変わらず、俺の彼女はとてもかわいい。
今日は少し早いけれど、咲き始めた桜を見に行こうと思っている。もちろんお姉さんも一緒に。久々のデートになるので、朝早くに目が覚めてしまった。楽しみである。
今日はお姉さんの家まで俺が迎えに行くことになっている。行くこと自体は三度目だが、いつも遅くなった帰りを送っていくだけだった。果たして玄関先で理性を保てるか心配ではあるが朝イチのお姉さんを拝めるのは彼氏の特権だと思う。幸せだ。
小さめなアパートの一室のチャイムを鳴らす。はーいという声が聞こえ、パタパタと駆けてくる足音の後ガチャと目の前のドアが開いた。
「おはようございます浅緋さん……!」
「おはようございます、準備はもう大丈夫ですか?」
「はい、たぶんもう大丈夫です」
少しばかり顔の横の髪が跳ねているが、それもかわいいので許す。どうしてこんなに俺の彼女はかわいいんだろうか。最後の砦の理性を全力で働かせて、お姉さんを抱き締めるだけに済ませる。
「あ、浅緋さん?」
「すいません……ちょっとしばらくこうしてていいですか」
いわゆる猫吸いと同じ感じである。お姉さんのことを抱き締めて息を吸い込む。柔軟剤とシャンプーの匂いが微かにする。
「浅緋さん、そろそろ……」
うわずったそんな声が聞こえた直後、向かって右側から鍵を開ける音とドアを開ける音がした。
「……あら、朝から熱烈ね」
ふふ、とお姉さんのお隣さんは笑ってこちらに背を向ける。完全に見られた。
ばっと腕からお姉さんを解放すると、お姉さんは恥ずかしそうに顔を背ける。しばらく気まずさに二人とも黙っていた。
「い、行きましょうか、桜」
「……はい」
機嫌を損ねてしまったら申し訳ないが、全てはお姉さんがかわいいせいである。
まだ時期には早いためか、桜が綺麗なことで有名なこの公園にも人はまばらである。けれど桜は6分咲きくらいではあるが綺麗に咲いている。
お姉さんは目を輝かせて、いつもより大きめなバッグから取り出した少し大きめのカメラのレンズを桜に向ける。
「すごいですね、そのカメラ。自分で買ったんですか?」
「いえ、父からもらったものなんです。まだあんまり使ったことはないんですが、せっかく桜を見るんだからと思って」
「いいですね、俺も写真撮るか」
スマホを取り出して、桜の方にカメラを向ける。画面に薄いピンクが溢れた。
「わぁ、スマホがピンク色まみれみたいですね」
俺のスマホを覗き込み、そう言って笑うお姉さん。なんだかいつもよりご機嫌な感じだ。
「綺麗ですね」
「はい、とっても」
「お姉さんもピンク色でふわふわで、いつものことですけど綺麗ですよ」
そう言うとお姉さんは固まって顔を赤らめた。またそうやって俺の理性を試す真似をする。
「あ、浅緋さんも、かっこいい、です」
直接言うのは恥ずかしいとでも言うようにカタコトでそう言ったお姉さん。今日が俺の命日だろうか。幸せすぎる。
「とりあえず、桜を見ましょう!」
「そう、ですね」
その公園の中は、散歩ができる小道の横に桜が植えられている。ゆっくり散歩して周りながら桜を見ようということになり、二人で並んで桜を見上げながら歩く。
「道が花びらでピンク色ですね」
「ほんとだ、ピンクの絨毯みたい」
風がさっと吹き、お姉さんの長めの髪をさらっていく。やっぱりいつ見てもお姉さんはかわいいし綺麗だなと改めて思う。
その時、落ちてきた花びらがお姉さんの髪にちょんと乗った。お姉さんは気づいていないみたいだ。
「あの、お姉さん」
「はい?」
「ちょっとだけじっとしててください」
俺は手を伸ばして、髪の花びらを取ってあげる。ぱっと離すとひらひらと落ちた。
「はい、大丈夫です」
「あ、ありがとうございます」
心做しかお姉さんの顔が赤い。
「……顔、赤くないですか」
「え、えっとその……今の、恋愛小説とかでよくあって、ちょっと憧れてたんです」
なるほど、そういうことだったか。
「そうだったんですね」
「そういう、ことです」
小さく言って、そそくさと先に歩いていってしまうお姉さん。
「あっ、ちょっと待ってくださいよ」
毎日のドキドキに慣れることができるのは、いつになるだろうか。
小道の先には、大きな桜の木が待っていた。こちらもまだ六、七分咲くらいであるが綺麗に咲いている。
「わあ……綺麗」
「ですね、立派だなあ」
お姉さんは桜にカメラを向け、俺はそんなお姉さんを見守る。幸せな休日だと思った。
「浅緋さんは写真、撮らなくてもいいんですか?」
「俺はさっき最初に撮ったので」
「……じゃあ、自撮りというやつをしませんか、二人で」
「撮りますか」
隣に並んで、カメラに向かって笑顔を浮かべる。ポーズはどうしましょうとお姉さんが言ったので、普通にピースでいいんじゃないでしょうかと返す。
はい、チーズと撮影ボタンを押し、シャッターが切れる音を聞き届けて画面を見る。微笑んだ二人が桜をバックに並んでいた。
「思い出ですね」
「はい、なんか嬉しいです」
「もう少し、写真撮ってきてもいいですか」
「もちろんです。俺はここから眺めてますね」
それを聞き届け、お姉さんは小走りに桜に近づく。ファインダーを覗き込み、うっとりと桜を見つめることを何度か繰り返す。
「やっぱり綺麗ですね、浅緋さん」
お姉さんがこちらを顧みて、そう言う。その姿が、どうにも言えないほどに美しかった。
写真に収めたい景色だったが、俺のスマホはお役御免であろうと思って既にカバンの中にしまってある。けれどまるでフィルターがかかったように明るく、美しく見えたその姿を、俺は網膜に焼き付けて、一生忘れることはないと思った。花の名前を与えられた彼女に、これ程までに似合う景色はない。
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