白雪
慣れない靴は嫌いだ。背伸びして買ったパンプスも、今まで使っていたものから新調したスニーカーも。慣れることができればそれまでだけれど、それまでのいろいろが嫌いなのだ。
今までと違う、地面を蹴った時の跳ね返り。少し歩きづらく感じること。靴擦れが多くなること。
でもそれでも、ピカピカの新品の靴を見ると履きたくなって、出かけるのが途端に楽しみになる。人はなんだか単純だなと思う。
そして今日、私は背伸びして買ったパンプスを履いて、ある駅で浅緋さんを待っている。いつものスニーカーの方がよかったかなと少し痛むふくらはぎを思って後悔するけれど、何せ今日は、浅緋さんとのお出かけなのだ。少しくらいいつもと違くてもいいんじゃないかと思って履いてきたパンプスなのだから我慢しなければ。
薄いピンク、桜色のエナメルのパンプス。今住んでいるところに来てすぐ、近くの服屋さんを見ていた時に一目惚れした。その時まだ大学を出てすぐだった私にとってパンプスは大人の履き物だったが、これは買わなければと頭に謎の声が鳴り響いた気がして、奮発して買ってしまったのだ。こうしてまた履くことができて嬉しい。
わくわくしすぎて、早くに駅に着いてしまったが、そろそろ待ち合わせとして決めた時間から十分が経とうとしている。大丈夫かなと心配になるけれど、連絡を入れて焦らせてしまったら申し訳ない。あと少し経ったら一度電話をかけてみようと思い、時計から目線を手元の本に落とす。
その時、私の方に近づいてくる足音が聞こえた。浅緋さんかと思って顔を上げると、見知らぬ二人組が目の前に立っていた。
「お姉さん、今暇なの?」
「え、えっと」
「一緒に遊ばない?」
「私、今待ち合わせで……」
「でも相手来ないんでしょ? 俺たちと遊んだ方が楽しいって」
これは、いわゆる『ナンパ』というやつだろうか。初めてのこと、フィクションだと思っていた出来事にどう対処しようかと頭がキャパオーバーになりかける。
本を持っていた手に触れられそうになり、思わず手を引っ込めてしまう。
「なんだよ、もう無理やり連れてくか」
「や、やめてください」
ぐっと腕を掴まれて、息が詰まる。嫌だ。
視界が滲んだ時。
「あの、そこのお二人さん」
「あ?」
「……俺の彼女になにしてるんすか」
剣呑な声が聞こえた。
振り返ると、浅緋さんの姿があった。
「んだよ、彼氏持ちか」
「つまんねーの」
そう言ってそそくさと離れていく二人組。呆然とだんだん遠ざかるその後ろ姿を見ていると、視界がなにかに塞がれた。きつく肩を抱き締められる。
「すみません、待たせちゃって……しかもあんなになってるとか思わなくて」
「いえ、大丈夫で……っ」
息が詰まり、目頭が熱くなる。こんな街中で泣いてしまうとは情けない。
「怖かったですよね……すみません」
その浅緋さんの声に、私は首を横に振るしかできない。
違う、怖かったのもあるけれど。自分でなんとかできなかったのが不甲斐ないのだ。
「落ち着いたら、カフェにでも入ってなにか飲みましょうか」
優しい耳元の声に、私はますます涙腺が緩んでしまうのだった。
始まりこそいろいろとあったが、その後は何ともなくお出かけを楽しむことができた。すっかり暗くなってしまった夜道を、控えめに指先を絡ませながら二人で歩く。
「楽しかったですね」
「はい、誘っていただいてありがとうございました」
「イルミネーションが綺麗ですね、これぞクリスマスって感じ」
「……こういうの、憧れていました」
恋愛小説でよくある、クリスマスのイルミネーションを恋人と一緒に見るシーン。ずっと恋人がいなかった私にとっては憧れでもあった。いつか私にも、ああいう恋人ができたらと。
「お姉さん、失礼だとは思うんですけど……今まで恋人とかは?」
「いいえ……浅緋さんが初めて、です」
私は恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「な、慣れないので、お手柔らかにお願いします」
「……お姉さんが可愛すぎて手加減できないかもしれないですね」
その言葉に驚いて浅緋さんの方を見ると、バッチリ目が合ってしまった。予想していなかった真剣な瞳に面食らいながらも目が逸らせない。
絡まった指先が解かれ、彼の左手が頬に触れる。ふっと目が細まり、顔が近づく。
唇に湿った感触。小さく聞こえたちゅっ、という音。
しばらくぽかんとしていたけれど、浅緋さんの赤くなった表情を見て、一拍置いて体中の熱という熱が顔に全部集中していくような感じがした。
今のは、いわゆる『キス』というやつだろうか。
しばらくお互いに見つめ合いながら黙っていたが、耐えられなくなったのか浅緋さんがぶんぶんと首を横に振って大きめな声をあげる。
「か、帰りましょう! こんなところに突っ立っていて、邪魔になったら申し訳ないですし」
「そうですね、名残惜しいですが帰りましょうか」
彼は私の手をぎゅっと握った。心做しか指先が熱い気がしたが、きっとお互い様だろう。
冬であるというのに肌の火照りは収まることを知らないけれど、なんだか幸せだと思った。やっぱり私は、浅緋さんと惹かれあってよかったと心の底から思う。
こんなに素敵な恋人ができて果報者だと思いながら、私は彼の手をそっと握り返した。
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